SSS | ナノ


 笑いが込み上がる。愚かな選択をし続けた者の末路を見ている気分だ。
 死に物狂いで働き、周囲の人間に媚びへつらい、身を粉にして。慣れない業務に焼かれ、摩耗する精神を取り止め、貴女は一体、何がしたいのか。
 そうだ、何も愚かな選択ではなかった。ただ、最終的にはそうだと判断されただけだ。
 彼女は疲弊していた。積み重なる責務と労働による困憊、それらによって肉体が耐えられず、自室に辿り着く直前で意識を飛ばした。
 ――馬鹿な女だ。
 寝具の上に横たわる女の顔を見やる。なにやら、ひどく血色が悪かった。白い肌と言うには、些か青みが強い。
 あの桃色が、無い。肌を彩るための透けた血の色が、無いのだ。
 死に体のようだと思った。私はその屍未満の身体を、魂の抜けた肉の器だと感じたのだ。微かに上下する小さな胸が私の率直な感想を否定する。
 死んではいなかった。それに安堵してどうする。誰が彼女をここまで酷使した。
 私たちか。
 そっと、彼女の頬の輪郭に指先を這わせる。花を掬うよりも繊細な心持ちでそれは行われた。指先が震えていたのではない、彼女の覚醒を忌避していたに過ぎない。
 何故。
 伏せられた瞼は微動だにしなかった。
「……なまえ、」
 この名を口にして良いだろうか。私の舌が穢れはしないか。歯は。口腔は。唇は。神は私がこの女の名を口遊むことを赦すだろうか。
「なまえ」
 呼びかけではない。存在の確認とも違う。不動であることへの期待。無反応を望んでいる。
 なまえは、深い眠りに落ちていた。緩やかな寝息を立てて、静かに生きている音だけを私の耳に流し込んでくる。後程、医療班に連絡を入れなければ。
 廊下で彼女を見つけたのが私で良かった……良い訳があるものか。
「……なまえ、」
 起床を促しているのではない。求めているのは最悪の想定とは真逆のことだ。
 私は彼女に、惰眠に落ちたままでいてもらいたいのだ。
 私がこれからなまえに行おうとしていることは、誰にも知られてはならない。無論、彼女自身にも。
 息を吐く。その吐息は誰の肌にも触れずに宙に溶けて消えた。
 両掌でなまえの柔らかい頬を包む。耳朶を愛撫すれば多少は身動ぐか。指先の間で耳を挟んでもなまえは何の反応も返さなかった。
 無防備なその寝顔が、ひどく滑稽で、不細工で、痛々しい。唇もかさついており、薄皮が少しばかりめくれていた。
 ――こんなに、なるまで。
 朝な夜な働けと誰が言った。人不足を理由に若い肢体に鞭を打ち食事も儘ならぬ状態で業務に励めと何故言える。
 ――ああ、然し。
 彼女は、私の為にこうなった・・・・・・・・・・のだ。確信は、あった。
 気の強いなまえのことだ、私が休めと言って素直に従う女ではない。
 潰してやろうと思った。
 そして、潰した責任をとってやろうとしたのだ。
 人理や世界の為でも、他の誰かの為でもなく、この私だけの為に。身を粉にし風に撒こうとした彼女を、掬い取ってやろうと。
 私は眼前で深い眠りの水底に落ちたその事実を、無性に…………何だ……分からない……。
 強いて言うのならば、手元に置いておきたい……そう思った。
 常にこのアルジュナと行動を共にすれば……働きすぎることもなく……例えば、そうだ、日々の睡眠、行動管理さえも……。
 脳内を不埒な思考が駆け巡った。それは束縛とはまた違う欲求だ。
 彼女を……そう……私の……一部にしたい。
 さすればこのような事態にはならなかった。労働の末に倒れ睡眠すらとれぬ身体にはならなかった筈だ。
 元はと言えば、彼女はただ、私に反発したかっただけの人間だ。反発するための材料を手に入れようとしてまで、私の意思にそぐわぬ行動を望んだ。
 彼女は私のことを入念に調べよく解析した。データの照合から史実の確認まで丹念に行った。それらは機関に提出するためのものではなくあくまで個人的な欲求からだろう。私が言及されたくない出来事についてを日々の嫌味の中に込め、目の下を紫で縁取り勝ち誇った顔をする。
 彼女は私のことを感心するほどによく知っていた! 彼女が短い人生の中で今一番興味を引く対象がこのアルジュナであったのだ! 他の者であれば彼女がここまで熱を入れる必要など無かった。私は! 私はなまえという女にとって障害であったのだ! それを乗り越えるために彼女は努力を惜しまなかった。
 これは罪にもなり得ることだ。民衆の目を掻き集め、神の寵愛を賜るこの俺が! おまえに目をつけ、おまえを取り込みたいとしている。
「――ふ、ふ、ふ」
 自身の含み笑いが、なまえの肌を撫でているのを感じる。随分と深く腰を折っていたようだった。
 視界いっぱいに広がる女の顔は、やはりひどく青白かった。不健康な身体で私の隣を歩くつもりだろうか。健全で健康的な身体に作り変えてやらなければ。
 命を吹き込む。熱を、分け与える。
 カチリと、歯車が噛み合った音を耳にした。何かが外れた音にも、嵌め込まれた音にも聞こえたが、私にはどうにも、歯車が噛み合った音に聞こえたのだ。
 多大な業務をこなし、私の忠告に反する為だけに私のことを調べ上げ、困憊の末に倒れるなど。
 愚かな女だ。
 私が顔を離してからも、女の瞼は閉じられたままだった。


 弓を構え、一体何秒経ったのか。撃ち抜くべき対象を見据え、精神を研ぎ澄まし、私が矢を放つまで――秒も必要はない。
 一瞬で良い。矢をつがえられるだけの時間さえあれば、私は対象を射抜くことが出来る。魔力の込められた炎を振り撒き、風を切って、敵を裂く。贅肉を蓄えた腹に大きな穴をあけた巨人を見て、即座に次の敵を肌で察知する。
 右岩の陰にひとつ。外套がはためく。瞼を開く。敵を捕捉する。頭部の位置を確認。距離を計算。構え。標的に照準を合わせる。
 そこからは、私の領域である。
 神経の溜まる渦を掻き回す。それは外側に行けば行くほど激しく、内側に行けば行くほど緩やかに、そして静かになる。切り詰める。切り詰める。切り詰める。中央のさらに中央、そこに安息の地、無を、視る。
 常人ならば弓を構えたと同時に矢を発射したと認識するだろう。間違いではない。然し正解とも違う。
 炎を撒いた。青く染まった魔力が翼を広げる。標的を中心に、そこ一帯を焼いた。延焼した先に何が見える。
 やはりいけない。シミュレーターなどでは到底、私の渇きは飢えない。
「アルジュナ」
 背後より、若年の声を受ける。振り向けば、暗い顔をしたマスターがそこに立っていた。その足取りには焦燥が見えた。
 訓練を一時中断とし、マスターの元へ向かう。何やら興奮している……いや、気が動転しているのか、マスターは震えた声で私の気を引いた。
「なまえさん……目を、覚ましたん、だけど」
「そうですか。それは喜ばしい」
 その言葉に嘘偽りは無かった。私は確かに喜ばしいことであると感じていた。あれから適切な処置を受けて回復したのか。早速彼女の元に向かい、労いの言葉を浴びせて――。
「なんだか、魂が、抜けた、みたいに、何も言わなく、て、ずっと、ぼんやりしてて」
 ――魂が、抜けたみたいに?
「アルジュナ、なまえさんと、よく話してたよね。だから、何か知ってるんじゃないかって、ダ・ヴィンチちゃんが……倒れてるなまえさんを見つけたあとも、何度か部屋を訪れたって聞いたし……」
 思考が止まっていたのか、感覚を研ぎ澄ましていたのか、判断はつかなかった。マスターの話が途切れ、感覚にして二秒ほど経って、「そうですか」と口にしたことは憶えている。
 マスターを気遣う言葉をかけたあと、私はすぐに彼女の部屋へと向かった。恐ろしかった。彼女が私を見てなんの感情も抱かぬ人形になっていたら……そんなことは万が一にも起きて欲しくないと願ってしまった。何故彼女は“何も言わない”のか? 私には見当がついていた、気付きたくはなかった、然しそうとしか考えられずにいる。
 部屋の前、定型文を口にし、静かに入室した。冷静を装うにも頭の中は混沌としていて、どうにも落ち着かない。
 どうやらなまえは起床していたようで、上体を起こして静かに呼吸をしていた。頭を下げ、膝の上で軽く組んだ両手を見ている。傍目から見れば気が落ち込んでいるだけの女だ。だのに、何か、その場に必要なものが、無い。
「ア、ルジュナ……さ、ん?」
 彼女のひどく不安定な声に、心臓が軋む。
「……あは、ばかでしょう、身の程知らずが、自己管理を怠って倒れるとか、とんだ笑い話ですよね」
 違う。
 違う。
 違うだろう。
 貴女はそんな気弱な人間ではない。虚勢の張り方だけは人一倍。己の弱みを一切見せない筈だ。
 私は――『なにしに来たんですか』、その一言を聞くためにここへ、来たというのに。
「アルジュナさんの言うこと、聞いておけばよかったですね」
 貴女が自分の行いを恥じるなど、そんなことあってはなるものか。いつだって自分が正しいのだと胸を張って噛み付いてくるあの高慢な女が! 私の言葉を鵜呑みにして己を省みている!
 違う違う違う! 私はこんな弱り切った女に興味はない! あの傲慢で高飛車で威勢の良さ以外に取り柄のない女をこの手で飼い慣らし服従させる予定だったものを! この期に及んでまだ虚勢を張る女を、この唇から放たれる正論で串刺しにしてやるつもりだった!
 そして、その僅かな綻びから漏れるこの女の一番弱い部分を、受け止め、懐柔し、私の視界に留まらせる予定だった。
「アルジュナさん?」
 私を、私をそんな目で見るな、期待の眼差しを……疲労しきった顔で己の弱みを曝け出すな、私はそこにつけ込むために今までおまえの行動に口を挟み続けて来たのではない!
 神の手すらも届かぬものを手に入れようとしたのだ。言いなりにならぬ無礼者を自分の手で抱きとめてみたかった、然し、ここでもまた、私は己の望みを叶えられることはない。
 与えられた好機を掴むことも重要だ。与えられぬ好機を自ら作り上げそれを勝ち取りたかった、達成感というものに羨望があった、すべてにおいて誰の介入も協力もなくこの女を手に入れることだけを考えた!
「それほど口が利けるのでしたら、問題ありませんね。安心しました。では、ご無理なさらぬよう」
 心を打ち砕かれたあとの貴女を捻り潰したかった。弱みを見せようとしない貴女の一番柔らかいところを知っているのは自分だけだとしたかった。蜜にも似た言葉をかけられて、女の溶け出す瞬間を晒すおまえが見たかった!
 うすぼんやりとした顔のなまえは、驚いたような表情を作ったあと、静かに寂しげな色を浮かばせた。
 私の知るなまえとは、違う女に成り果てたようだ。
 背中越しに受けた呼び声に、何の感情も抱かなかった。女の困惑した声色は、私の残り滓ほどの興味を削ぐのに充分で――腹に、大きな風穴が、あいたような。胸ではないどこかが、ひどく寒かった。 

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -