SSS | ナノ


(流血表現があります)(たくさんの人の形をしたものが破損・或いは死ぬ表現があります)



 長い睫毛が夜風に乗って震えている。
 月光を浴び、柔らかく光る白銀の毛先。それに縁取られたまぶたの間からは、朝靄に包まれた空の色が見える。まるく切り取られた朝景の真ん中に、ぽつんと落ちた漆黒の円。つまるところ、彼の瞳孔は大きく開かれていた。
 肥大した満月を背に乗せた江雪は、穏やかに微笑みながら口元に弧を浮かべている。釣られて笑う者はいない。そこには江雪左文字となまえ以外、誰ひとりとして存在してはいなかった。庭のほうにまで伏し転がされている、数多の死体を誰彼と認めるならば――話は別なのかもしれない。しかし、皆一様に口も聞かず、瞬きもしていない。息の仕方すら忘れてしまったようで、心臓さえも沈黙を貫いている。
 なまえは自分の置かれている現状を理解すると、両手で口を押さえて肩を強張らせた。冷や汗を垂らし、目を剥いて足元を見遣る。部屋中に散らばる鮮血と臓物と肉の塊が、月明かりに照らされて陰影をつくっていた。
 開け放たれた障子の向こうには、先程まで刀剣男士であったと思われる『人の形をした何か』が、無造作に転がされている。月の光は彼らにも平等に降り注いでいた。
 異臭にまみれた異様な光景。血肉溢れる戦場の一角をそのまま落とし込んだような、普段の本丸からは想像できない風景。
 息を飲む。そしてそのまま、ウッと嗚咽を漏らし、汚れた畳の上で彼女は小さく蹲った。前を見れば死体の海、視線を落とせば血溜まりに視界を奪われる。血の吸い方を知らぬ着物が、人の血の味を覚える瞬間。なまえの着物の袖や裾は、みるみるうちに赤を染み込ませていった。
「ああ、なまえさん」
 部屋の中央でひっそりと佇んでいた江雪は、彼女の名を口ずさんで、それから一呼吸置いた。反応したなまえが、目線だけをそちらにやった。月を両断する、長髪の男。
「おかえりなさい」
 ゆっくりとした口調で、彼はなまえの帰りを喜ぶ挨拶をした。満月を背負ったまま、悠々と広間の中央に立っている。返り血に染まった顔は、不気味なほどに綺麗な笑顔を貼り付けていた。右手には血に濡れた太刀。左手は、手首から下を足元に置いてきている。
 なまえは、逆光で彼の表情などほとんど見えないだろうに、しっかりとその微笑みを目視してしまっていた。肉塊の敷かれた部屋の真ん中で、江雪左文字という刀は、刃先を光らせて微笑んでいる。
「なまえさん、」
 愛おしそうに女の名を紡ぐ。低く、耳に馴染むその声は、皆を安堵と平穏に導くためにあった。主君である審神者に、戦果を告げるためにあった。戦で傷ついたものを癒し、慰めるためにあった。隊を率いるものとして、進軍を宣言するためにあった。――なのに。
「ひ、と、ごろし、」
 震えた声でなまえが呟く。江雪が何か聞き返したが、それに対する返事はない。
 人殺し、人殺し。そんな言葉の羅列。宙に滲む声音。嗚咽交じりの呼吸。声量はだんだんと大きくなっていった。
「人殺し!」
 月に吠えるように、なまえが叫んだ。涙が眼球の隙間から零れ落ちる。瞳は江雪のうすく光る目を睨みつけていた。ひくついた喉から必死に声を絞り出し、彼を罵倒するための言葉を放つ。人殺し。人を殺す道具に向かって、そう叫ぶ。
 江雪は笑みを絶やさない。ふっ、と鼻から息を抜いて、血のついた唇を舐める。赤い舌が赤い汁を乗せ、赤い口内へと吸い込まれる。「人、ですか」薄く、嘲笑う。
「人、でしょうか。人、として、我々を、認めてくださいますか」
 暗闇を裂く白い絹糸が、風に乗ってはらはらと流れてゆく。血溜まりの上に立つ薄氷色の男。殺戮を果たした刀の月魄が、人の身を模ってなまえをみつめている。
 口腔で、誰のものかもわからぬ血液を嬲り、味わって飲み込む。鉄の味がする。江雪の味覚は正しい。
「死ねば、人になれますか」
 くちびるの端に溜まった血の塊をなめとり、ぽつりと零した。
 江雪は喉を鳴らして笑った。何がおかしいのか、なまえにも検討がつかない。呆けた顔のなまえを見るなり、江雪はさらに口角を吊り上げて満足そうに鼻を鳴らした。
 そのまま足元のおとこに視線をやると、考え込むように天井の隅へと目線を逸らす。おとこは死体に背を預け、座ったまま喉を晒して動かなくなっている。焦点の合っていない目で、江雪と同じところを見つめていた。
「首が落ちれば、人ですか、人なのでしょうか」
 江雪左文字のその刃先が、なめらかに宙を薙いだ。おとこの首を巻き込んで、緩やかに膚と骨を両断する。血は、噴き出ない。
 畳の上に落ちた首の切り口を見て、彼はすこしだけ目を細める。そしてゆっくりと頭を傾けながら、なまえに問うた。
「私に斬られた彼らは、彼女らは、人、ですか」
 おとこの首から零れ落ちた血が、胴体を伝って畳を汚した。身を広げてゆく血液の池。いぐさに染み込むのには、まだ時間がかかる。
「なまえさん、」
 吐息に混じる女の名前。慈しむような音の運び。
 江雪の脣はなまえの名を呼ぶためについていたし、江雪の声はなまえの気を引くためにあった。
 そして、江雪自身は己を振るうためにあり、刀こそ、人を殺すためにある。
「私は、人になりたい」
 跪き、深く深く頭を下げる。髪は肩から滑り落ちて、さらさらと重力に沿って流れてゆく。人らしくない、軋みも傷みすらもなさそうな髪だ。血を吸った髪を垂れ下げながら、
「人に、なりたいのです」と、ただただ願望を吐き出した。
「どうして、」
 彼の言葉を聞いていただけのなまえが、やっと口を開く。
 それは何に向けての言葉なのか、江雪は眉をぴくりと動かした。
「どうして、人に、」
 なりたいのですか――尻すぼみになってゆく声は、微かに震えている。
 彼女にはもっと他に聞くべきことが山ほどあるはずだ。何故こんなことをしたのか、自分が買い出しから帰ってくるまでに何があったのか、他に生存者はいないのか、何故、目撃者である自分を、殺さないのか。何故、「おかえりなさい」と、この景色を見せることを待ち望んでいたかのようなそぶりを見せるのか。
 そんな質問を投げ打ってまで、彼女は彼に問いかけた。何故人になりたいのか。神であり物である刀剣男士が、人になど成れるわけが無いと云うのに、何故それを望むのか。
 頬に垂れる血を拭うようすもなく、江雪は顔を上げる。にい、と口角を上げて、歯を見せた。
「人になりたいと望む刀は、お嫌いですか」
 下手な笑顔がなまえに向けられた。薄ら笑い。嘲笑とも受け取れる表情。しかし、恐らく彼は真剣だった。ぞくりとするほどの悪寒を覚える、ぎこちない笑顔。はあ、と溜息を溢すそのさまは、感銘に打ち震える人間そのものだった。
「私が、人になりたいなどと、言うわけがないと。そう、お思いですか」
 太刀を畳の上に放り、江雪は上体を起こした。ぎらぎらとした瞳がなまえを見据えている。
「もう、ここには。人は……貴女以外、おりません。ですから……、なまえさん、貴女が。私を、江雪左文字というものを、人と、認めてくれさえすれば……私は、人に。なれるの、でしょうね」
 言い終わったと同時か否か、部屋に突風が吹き込んだ。冷たい秋風は江雪の背中を強く撫でつける。左右に広がる絹糸は、ところどころに血糊をつけて、その髪束を固めてしまった。ばらばらと乱雑に広がる月白色の長髪を、なまえは訝しげな表情でみつめていた。鼻腔に滑り込む血と白檀の香りが、なまえの喉に絡みつく。
 目の前にある刀は、本当に自分のよく見知った、あの江雪左文字なのか。そればかりが彼女の脳内を支配していた。
 なまえは暫く考えて、「言っていることが、理解、できません」と、やっとの思いでそれを口にした。江雪は首を傾げ、今にも泣きそうななまえの顔を眺めている。残念そうに眉を下げながら、脣をきつく締めた。
「貴女には、私の気持ちを理解してもらえると、そう、思っていたのですが」江雪は脱力して、その重たい瞼を伏せようとする。
「どうして、どうして、こんなことを」なまえが嗚咽を混ぜながら言った。
「……動機を告げれば、私を、人にしてくださいますか?」
「それは、できません。わたしが決められることでは、ありません」
「貴女が決めることですよ」静かに発せられた厳かな声音は、その場の空気をよりいっそう重くした。
 粘ついた風がなまえの脚を押さえつけている。じっとりと彼女の肌を舐めながら、熱気でも冷気でもない感触を纏って絡みつく。それらは輪郭をかきむしるように這い上がり、なまえはとうとう首筋を掴まれた気になって、いそいで肩をすくめた。背筋までもがぞわりとして、あまりの悪寒に恐怖する。
「貴女が、決めて、いいんです」
 左右には肉塊の山がそびえ立っている。彼から香るのは血肉に濡れた腐臭のみ。背に乗せた月がよりいっそう輝く。星空を隠す雲は、一片もない。
「私の、存在価値を、すべて」
 恍惚に染まった表情が暗澹に伏せられた。薄気味悪い破顔を見せる江雪に、なまえは釘付けになる。暗がりのなかに潜む、ふたつの瞳が輝いた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -