数にして三歩。
時にして二秒。
お互いが一点に到達するのに生じる差はたったそれだけだった。
クー・フーリン――但し、反転されている――の三歩後ろを歩くのは、常になまえ一人だけである。その光景は仲睦まじい夫婦のようにも、はたまた早朝における犬の散歩のようにも見えた。
隣を歩くなどということはしない。なまえは自分の立場をよく理解していたし、眼前の男の隣に立つべき者は自分ではなく、カルデアのマスターであると考えていた。数多のサーヴァントを導く者こそが、サーヴァントの前に立つべきである。彼女はそう信じている。
だから、紅獣の爪が不自然に動いているのを――きっと彼は、闘いの熱を持て余しているのだろうと。槍を振るう眼前の男を想像して、彼女は呼吸を続けていた。
ただ、横目にして彼の軌跡を辿っている。同じ線には乗らず、隣接した別の線の上を歩いている。
クー・フーリンが立ち止まれば、なまえも立ち止まった。勢い余ってぶつかることもなく、二人の時は静止する。
なまえはクー・フーリンの斜め後ろに身を置いて、軽く首を傾げた。
「……あの?」
不思議そうな顔で、黙りこくっている死棘の脇腹に問いかける。
顔を覗き込むことはない。彼が常にどんな顔をしているかある程度絞り込める程度には、二つは常に一緒にいた。
歩く速度は口ほどに物を言う。だって、脚の長さも歩幅も違う者たちが、どうして一定の距離感を保ったまま歩けよう。
「……クー・フーリンさん?」
「なんだ」
「え、いや……何かありましたか?」
なまえは視線だけを下げたが、彼が立ち止まった理由などどこにも見当たらなかった。ならば、と彼女が顔を上げても、何か見つかる筈もなく。目の前には、自分たちの進むべき通路が伸びているだけだ。
「何も」
猛犬は抑揚のない声でそう答える。
――何も。
何もないのだ、クー・フーリンの目の前には。彼が足を止める理由も要因も、何一つない。
「じゃあ、」
早く行きましょう。なまえは静かに微笑んで、行き先を指差した。足元がぬかるむ理由がないのなら、踏み出すべきだと彼に諭した。
それでも、彼女はクー・フーリンの前に出なかった。誰かを導く者ではなく、誰かに導かれる者の足取りで、その場で緩い足踏みをする。
目を細めたクー・フーリンの前方には、何もなかった。
何もなくて当たり前なのだ。何もないことが、当然になっている。
彼が足を止めた原因は、目の前にその“当然”があるからで、どうにも奥歯が痒いらしい。
「クー・フーリンさん、何か気になることでも」
「ああ」
「なんでしょう」
「俺は、後ろに立たれるのは好かん。いや、不快だ」
その声には棘があった。なまえの胸により深く刺し込まれていくものだった。
クー・フーリンは、ひるんだなまえの腕を掴み、そのままぐいと引き寄せる。不規則な足音を刻んだなまえが、彼の視界に入った。
「俺の前を歩け」
「それは」
いや、です。
なまえはすかさず言葉をひり出し、そして切った。三つに区切られたうち真ん中のひとつを、すこぶる強く主張した。
「前は、いやです」
「何故だ」
「後ろが落ち着くんです」
「俺は違う」
細い腕が軋んだ。「痛い!」それを掴む力は強く、今にもなまえの腕を握りつぶしてしまいそうだった。
「前を歩け。俺の前を。常に」
「どうして」
「俺の目玉はここにしかない」
つい、とそこを指差し、赤い瞳をひからせる。
しなだれた青い髪が、なまえの手首をくすぐった。
「おまえのくだらない理由で無駄に気を張らせるな」
燃える瞳がなまえの胸を焼いた。罪悪感に心が爛れていって、いつしかそれは塵になる。
クー・フーリンの手から、静かに腕が滑り落ちた。
「次のレイシフトまで時間がない。急げ。昼を食い損ねる」
言葉の棘に背後から押され、なまえは戸惑いの表情を引っ込めることも出来ないまま足を踏み出した。これで彼の気がおさまるのなら。そんなあぶくを周囲に軽く撒いて、静かに前進する。
視界の内で少しばかり背を落としているなまえを見て、クー・フーリンは静かに目を細めた。
これが当然になればいい。犬は兎を追いかける。追い抜くことは決してなかった。捕まえることもなく、ただ、小さな足跡を追っている。
何があっても、必ず手元に引き寄せられるように。
長細くなった視界の中で、クー・フーリンは少し長めに息を吐いた。
ゆるやかに、安堵を吸い込む音がした。