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 重苦しい灰染めの空は小太郎にとってそこまで珍しいものでもなかったが、今の彼の心を捉えるに相応しい色でもなかった。彼がその場で足先を凍らせている理由は、また別のところにあったのだ。
 はめ殺しの大窓に両手を押し付け、首を反らしていた理由として、ひとつ。

「わたしのようなものでも、忍に……くのいちに、なれますでしょうか」

 女の声が、小太郎の右耳に流れ込んでくる。
 同じ窓に両手を貼り付け、静かな声で硝子を曇らせている。共に灰染めの空を見上げるなまえこそ、小太郎の胸を騒つかせる一番の要因であった。
 男の中より這い出た少年の目が、ちらりと右を見遣る。自分の背丈よりも、随分と上のほうを。
 なまえの触れている窓から、ほんの少しも離れていないところにそれはあった。衣服を押し上げる豊満な胸が、硝子の手前で、ゆっくりと、呼吸をしているのである。

「風魔さん」
「あ、あぁ、はい。何か」
「忍って、その、月並みなことしか言えないのですけれど、かっこいいなあと、その、昔から、憧れていて……。くのいちになるにはどうすればいいか、忍である風魔さんに聞くのがいちばん早いだろうと、藤丸さんが」
「あ、主殿が……」

 なまえが小太郎からの視線に気付き、ふいと首をひねった頃、彼の視線は再び空のほうへと戻っていた。
 くのいちになりたい、と云うなまえの願いを叶えるのは、それほど難しいことではない。結局は、それらしい行いを真似たがっているだけに過ぎないのだから、口で言って終わることをいくつか述べてやれば良いだけの話である。或いは、風魔忍術の芯を理解出来ぬ程度に濾したものを与えてやるのが、いちばん無難だと云える。
 頭では分かっている筈なのに、そうするべきだと結論も出ている筈なのに、小太郎の内には邪念が生まれつつあった。

「……風魔さん、と云う呼称を使うのは、到底忍らしくはないですね。風魔殿、もしくは、小太郎殿……と呼んだほうが、より忍らしく見られるのでは」
「なるほど……!」

 目を輝かせて小太郎の横顔を見つめるなまえは、一度咳払いをしたあと、「コタロウ殿」と口ずさむ。小太郎は動揺を隠しながら返事をしてみたが、なまえは音の運びが気に入ったのか、何度も小太郎の名を呼んだ。

「コタロウ殿、コタロウ殿」
「あ、あまりそう呼ばれては……」
「コタロウ殿の名前は、日本人っぽくて、とても、憧れます。コタロウ、ふふ、素敵な名前……」

 小太郎の脳が揺れた。襟巻の中に口元を埋め、必死に現状の分析にとりかかる。
 彼女は名を褒めただけだ。名を。自分の名を、その音の響きを、気に入ってくれただけに過ぎない。人々が恐れ戦く名を。この名に染み付いた血塗れの過去を知らないから。

「わたしにも子が生まれたら、もし、男の子が生まれたら……コタロウと、そう名付けてもいいですか?」
「……そんな」
「だめでしょうか」
「……やめた、ほうがいい。この名は、なまえさんが思うほど、素晴らしい名ではないのです」

 誇りこそあれど、褒め称えられるべきものでもない。
 小太郎は、窓の外を見た。視線こそ銀世界のなかにあったが、彼の意識はまた別のところにあった。硝子に反射した己のひとみを、前髪の隙間からぼんやりと眺めている。なのに、しっかりと外の景色を頭の中にしまい込んでいる。
 なんと冷たい言葉だろう。己の子に、死体の名をつけるなど。
 ああ、違う。自分は、例え天地がひっくり返ろうとも、彼女の子どもの親になることはないのだ。だからこそ、襲名の許可を求められている。
 嬉しいが、悲しくもあり、無性に、胸が締め付けられる。「――、」音もなく窓に吐いた息は、なまえの吐いた息と同じく白い。
 うぬぼれてはいけない。風魔小太郎と云うものは、一度死んだのだ。仮初めの身体に吹き込まれたのは、新たな生とはまた別のもの。思い違いにも程がある。動く死体が思考することを許されたからと、今を生きる者と同等の価値を見出してはならない。

「コタロウ殿?」

 ぽつりと落とされた音に、小太郎の聴覚が反応する。

「気を悪くさせたのでしたら、申し訳ないです」
「いえ、そんなことは。ただ、名を。気に入っていただけたのは、嬉しく思います。なまえさん」
「は、はい」
「コタロウ殿、と云う呼び名は、なかなか……良い。……とても」

 なまえ口から出た名は、彼の胸をそっと温めたようだった。その唇には薄く弧が乗っている。

「では、わたしのこともなまえ殿と、呼んではいただけませんか」
「え、」
「一度でいいから呼ばれてみたくて」
「そんな。一度と言わず、これから、何度でも」
「本当ですか!」

 嬉しい! 歓喜の叫びは廊下中に反響し、窓のふちを軋ませた。「……失礼。大声を出してしまっては、忍べませんね」なまえは恥じらったように笑い、自分の唇に数本の指先を当ててそう言った。「なまえ殿」「はい」申し訳なさそうなひとみが、なまえの目尻を眺めた。

「……やはり、なまえ殿、と云うのは、無しの方向で……」
「な、なぜ!?」
「いえ、なんとなくなのですが」
「では、なまえと、呼び捨てにするのはどうでしょう?」
「え」
「そちらのほうが、頭領の部下っぽくはないですか!?」

 なまえは声を抑えながらも、感情の昂りを抑えきれないようすで胸を跳ねさせた。その動作に、小太郎は少しだけ身構える。突然の揺れに対し、多少動揺しながらも、長い前髪の奥で目を光らせた。「ね!?」小太郎の顔を覗き込もうと、なまえが身を乗り出した。「た、たしかに」「でしょう!?」いつから部下になると云う話になったのか。それを聞き出すことも出来ないまま、彼はなまえの押しに負け、遂に降参の意を示した。

「分かりました、で、では。なまえ、貴女を僕の部下と認めましょう。しかし、身分においては同じ。頭領といえども、それほど強い権限はありません。同僚、そう、同僚のようなものです。ですので、」
「コタロウ殿の部下に! わたしが! コタロウ殿の!」
「あの、」
「はい!」
「……よろしくおねがい、します」
「こちらこそ!」

 雪を溶かすほどの、胸を焦がすほどの笑顔が、小太郎の視界に入った。自分より幾分も背の高い女が、無邪気に笑い、今にも飛び跳ねそうなほどに喜んでいる。それを無下にしようものなら、自分は人になりきることさえ出来ないだろう。小太郎は微笑みながら、熱くなった掌を窓に押し付けた。顔面ごと窓に行こうかとも考えたが、なまえが居る手前だ。口をつぐみ、静かにやめる。
 今ここで、なまえの名を呼ぶのは少しばかり恐ろしい。吐き出す音が震えない保証などどこにもなかった。咥内で散々なまえの名前をこねくったあと、彼はそれを飲み込んだ。
 必要なときに、必要な分だけ。無闇矢鱈に名を呼んで、大切なものと認識できなくなることの無いように。たった今手に入れたばかりの温かいそれを、小太郎は自分の懐に、そっと忍ばせた。

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