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 およそ、獣の手だった。
 辺獄の指先には、長く鋭い鉤爪が十、生え揃っている。黄緑色の中央に、まっすぐな栗色の縦線を差した、人ならざる者の爪である。
 指の股を大きく開いた男は、真っ白な肌に包まれた無骨な手で、なまえの頭を掴んだ。強く、髪が乱れるほどに。また、猫を乱暴に撫でる手つきで、なまえの頭を揺さぶった。

「ん、」

 なまえは戸惑いと喜びが混ざり合ったふうな、曖昧な声を出した。首を傾け、肩を竦める。なにやら少し恥じらった様さえ見て取れた。淀む瞳が、薄く開かれた瞼の向こうで潤んでいる。

「あぁ、 っ」

 突如首を押し込まれたなまえは、身体の均衡を崩され、そのまま畳の上に倒れた。鼻の奥を突く、いぐさの青い匂い。それに胸を打たれたのか、なまえは伏せたまま鼻先にあるものの匂いを嗅ぎ始めた。薙ぎ倒されたことなど、気にもとめていないようだった。

「畳がお気に召したようで何よりです」
「は、はい、良い、匂いです」
「左様で」

 辺獄が身を乗り出した。なまえの髪をその大きな手で握り込み、宙へと引き摺り上げる。膝を引きずられたなまえは喉より潰れた声を出し、悲痛に顔を歪めた。

「うぅ、……!」
「おまえに畳の匂いを嗅がせるためにこの部屋を訪れたのではないのです」
「あ……ごめんなさ、っ!」

 ぶつりと、糸の千切れる音がした。頭皮から数本の毛髪が引き抜かれ、なまえは痛みに唸り声を上げる。「う、う……!」「……、」それを見て、辺獄は目を細めた。但し、痛みに喘ぐなまえの表情に胸を躍らせているようではない。
 なまえは、全くと言っていい程に、辺獄の手を振り払おうとしないのだ。腕など二本とも肩から生えているくせに、それを使おうとしない。ただ、痛みに泣き喘ぐだけ。着物の袖に隠れた細く小さな手を、まるで有効に使ってやろうとしなかった。

「ごめんなさい、立ちますから、良い子にしますから……」
「結構」
「あうう、」

 時折、こうして乱雑に扱われることはあれど、彼の掌の感触が、なまえの頭から離れない。鋭い爪が頭皮に張り付く感覚さえ嬉しい。彼の爪が伸びる瞬間すら愛おしいと感じられる程に彼女の心はその手に捕らえられていると云うのに、辺獄の爪は伸びることを知らない。
 彼は手を離す。しかしそれに解放の意はない。
 畳の上にずり落ちたなまえはすこしだけ目を開ける。開けたところで彼女の目に光は差し込まず、黒の虚空を眺めるだけに終わった。
 燈台がひとつ、部屋の端にあるだけで、あとは何もない。部屋の四隅の一角だけが、ぼんやりと明るいのみだった。
 次第に目が慣れ始めたなまえは、歪んだ辺獄の輪郭を見る。まだ見たことのない、或いはそこに行き着く筈だった辺獄の一片を、その視界の中に収めた。

「おまえの、目を――――と、思いまして」

 衣擦れの音に紛れ、辺獄の言葉の一部が掻き消される。彼に引き寄せられ、袖にくるまれたなまえは、「え?」と静かに聞き返した。

「おまえの目を、視えるようにしてやろうかと、そう、思いまして」

 辺獄の瞳が大きくなる。それに伴い、瞼はすうっと細められた。彼の目元を染める黒は確かに広がり、闇と溶けた。そうして、なまえの強膜は潤うばかりである。
 今更辺獄の淵を見上げようが、見下ろそうが、選択権など存在せず、ただ、行き着く先だけが確定している。枝分かれを許さないたった一本の道を、必要のない目隠しをされたまま、ゆっくりと前進する。
 辺獄は唇の端を少しばかり上げると、大きな手のひらを使ってなまえの瞼を下げさせた。揃えられた指先には血が通っていないのか、薄灰色になっている。
 肌の上を滑る掌の中から、カサリと紙の擦れる音がした。なまえの額には、人型の紙が貼られている。腹に大きな一ツ目の付いた、言うなれば札だった。

「次に、おまえが瞼を上げたとき、」

 腹に描かれた瞳は上を向いている。瞼を押し上げ、ギョロリと、黒に染まった天井を眺めている。下瞼には隈取の赤を刺し、二つの長い袖にも赤を刺し、光の無いまなこで、暗澹を臨む。

「その先に、確かな光がありますよう」

 なまえの世界は、言うなれば、あやふやなものに溢れたところであった。何を見ても焦点は定まらず、色も光も膨張した世界にあった。それが、今すぐにでも壊れようとしている。液体が個体に変貌しやんと、霧が物質としてそこにあろうと。散乱した土があつまり、一つの粘土に留まろうとしているのである。

「あ、」

 そうして、溶解していたものたちが、こぞって凝固する。
 再構築された世界で、なまえが初めて見たものと云えば、明確な輪郭を持つ、幼児の辺獄、ただひとつのみであった。
 女の面に、紙が一枚。それは額に張り付けられていて、なまえが揺れるたびに軽く翻った。
 その人型の腹に描かれた一ツ目が、ぎょろり、と動く。
 光すら反射しない黒のマルは、辺獄を見つめた。こちらに冷たい瞳を向ける男を、半開きの口を紙切れの裏に隠し、男の顔を、じいっと、見ている。

「リンボさま、リンボさま、」
「如何にも、リンボめにございます」
「リンボさま……」
「……何か、」
「あ、あの……」

 ひとの顔というのは、実に、不可思議な――。
 なまえが口を開くたびに、白い紙が揺れる。なまえが言葉を発しきる前に音が途絶えたのは、その唇に紙の裏側が張り付いたからだ。
 ――不思議だ。器官の形や配置は違えども、自分の顔にも、およそ同じ位置におなじものがあるだなんて。
 はっきりと、見た。理解が及ぶことが果たしてあるのか、人生で一番不可解な現象がそれであると、なまえは舌を引っ込めた。
 人の顔というものを、明かりの中で、はっきりと、見据えたのである。
 常に黒いもやがかかったように見えていたそれを、突然、何の慣らしもなく、目の当たりにした。
 なまえの胸の中は霧雨のようだった。荒くなった水の粒子が永遠に増え続けるようだった。
 今まで見ることすら叶わなかった人の顔貌を、肉眼ではないにせよ、視認してしまった。肉親の顔ですら、もう殆ど思い出せない。彼らはなまえの顔をわざわざ覗き込んでやるほど、彼女に関心がなかったからだ。
 人の顔とは、不思議なものだ。
 なまえは、そう言いかけて、やはり、やめた。彼女には教養こそなかったが、発言と態度には人一倍気をつけるべきだと気づいていた。
 初めて目にした辺獄の顔貌を評せずにいるのは、生まれてこのかた、光にあてられた人の顔と云うものを見たことがないからだ。なまえの中で、人の顔というものは、常にぼんやりとしていて、不明瞭なものだった。だから、辺獄の顔立ちがどれほど整っていても、なまえにはそれを判別するための比較対象がない。彼女の大脳皮質は、未だに未発達のままだ。
 辺獄の瞼を縁取る長い睫毛が揺れる。曖昧だったものが形を得た。なまえにはそれが、俄かにも信じ難い。しかし、これこそが世界の真実であった。

「リンボさま、」
「ン……、ンン……、」

 辺獄は、なまえ呼びかけに答えることなく、忙しない動きで宙を掻いている。それから奥歯を強く噛むと、徐になまえの顔に貼られた紙を剥がし、片手でそれを丸めて畳の上へと放った。

「えっ、あっ……」

 なまえの視界が、途端に悪くなる。なのに、なまえの表情には安堵が見て取れた。辺獄はそれを見て、なんとなく下唇を詰める。自分と彼女とでは、視える世界が違うのだ。安堵を得ることのできる条件こそ真逆なのが、彼は少しばかり腹立たしかった。

「だから?」
「え、……」
「――だから、何だと、言うのですか。ねェ、何も肉眼で見えるものだけが、真実であるとは限りませんでしょうに」
「は、はい……」

 長い指先から伸びた爪が、生肌に包まれた娘の頤を引っ掻いた。なまえは、冷えた指の腹の感触を受けて、首を引っ込める。
 部屋の奥、暗闇の奥から、人影が、歩いてくる。それに気づいた辺獄は、口の端を吊り上げた。

「おかあさま」

 明かりの近辺に居た辺獄らの存在に気づいたのか、闇の向こうから、鈴の音と共に子どもが一人駆けてきた。なまえが声のするほうへ振り向くと、その子どもはなまえに飛びつき、また、鈴を鳴らした。地味な色の袴は、なまえの目には到底、触れにくい。
 黒の大きな目に、薄紅色の頬、右と左で色の分かたれた髪は、辺獄のそれによく似ている。鈴の音は高く、なまえの耳の中で暫く木霊していた。

「おかあさま」

 顔を横に引いたような笑顔は、辺獄の笑みそのものである。
 二つのもみじがなまえの頬を包んだ。「あたたかい」血が通っている筈の掌は驚くほど冷たく、なまえの背筋を凍らせる。細部は見えずとも、色が、ぼやけた輪郭が、その気配が、自分を抱いている男と酷似していた。

「息子の顔も満足に眺められぬとは、哀れな」
「むす、こ」
「おまえのことを母親と認識しているのですから、そうでしょう? ねェ、」

 部屋の奥から飛び出てきた子どもの正体などなまえには知る由もなく、また、知ったとして、到底理解し得ぬものである。

「おかあさま」

 重なる二つの声が、なまえの中で響き合った。
 辺獄とその写し身が燃えるように笑う。二つの獄に挟まれたなまえは、眩みゆく視界の中、確かに光を見た。大衆が、皆口を揃えて光と呼ぶものがそれだった。

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