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 いやだ、やめて。なまえさん、いかないで。そっちに行ってはだめ。
 なまえさん。だめ。そっちはだめ。
 ――わたしと一緒にいて!

 乳白色の靄の中、確かに彼女の姿を視認した。見覚えのある、白魚にも似たその左手に、わたしはどうしようもなく焦がれている。掴もうと手を伸ばしてみても、それはわたしの指に絡まることなく、吹いてもいない風に乗っては視界の端へと逃げて行く。
 その度にわたしは、どうにも不安になって、嗚咽にもならない声で小さくしゃくりあげては唇を噛んだ。彼女を引き止められるかもと、意地の悪い考えのもと泣いていたのかもしれない。涙ひとつで動く心など、そこに無いことはわかり切っているのにだ。

 呪詛じみた言の葉で唱える。無論、胸の裏側で。自己暗示ではない、自分に言い聞かせるための誓いを立てている。誓いとは、一体誰のために立てるものなのか。無論、巡り巡った末の、自分のためなのだろう。

 ――わたし、なまえさんのことを守ります。どんな災が待ち望んでいようとも、わたしは一時たりともあなたを一人になどいたしません。あなたを傷つけることのないよう、あなたを悲しませることのないよう、あなたを不愉快にすることのないよう努めます。
 だから、だから。
 いい子にするから。期待されている分だけ、やれるだけのことはしますから、だから。

 あの手を追いかけても無駄のように思う。だって彼女はわたしより前を、そして目線より少し上を漂っている。それは光に向かって浮上する泡粒のようなものだ。
 わたし以外の誰かに導かれて、揺らいでいる。心ではなく。その身を、すでに何者かに、信頼できる誰かに、預けている。
 無論、わたしではない誰かにだ。それが誰なのかを、わたしはよく知っている。だから、引き留めたい。わたしの胸に沈めたい。そう強く思った。
 揺らぎ、流されるままに揺蕩う彼女のすがたは、まるで水に透き通るくらげだ。触れば、溶けてしまうかな。わたしに溶け込むなまえさんを想像して、少しだけ悦を口に含んだ。
 たまに近づくあの左手に、どこまでも焦がれて、掴もうとして、熱い爪の先で宙を掻く。

 なまえさん、わたしの目の前から消えていかないで。わたしじゃない人の手を取らないで。わたし以外についていかないで。
 冷たい手より温かい手のほうが良いでしょう。過去の鎖に縛られるものより未来の光差すもののほうが良いでしょう。解決策を押し付けられるより共感を得られたほうが良いでしょう。

 なまえさんなまえさん。わたしのほうが、ずっとあなたに相応しい。だってわたしは今を生きているんだ! あなたと同じ時間を生きているんだ。この命尽きるまで共に居ることを許されているんだ。
 だから、だからどうか。

 雲色の霞が晴れる。闇だったのか、塵の集まりであったのかもわからない。
 ただ、わたしの行く手を遮るものが、さあっと左右に流れていく。

 命尽きるまで彼女の隣に居られるのは、本当にわたしだけ?

 地よりねじり現れた黒が、彼女の隣に靴音を立ててそこに落ちた。その男は振り返り、わたしの瞳をちらりと見たあと、すうっと目を細めた。
 ああ、違う違う、そこに居るべきは、わたしだ!

 ねえ、巌窟王。お願いだから、なまえさんを連れていかないで。わたしからなまえさんを取らないで。
 仲間と共に人理を救ったわたしと、死人の影法師と、どちらがあなたに相応しいですか。

 なまえさん、わたし、あなたの考えていることがわかりません。
 でも、巌窟王のほうが、きっと、もっとわからないに決まってる。わたしはあなたのことを理解しようとします。そして、きっと理解ができます。だってわたしはなまえさんのことが好きなんだもん。

 どうして、わたしのほうがなまえさんを好きなのに、こんなに好きなのに、なまえさんは別の人のところにいくんだろう。わたしのほうがなまえさんと共に暮らせる時間が長いのに! 向こう六十年は、一緒に居られると思います。

 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたを慰め、あなたを助け、この命ある限り、真心を尽くすことを誓います。

 違う! こんなもの、彼にだって唱えられる、彼女を愛すものなら誰だって、あの耳元で囁ける! あなたの心を繋ぎ止めるには、一体どうしたらいいですか? わたしが男であれば良かったのかな。わたしが男の人であったなら、少しはなまえさんに、この想いを真っ直ぐに伝えられたかな。

 今の姿でさえ出来ないことを、肉体が少し変わった程度で果たせると思ってはだめだ。わたしが彼女に自分の想いを伝えられないのは、わたしが女だからじゃない!

「なまえさん!」

 ありったけの声で叫んだ。地に向かって叫んでいる筈なのに、遠くのほうまでわたしの声が響いているように思えた。
 息を、整える。それから、ゆっくりと顔を上げて、目が皿になる。

「あ……」

 漏れ出た声は湿っていた。
 膝が折れる。
 視界の中にはもはや誰も居なくて、一面乳白色の世界だけがそこにあった。



 開けていた瞼を開ける感覚に吐き気がした。慣れないものだ。慣れと違和感が反比例してくれたらまだ楽だった。
 心臓が懸命に動いている。鼻口で行われる狂った呼吸はわたしが肺呼吸をする生命体であることを教えてくれた。
 わたしは生きている。
 生きている。

 いいや、それではだめなんだ。
 これではだめなんだ。
 生きているというだけでは。

 人が命と呼ばれるものに無条件で恋をする生物だとでも思ったのか。生きているからなんだ、人間だからなんなんだ、それを得たところでなまえさんがわたしを好きになる保証なんてどこにもない。
 もう、武器が、為人が。違いすぎる。
 だってわたしは、彼――巌窟王エドモン・ダンテスその人ではない!
 ああ、いや、まだ、なまえさんが彼を好きだと決まった訳でも、ない。
 確証はない。断言されている訳でもない。だから、まだ、わたしにもチャンスがある筈だ。
 ――もうすでに、こういう思考自体が。

なまえなまえさん、なまえさん」

 彼は、この声で、この身体で、あの人の名前を呼べやしない。
 わたしは彼ではないし、彼はわたしではない。
 夢の中で、なまえさんの隣に立った巌窟王が、あの白い手を取らなかったのは。
 自信でも優越でもなんでもなく、ただ、その権利がなかったから、手を伸ばさないでいたまでだ。
 どれだけ腕を回そうとも、捕まえられないということを知っている。そんな、目の色であったと思う。

 起き上がって、一呼吸。ああ、呼吸をしている。生の身体で。炙れば火の通る生の肉だ。

 わたしと巌窟王は、夢の中であれば、同等の存在になれる。生きているとか、死んでいるとか、そういった垣根を払えるのだ、そのふたつを客観的に見ることさえ出来れば。藤丸立香の在り方と、エドモン・ダンテスの在り方は、初めから違うけれど、同じようなものになることは可能な筈だ。
 フラット。偏見を排斥して対象を観察する瞳。それさえあれば。

 なまえさんは夢の中で、わたしと巌窟王、どちらを取るのだろう。
 同じ土俵に立ったところで、わたしに彼を越えられるだけの器が、あるだろうか。

 ――なまえさんが、わたしと巌窟王、どちらにも興味がないとしたら。
 それはもう、嬉しいことこの上ない。そして同時に、わたしは地に堕ちた鳥の絶望を味わうことだろう。

 わたしは巌窟王になりたいわけではない。なまえさんの好きな人になりたいだけだ。だから、もっと自信を持って、なまえさんの好きな人であれるよう、生きていくしかない。
 この世界という檻から抜け出せない以上、わたしはどこまでも彼と同じ道を辿るしかない。

 ここから抜け出すことの出来た藤丸立香のみが、彼女に触れることを許されるのだとしたら。
 小さく息を吐く。自信以外の要素を、体外に撒き散らす。

「……よし」

 わたしは、なまえさんが、巌窟王を好きでなければいいな、と思う。わたしを一番に好きでいてくれたらいいなと思う。もしなまえさんが巌窟王の手を取ったなら、わたしは自分の人格や性格やこれまでの生き様を棚に上げて、まず女として生まれてきたことを恨んでしまうだろう。

 呼吸をする。わたしは生きている。でもそれは重要なことじゃない。本題はそこではないのだ。選ぶか選ばないか。選ばれるか選ばれないか。選ばれるべき人物はわたしかそれ以外か。

 わたしは、私にとって一番大事な人の、一番大事な人に選ばれれば、それで、いいかな。それが一番難しいのだけれど。
 吐く息はまだ透明だ。裸足の爪先で触れた床は、骨が凍るほどに冷たかった。

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