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(天香国色6話以降の設定)(三角関係です)(ハロウィンイベントのはなしです)




 なまえさんは燕青のこと、好きにならないよ。
 わたしが燕青にそう告げたとき、彼はひどく傷ついたような顔をして、あの檸檬色のひとみを揺らがせていたことをよく憶えている。少しだけ目を剥いて、「は、」と何の感情もこもっていない声を吐いていた。冷たくも熱くもない、驚いていたのかすら分からない。ただ、動揺していたことだけは確かだった。

「何、言ってんの」

 はは、おっかしい、と乾いた声で笑う燕青を相手に、わたしは、心だけをどこかにやってしまって、それを手繰り寄せるために、深く息を吐いた。
 ああ、やはり、そうなのだ。息を吸う。吐こうとして、瞼を閉じる。

「まるで俺がおねえさんに気に入られようとしてるみたいじゃん」

 わたしの呼気はその場で消えた。口の中に溜まった何か。喉奥で蠢く不快感の正体を、そこで断ち切ることは難しい。
 わたしはそれきり、燕青のことを真名で呼ぶのを躊躇うようになった。
 燕青がこのカルデアに召喚されて少し経ったころ、彼はなまえさんとひとつの約束を交わしていた。燕青がわたしに己の真名を告げたあと・・、なまえさんにも燕青の真名を告げると云うものだった。
 そのはなしを人づてに聞いたとき、わたしは、身が震えるほど嬉しがっていたことをよく覚えている。だって、わたしが燕青の真名を知ることさえなければ、なまえさんは燕青の真名を知らずに済むのだ。
 わたしは、あの桜色の唇が、エンセイと云う四ツの四角に嵌め込まれた色を紡ぐのを心の底から嫌がった。燕青の名を知る前から、どうすれば彼の名を知らずにこのままの関係を維持出来るか、そればかりを考えた。
 だって、だって、なまえさんが彼の名を呼ぶときが、来てしまったら。それでは。まるで。まるで――恋人同士のようじゃないか。
 短絡的な発想だ。どこまでも子供じみた思考だった。わたしは好きな人に他の男の名を呼んで欲しくないがために、なまえさんから燕青に関する情報の一切をシャットアウトしようとした。勿論、それが達成されることはなかったけれども、そうするための努力はした。あることないことを言いふらして、なまえさんを燕青から守ろうとした。守るだなんて。ただ、自分の思うままに振舞うことのできる彼に嫉妬していただけだって云うのに。「まるで俺がおねえさんに気に入られようとしてるみたいじゃん」頭蓋の中で、彼の声が木霊する。気に入られようとしている、みたい、だって。
 ああ、そうでなかったら、何だと云うんだ。どうしてわたしの目の前で、そんなことが言える!
 お願いだから、わたしがあなたの真名を知る日が来ませんように。あなたたちの約束事に、わたしが口を挟む資格などないのだから。叶うことのない願望を胸に、わたしはあの日、悪性隔絶魔境・新宿に、降り立ってしまった。
 そこで召喚された何者かのドッペルゲンガー浪子燕青が、わたしの目の前で高らかに名乗りを上げたころ。その名前は、まるで鉛のような重さを以てわたしの胸の奥へと流し込まれて来て、ぐるりととぐろを巻き、そこに居座った。そして現在も、肺の底で身を固めたままわたしの呼吸を妨げている。
 聞いてしまった。耳にしてしまった。そのときばかりは、自分に耳と云う器官が付いていることを心底後悔した。燕青、燕青燕青燕青! 彼の真名は燕青と云うんだ、ならばわたしの隣に在るこの男も燕青と云う名前なんだ!
 隠さなければ! わたしが新宿のアサシンの真名を知っていると云うことを。あの時間旅行のなかで、燕青と云う名前だけをこの記憶から抜き出さなければ、なまえさんは燕青のことを真名で呼んでしまう、嫌だ嫌だ嫌だ! まだわたしは、取り返しのつかないことをしたくない。物理的に不可能だとしても、どうにかして、彼女から燕青の名を遠ざけなければ!
 ああ、だめだ、それではだめだ、それでもだめなんだ! わたしがどれほど彼女と彼を切り離したとしても、なまえさんが自分から燕青に近づいていくのなら意味がない!
 どの段階においても、アキレスが亀に追いつくことはない。絶対に。絶対に絶対に絶対に! アキレスと亀と云う思考実験において、双方が触れ合うことなど永遠に有りはしないのだ。亀は後ろを振り向かない。後退もしない。前に進むのみだ。何に向かって。一体、何に向かって!
 いやだ! わたしは振り向いて欲しい! わたしは貴女が見つめているものよりずっとずっと貴女のことを見てきました、知ってきました、愛してきました! だから、だから、燕青のところに行かないで、わたしとずっと仲良くしてよ、なまえさん。
 わたしは貴女と同じ時間を生きている。わたしは貴女を振り向かせる自信があるよ、なまえさん。そっちを向いたって、破滅しか待っていないんだ。移動する矢はその瞬間においては動かない、ならば! 繋がるべき瞬間なんかどこにもない。わたしと繋がるはずだったなまえさんも?
 だめだ、だめだ、そんなことでは。こんなことではだめだ。すでに彼と云う存在より、わたしが劣っているみたいじゃないか! これでは負け犬の遠吠えと何も変わらない、わたしは負けてない、まだ! わたしは女だけど、なまえさんと同性のものだけれども! 同性だからって、あの指に選ばれないとは限らない。
 わたしが燕青に身を引けと命令すれば、彼は口答えすることなく穏やかな微笑を浮かべて視界の端より消え去るだろう。それをしたところでどうなる。彼女自身が燕青を求めていたら意味がない。わたしの目の無いところで、二人はわたしには認知出来ない世界を共有しているかもしれないのだ。
 いやだ、負けたくない、取られたくない! わたしは己のサーヴァントに想い人の心を巣食われる愚かものにはなりたくない!
 燕青が、なまえさんに興味を示さなかったら。燕青が、なまえさんに一度でもその食指を伸ばさなければ。わたしは気づかないふりをすると決めていた。なのに!
 どうしても、わたしは彼を信じていたくて。あの日、言伝を頼んでしまった。何もなければ、彼はすぐにわたしの部屋へ、洗濯かごを持って戻ってくるだろうと踏んだのだ。結果は――半日後、なまえさんの匂いを身に纏って、まるでわたしに対する当てつけのように、『いろいろあってさ、』なんて、泣きそうな顔で笑うものだから、わたしは、わたしは……。
 うっかり、指に力がこもっていたことに気がつく。わたしの指は燕青の肩を強くつかみ、墨に彩られたきめの細かい皮膚を、骨に向かって押し込んでしまっていた。
 熱のこもった頬をつめたい風が撫でる。見知った色の髪が鼻先をくすぐった。視線を流せば、ほの明るい暗幕に満月が浮いている。

「ごめん、新シンさん」
「なんだい、マスター。おっと。常にそれくらいしっかり掴まっておいてもらわないとねぇ」
「わたしね、なまえさんのことが好きだよ」
「……そりゃ、急だな」

 急なんかじゃない。ずっとずっと前からだ。あなたがカルデアに来るずっと前から、私はなまえさんのことが好きだった。後からひょっこり現れて、横からかすめ取っていこうとしたのはきみじゃないか。口の端から漏れ出た呼気に、そのような言葉が乗ることは無かった。
 燕青の背中は、細身でありながらも広く大きく、なにより逞しかった。わたしはそれにしがみついて、天地があべこべになったピラミッドの上部――姫路城を目指している。
 二人して、同じものを目指して進んでいる。

「はは、」

 ここでも。そうなのか。
 返した笑いは乾いてしまった。このまま彼の首を絞めたら、二人して同じ人を想いながら死の水底に背を打つことが出来るんだろう。ああ、いや、死ぬときは一人がいい。わたしを看取ってくれるのは、なまえさんだけでいい。彼女はここには居ないのに。ずっとずうっと遠くのほうで、わたしを意味する数字の羅列を追いかけているに違いない。

 うれしいな。
 わたし、なまえさんに、追いかけられているんだ。

「このまま落ちたら、わたしはなまえさんのことをずっと好きなまま死ねるよ」
「冗談でも言うべきじゃないねえ、そういうのは」
「冗談? 何が冗談なもんか。わたしはね、なまえさんのことが、本当に、本当に、好きなんだよ、大好きなんだよ……」

 明かりに侵された夜の街並みを背負い、登る、登っていく。燕青の拳とつま先が、ピラミッドにだんだんと深く突き刺さるようになった。もう、掴むところがないのだ。「そうかい。それはそうとして。落ちるとか、死ぬとか。冗談でも言うべきじゃあない」「冗談だったら言わないよ」ビク、と燕青の喉が跳ねた。「マスター」わたしを咎めようとする色を乗せた声が、吹きすさぶ夜風を撫でた。

「死にたいんじゃないよ。ただ、少し。わたしはわたしのために死ぬことも選べるな、と思ったの」
「だからって、俺の前でそれを言うかねぇ」
「前はピラミッドだよ」
「そういうことじゃねぇの!」

 無駄口を叩きながらも、燕青は着々と、軽やかな身のこなしで、逆さまのピラミッドを登っていく。「燕青」「なぁに」わたしが口を開き、燕青が素っ気ない返事をした、そのとき。
 ずるり、と身体に何か、縄状のものが這い回る感覚に気がついて。息を飲んだころにはもうすでに、その縄のようなもので全身を絡め取られていた。
 魔力の込められた燕青の後髪が、わたしを彼の身体に縛りつけていた。深緑を差した妖艶な黒縄は、どうあがいても解けそうになかった。
 ああ。まるで、強固な鉄の鎖のようでもある。この心を蝕み、この身体を縛り付けるのはいつだって彼なのだ。ああ、燕青、燕青、きみさえなまえさんの近くにいなかったら。きみさえ、わたしが見ているところでなまえさんに視線を向けようとしなければ、わたしは本当に、見なかったふりを、しようと思っていたんだよ。
 これでは、落ちることも叶わない。きみはいつだってわたしの行く手を阻もうとする。

「なまえさんは、新シンさんのこと、好きにならないよ」

 何の気なしにぽつりと零せば、燕青は少しだけ笑ったような声を出して、眼前の壁を力いっぱい殴りつけた。拳が刺さる。黄金のかけらが、わたしを置いて一足先へと落ちていく。

「知ってる」

 諦めと、確信と。ほんの少しの自嘲が含まれた、まるでひとりごとみたいな。驚くほどに濡れた声が、すうっと、耳に入って来た。

「知ってるよ」

 噛みしめられ、輪郭すらあやふやになりかけた言葉が、わたしの中にすとんと落ちる。
 ああ、なんだ。

「なんだ――じゃあ。わたしたち、一緒なんだ」
「そうだよ。今更かい」
「そうか、そうかあ。そうなんだあ、」

 燕青の背中を、自分のことのように抱きかかえて、喉奥を焼く。

「新シンさん、なんて。ちょっと、他人行儀すぎたなあ……」

 似た者同士なんて言葉は、とてもじゃないけど使う気にはなれなかった。わたしは彼のようにならないために、今から少しでも長くなまえさんのそばで呼吸をしていなければならないんだ。
 彼の名を呼ぶのを躊躇ったがために、とんだ渾名を付けてしまった。でも、彼の呼び名を真名から逸らしていると云う意味では、わたしとなまえさんは同じな訳だ。
 その事実が嬉しくて、身体に巻きつく彼の髪に、そっと背を預けた。

「燕青、」

 わたしときみは変なところで似ているけれど、やはり、心中だけは出来ないな。彼の背にぶらさがりながら、ふと、そう思った。言おうか迷ったその言葉は、開きっぱなしの口の端から落としてしまった。
 ずうっと向こうの、遠くのほうで、子どもたちが歌を歌っている。喉を反らしてみると、逆さまになってしまった橙色の街が、わたしたちのことを嘲笑っていた。夜空に浮かぶ満月さえも、また。

「なまえさんは燕青のこと、好きにならないよ」

 知ってるよ。そんな返事が聞こえた頃、わたしは地に足をつけた。わたしから解けていった長い黒髪は、風の流れに身を任せ、その毛先を丸めていた。
 明るすぎるほどの満月が浮かぶ、奇妙な、それでいていつもと変わらぬような、ふしぎな夜のことだった。

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