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(天香国色6話以降の設定)
(真名バレあります)
(人が死にます)







 交代だよ、と僕はなまえに呼びかけて、自身の顎鬚を少しだけ撫でた。ザリリと指の腹を引っ掻く音がして、不快感を指に塗りたくられたような気がした。
 なまえはすぐに僕の声に気がついて、お疲れ、と振り向きざまに柔らかい笑顔を見せてくれる。瞼を下ろしかけてしまったのは、端末のブルーライトが目に沁みたからだ。
 中央管制室の端の、更にまた端のほうは、電力節約のために非常灯以外の明かりがすべて絶たれている状況にあった。そのせいか、周囲の空気も多少の淀みを見せていた。壁に嵌め込まれたモニターの青白い明かりに照らされているなまえの横顔は、周りの暗さも相まって、少しだけやつれているようにも思えた。
「大丈夫かい?」
「何が?」
「いや、疲れてるんじゃないかって」
「そう? 全然だよ」
 渇いた笑いが僕の胸を刺した。その笑顔に、どうにも虫唾が走る。舌を打ちたくなる衝動を抑え、僕は口に弧を乗せた。
 ちらりとモニターに映し出された文字列を見遣る。そこには僕が見てはいけないものが表示されていたようで、なまえは即座に自分の身体でモニターを遮った。それからくるりと後ろを向いて、何かしら操作を続けた後、なまえは何事もなかったかのように小首を傾げ、僕に向かって笑顔を見せる。
 確か、あれは。見覚えのある文字列だった。腹の奥にフッと怒りが湧いた。
 彼女は僕なんかのために、関わらなくても良い分野の情報処理にまで手をつけているのだ。
 僕なんかのために。こんなやつのために。
 彼女が自分の管轄外の分野にまで手を伸ばしているということに気がついたのは、もう随分と昔の出来事のようで。そこまでしてもらう義理もないのに、ただ、彼女の善意と好意でそれは行われていた。
 むしょうに腹が立った。なぜそこまでするのかと喉を開きかけた。
 僕は、時間通りにこの場へ来て、与えられた仕事を言われた通りにこなし、自分がやるべきことだけをぽつぽつと処理して、それで、終わりだった。それ以上のことをした記憶など、この脳裏のどこを探しても見つからない。
 僕は彼女のように作業を引き継ぐ人間のことを考えたことなど今の一度もなく、いつだって自分のことで精一杯で。能率的な作業が出来ない生まれついての欠陥品だ。気遣いと云うものすら出来ない、どうしようもない人間がこの僕だ。
 僕は、誰かのために人一倍頑張る彼女に、なまえに、甘えている。性根の腐ったクソ野郎。死んでも治らないくずだ。あのとき、もっと惨たらしくもがき苦しんでから死ねば良かったのに。
「どうしたの? 顔色悪いよ。まだ休んでても大丈夫だよ」なまえは僕を心配して、まだ休めと勧めてくる。
「――あ、いや。髭を剃ってくるのを忘れてしまって。恥ずかしいところを見せてしまったな、と」
「また忘れたの? ……本当だ。前より伸びてる」
 周囲が暗いためか、なまえは小さくこちらへ歩み寄り、首を反らして僕の顔を見上げた。僕はなまえよりも二十センチは背が高かったので、自然と下から覗き込まれる形になる。
(近い近い近い……っ、)
 この空間における明かりはわずかなもので、隣に立つ人間の顔色を伺うのにも苦労する。というか、光源としても使われるあの画面に近寄りでもしない限り、相手の顔を視認することすら困難だった。だから、なまえが僕の傍に寄ってきたのは、人相の確認も兼ねてのことで間違いない。
「ふふ」
 なまえは目を凝らして僕の顔を見つめると、やがて小さく、淑やかに笑った。
 こんな無防備に近寄ってこられたのは初めてで、いや、随分とあるようだったが、その表情が、僕の胸の中を性急に掻き回した。臓物を、素手で直に捏ねられているような気分だった。
「次はきちんと剃ってくるよ」
「少し生やしておくのもいいんじゃない」
「そうかな。だとしても、無精髭というのもな」
「髭生えてるほうが似合うと思うけど」
「嬉しいね。剃るのがもったいなくなる」
 身体の芯が熱い。五臓が煮え繰り返るようだ。笑顔の裏で、僕は奥歯を噛んでいた。
 なまえは急に何かを察知した顔をして、神妙な顔で恐る恐る後ろを振り返った。少し肝が冷えたが、とくにこちらの言動に反応した訳ではないらしい。「どうしたの?」聞いてみる。「いや、大丈夫かなって……」「何が?」「アサシン……じゃなくて、え、燕青……さん……、を、待たせて、いて……」なまえは俯きがちになりながら、あの小さな膝を擦り合わせた。照れ笑いのようなものが濃い影に隠れる。
 僕は、その反応がどうにもいじらしく感じてしまい、生唾を飲み込みたい欲求を我慢して口を開いた。
「なまえ、あの英霊のこと、苦手だっただろう。無理しなくても……」
「でも、最近、そうでもなくなってきたっていうか……、大丈夫になってきたから……」
「……僕は、あまりサーヴァントと、仲良くしないほうがいいと思うけど」
「どうして」
「彼らは僕たち魔術師の道具だろう。悪く言うつもりはないけど、彼らは僕たちの仲間なんかじゃないんだよ?」
「……」
 なまえは口ごもり、細めた目の上に愁眉を乗せた。そんなこと言わなくても、と小さく零したのを、僕は聞き逃さなかった。
 唇が歪む。曲がりくねった弧を描きそうになる。口腔が粘ついた。顎が軋む。眼球が乾く。胸に甘い痛みを受ける。
「あの男のこと、好きなのかい」
「……悪い人じゃないよ」
 その言葉は答えになってはいなかった。もう少しだけ攻め入ってみる価値はありそうだ、と肩を竦めてみせる。
「彼は梁山泊の人間だよ。分かってる? 侠客とは云うが、今で言うなら屑の集まり、ただのやくざものさ。ろくな奴じゃない。君だって、きっと遊ばれているだけだ」
「そんな」
「君が気にかけるほどのやつじゃない。彼は顔が良いだろ。他の女の子も、同じような手口で口説いているかもよ」
「…………」
 なまえの表情が暗くなる。その胸に嫉妬の汚泥が詰まっていれば良いと思った。
 そのまま嫌ってしまえばいい。嫌悪の感情を瞳の内に込めればいい。口も利きたいと思わなくなるほどにその男の存在を憎めばいい! 血の通った唇であいつを殺してくれと切望しろ。二度と目の前に立つなと呪詛を吐きつけてやれ。さすれば、次こそ塵芥に変えてくれよう。肉体ごと消し去ってしまえるならばそれが一番良いのだ。あの男がこの世に生まれ落ちた証拠すら必要ない。そうだろう。
「……ごめんなさい。わたし、もう行くね。……言うほど、悪い人じゃなかったよ、アサシンさんは」
「燕青」
「え?」
「浪子燕青と呼ばれていた男だよ、彼は」
 気をつけて。そう忠告をして、僕は彼女の横を通り過ぎた。「うん……」震えた声で返事をした彼女は、少なからず僕という男に、あの柔らかい心を傷つけられたようだった。
 さて、何をするんだったかな。僕は排斥すべき忌々しい記憶の中から、必要な情報のみを探り出し、すべての操作に慣れているような顔をして、光源の輪郭に触れた。
 所謂、初仕事というものだ。


 この拳を滑るは濁った鉄の水と少量の脂だけだった。柄にもなく肩で呼吸らしきものをして、俺は、青白い明かりに照らされながら床に落ちた一点を見つめていた。
 周囲に血溜まりはない。床に亀裂もなければ、人が暴れた形跡も見当たらない。
 リノリウムの床の上、自身の体液一つ残さずして、その男は死んでいた。顔は痛苦の表情に歪むことなく、安らかなものとなっていた。静寂の真ん中に、うっすらと絶望の色を滲ませている。傍らにはフレームの壊れた眼鏡がひとつ転がっていて、瞼の脂を硝子の裏面に擦り付けた跡が残っていた。
 寝ているだけのようにも見えた。この俺の前で。この俺の足元で、ただ、眠っているのだ。呼吸のひとつもせずに。あれから心臓を一回も動かそうとせずに、意識だけをどこか遠くへやって、ただジッと、そこに寝そべっている。
 よく見てみると、男の腹の一部が異様にへこんでいた。内臓が潰れてしまったのか、肉の盛り上がりに欠ける腹をしている。
 ゾク、と唐突に。俺の首筋は悪寒の指先に撫ぜられた。ぶるりと震えて、背をしならせながら、汚れていないほうの手で自身の口元を押さえる。そこから出るものなんか何もないくせに。自分の心臓か何かが強く鳴っているのを、鼓膜の裏で聞いていた。逃げ出しておくべきか。しかし、足は動かない。そうだ、これを置いて行ってしまったら、今度こそ俺は……。
 悔恨の念が、寒気に侵された身体中を駆け巡った。
 やってしまった。命を無駄に潰したことを嘆いたのではない。機関の者に殺人の容疑をかけられることを恐れたのでもない。
 彼女の、なまえの。たった一人の交代先・・・を、俺は、この手で摘み取ってしまったのだ。
 なまえが休息を得るための道具が、この世から失われてしまったことを意味する沈黙だった。
 交代する奴が居なくなったのだから、なまえは朝から晩までこの業務につきっきりになるに決まっている。彼女は休息一つ与えられぬまま、寝る間も惜しんで担務に打ち込み、倒れるまであの端末の前に立ち続けるのだろう。後ろで俺が待機しているのを気にも止めず、あの薄気味悪い画面を覗き込むことに専念し、居なくなった男に思いを馳せながら、自ら死霊の手に指を絡めるのだ。
 それは、良くない。とても。
 あの小さな背に這い寄る楽しみが無くなってしまうどころか、俺は彼女の目に、今度こそ、恐怖の対象として映ってしまう。
 俺は、これからなまえに軽蔑と畏怖の視線を向けられながら過ごす日々を脳裏に思い描いた。
「……、……ぅ、あ」
 のどが、詰まる。
 きっと、その日々には耐えられよう。耐えられぬ筈がない。
 耐えられるが、俺は、そのとき、なんの色も映し出さなくなったなまえの瞳を、この手の中に押し込もうとしてしまうかもしれない。侮蔑の滲む目を向けられるくらいならばと、その場で抜き出した目玉を握り締めるほうを選ぶかもしれない。
 そうして、何も出来なくなったなまえのもとで、甲斐甲斐しく世話をしてやり、なまえが俺の側から一歩も離れぬ証として、毟り取ったその二対の珠を、水に満たされた透明な壺の中に入れて飾るのだ。毎朝それを眺め、慈しみ、間違ってもなまえの眼孔にそれが再び収まることの無いように、閉ざされた瞼を押し上げてふたつの空洞を眺めよう。黒に染まった穴の中とは、さぞかし美しいだろうから。
 ……いいや、そこまでしてやる義理などある筈もない。俺は首を反らし、漆色に染まった天井を見た。目を無くしたなまえが味わう景色とは、きっとこのようなものなのだろう。
 瞬きをしたところで変わる風景も無く。俺の髪と同じ色を、なまえは自身の身体が朽ち果てるまで眺めていることが出来るのか。それはそれで良い。何の話だ。
 とにかく、俺の足元で寝そべっているこの傲慢な男をどうにかしなければ。足の爪先で男の脇腹をつついたが、特に反応は無かった。押さえていた唇が手の下で震える。
 こいつが死んだと云うことがばれたら、なまえはきっと悲しむだろう。そして、この肉を潰したのが俺だと判れば、なまえは俺を蔑み、二度と俺にその影を踏ませることはなくなるだろう。
 あの、こちらのようすを伺うような瞳も。喫驚のあとにすこしだけ下げられる眉も。時折、不服そうに曲げられる唇も。柔らかい皮に包まれた桃色の指先も。狭くて細い背中でさえも。すべてすべて、俺の前から無くなってしまうかもしれない。
 こいつさえ生きていれば! おまえさえ死んでいなかったら! 誰の許可取って死んでやがる、目を開けろ、息をしろよ、なまえが明日も俺の顔を見て笑っていられるように! 生きろ、ただ生きろ! 俺のために! お前のために!
 死ぬなよ、今ここでくたばってくれるなよ。俺はもう二度と、俺の身体で生きることを許されないのだから、俺の代わりにその短い命を燃やせよ。それが、今を生きる人間の、果たすべき務めと云うものだろう。

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