(ゆるめの性表現があります)
『伍さん、お邪魔してもいいですか』
「いいよ」
麗しい紅茶の香りとともに、なまえがこちらへ寄ってくる。それは本から目を離さずとも分かることだった。彼女がこの部屋の前で足を止める以前から、あの覚束ない足音に気づいていたし、今更驚く義理もない。
『紅茶を淹れました。うまくできているかはわかりませんが……』
「そこ置いておいて」
なまえは少しだけ残念そうな声で「はい」と言うと、サイドテーブルにティーカップを静かに置いた。
『ご一緒しても?』
「うるさくしないなら」
『しませんから』
「じゃあそこ、座んなよ」
なまえの、少しだけ傷ついた顔が目に浮かぶ。こうなると、本のページなんか読めたものではない。その表情を作りたいのはこちらなのだ。
「頭痛は」
『ないですよ』
「そう」
冷静を装うのに必死だった。なまえが俺のために紅茶を淹れてくれたのはこれで六度目だ。そのたびに同じような態度でなまえのことを払ったが、なまえは六度目も同じ時間に同じ台詞で同じ銘柄の紅茶を淹れてここに来た。それが何を意味するかなど、決して勘の鈍くない俺は理解してしまうわけで。
『明日には帰りますね』
「……おまえさんを診た医者が言ってたんだけどさ。まだ安静にしといたらって。あと三日くらい」
『そんなにお邪魔させてもらう訳には』
なまえには、前日の記憶がない。今から五日前より先の出来事が記憶されていないのだ。最初のうちはおかしいだなんて微塵も思わなかった。天丼で以て俺をからかっていると思ったのだ。実際は違った。こいつはただ単に、連日の記憶を保持することができないのだ。頭の中の日記を片っ端から破っていく。
「家のほうにさ。帰るって連絡はしたのか?」
『それが、先程アンさんに言ってお電話をお借りしたのですが、なかなか繋がらなくて』
「ああ、実は、もうダーニャが話を通しておいてくれてんだよ。心配すんな」
『そうなんですか……すみません』
だからこの女は、手前の両親を俺に殺されたことを知らないし、なぜ自分がここにいるのかも分かっていない。毎朝、それこそ決まった時間に。倒れているところを介抱してやったのだと説明するのも飽きてしまった。この女は死ぬまで俺の手元で俺が決して口を付けることのないハイ・グロウンを淹れ続けるのだ。
『伍さん、その怪我は?』
「んー? あー、ただの打撲だよ。少し前に喧嘩してね」
『え、喧嘩はいけませんよ……』
「突っかかられただけさ。正当防衛」
毎晩処女を楽しめるのかと喜んだこともあったが、ものの三日で飽きてしまった。何よりなまえが俺のことを怯えた瞳で見つめるのが気に入らない。満足に腰も振れず、泣きじゃくるなまえを上から強引に押さえつけて性器の中を擦るだけだ。本気で抵抗してこちらの腕を引っ掻いても、次の日になれば綺麗さっぱり忘れている。爪の隙間に残った血肉を舐め取らせたことも憶えていないし、その身体がだんだんと俺の形を憶えてきていることも知らない。俺がどれだけおまえの身体に気を配っていたのかも知らずに、身体の不調を訴えては喉を枯らしていた。
『すみません、風邪とかではないと思うのですが』
「仮に風邪だったとしても、俺は強いから平気」
『すみません……』
「謝んないの」
虚しかった。きっかり朝四時を目処になまえの記憶が消えるということを知ったのは、二人で朝焼けを待っていた夜の一番最後の時間だった。あの表情が忘れられない、ぼんやりと天井を見つめる女の瞳が瞼に遮られる瞬間、確かになまえは呼吸を止めていた。たった六秒間、何よりも静かに生きていた。
『やっぱり、明日には帰ろうかと思います』
「……そうかい。朝、俺より先に起きて、俺を起こしに来れたなら。その時は、送っていくよ」