SSS | ナノ


 レスリー、お腹すいたの?
 彼女は私に空腹かどうかを問いかけた。厳密に言えば、個の“私”という意識に向かって問いかけたのではない。彼女が質問をした相手はレスリー・ウィザーズ。私の意識の宿った、器の名前がそれだった。私を座らせたソファにゆっくりと腰掛けた彼女は、首を軽く傾けながら二回ほど瞬きをした。
「レスリー?」
 彼女の声は常に穏やかだった。恐らく“レスリー”を刺激しないようにと、徹底的に配慮した結果なのだろう。
 私は返事をすることを拒んだ。拒んだ、という言い方は正しくはないのかもしれない。ただ、俯いたまま、現状をどう切り抜くかばかりを考えていた。その間にも、彼女は私の器を心配するような仕草で私の周りを彷徨いた。ああ、面倒だ。こんなことになるならば、腕を振り払ってでも逃げ出しておくべきだった。半刻前までは、確かにそうするつもりだった。彼女が私の腕を掴みながら、今にも泣きそうな表情で微笑みかける、ああ、その時までは。
 現実の空の下で呼吸をする――たったそれだけのことで、私は久しく感じていなかった感動というものを再び味わった。しかし、一秒にも満たない時間の中で、その感動とやらは宙に溶けて消えた。
 一瞬たりとも先を予測することの出来ない世界。何を念じようが望もうが、残酷だけを形作る救いのない世界。一部の人間に約束された平和を、果たして平和と呼べるのだろうか。眉間に皺が刻まれる感覚がした。
 私はそんな理解し難い世界に想いを馳せていた。たった一つの目的のためだけに死ぬことすらあきらめ、すべてを奪われた事実さえ利用してこの場所へと帰ってきた。そうだ、帰ってきた。
 日中の生暖かい風は、私の肉体を余すところなく包み、膚のうわべをさらさらと撫で、そこらじゅうを漂って流れ続ける。光は多彩な色を含み、私の水晶体へと踊るように吸い込まれていく。噴水で跳ねる水玉は、そのひとつひとつに独自の世界を映し出し、地に着いて壊れる。老若男女に渡る人々の声。コンクリートの上で紙屑が擦れる音。犬は吠え飽きると、足跡だけを耳に残して去ってゆく。ああ、なんと素晴らしく美しい、腐敗した世界なのだろう。
 吐き気のする結果ばかりを常に私に突きつけてきたその世界は、また私を詰り弄ぶつもりなのか、一人の女と私を巡り合わせた。いつだって世界というものは、私の邪魔をすることに全力を注ぐのだ。


 彼女は私と出会ってすぐ、自分たちが知り合いであることを丁寧に証明しようとしていた。何やら昔からレスリーのことを知っているようだったが、疾患のことや病院のことまでは聞き出そうとしてこなかった。恐らく、まともな返答は期待できないと判断したのだろう。賢明な判断だと思った。何故なら、今の私はレスリー・ウィザーズそのものであるからだ。
 私を、レスリーを彼女の自宅に招き入れたのは、一刻も早い“彼”の保護を優先したからだろう。精神疾患を持った患者が一人で院外を出歩くというのは非常に危険な行為と言える。特にレスリーのような――無意識下で他人と自分の思考を同調させる能力を持った――人間を野放しにしておくなど、鳥の足に爆弾を括り付けておくようなものだ。
「レスリー。わたし、病院に連絡してくるね。いい子にしていてね」
 彼女はソファから立ち上がると、折れた服の裾を直しながら電話のほうに視線を向けた。私はまずい、と瞬時に彼女の手首を掴み、その足を止めさせた。
「……待、」待て、と口から出そうになった言葉を噛み殺す。そうだ、彼女は私のことを知らない。彼女の目の前にいる私は、紛れもなくレスリーなのだ。そしてそのレスリーがレスリーではないと発覚した場合、彼女はパニックを起こすだろう。下手に暴れられたり、人を呼ばれたりしては、私の計画に穴が開く。
「待っ、て」
 レスリーを演じることに全神経を注ぐ。レスリー・ウィザーズを演じながら、彼女を操る。こちらの都合良く動いてもらうには、レスリーの持つ発言力が必要不可欠だ。幸い、彼女はレスリーがどのような人間なのかをある程度把握している。一番効果的な方法で最善策を選ぶのが、最も有効だろう。
「待って、待って、待って、……行かないで」
 退行を、演じきることが重要だ。レスリーに成りきってしまえばこちらのもの。あとは彼女の隙をついて家から抜け出してしまえばいい。それはレスリーならば造作もないことで、普段から彼自身が無意識のうちにしていること。相手が自分に意識を向けていない瞬間を狙って行動する。相手の思考とシンクロすることのできるレスリーであれば可能なことだ。問題は、その能力を私に転写することまでは出来なかった、という事実くらいか。
 まあ、問題はない。レスリーがするようなことを、そっくりそのまましてやればいい。何も怪しまれることはない。何故なら、今の私はレスリーだからだ。
「行かないで……ここにいて。ここにいて、ここにいて……」
 そう復唱すると、幼いころの記憶が蘇るようだった。我儘を言って、ラウラを困らせていた自分の姿が脳裏に浮かび上がる。まだ私がルベン・ヴィクトリアーノであった頃の、ラウラがまだ生きていた頃の、忘れがたいその記憶の断片をなぞる。
 彼女は、その白い手を私の手のひらに絡ませた。祈るようにそれを包み、軽く握りしめる。
「うん、うん、わかったよ。行かないよ、大丈夫だよ」
 そのまま私の横に腰を下ろした彼女は、憂いを帯びたひとみを隠すようにして薄く笑い、私の前髪を撫でた。何かを思い出しているのか、この輪郭に誰かを重ねているのか。彼女の指先は温かく、紛れも無い血が通っていることがわかる。そしてそれは、この身体にも流れているもの。
「だから、レスリーも、勝手にどこかに行かないでね」
 お願いよ、と彼女は私の肩を抱いて、哀しそうに囁いた。
 鼻先をくすぐる髪の匂いは腐りかけた果物のように仄かに甘く、そして私の心をひどく落ち着かせた。まどろむようにひっそりと瞼を閉じる。暗闇の中で、久しく感じていなかった人の温もりというものに触れようとする。しかし、彼女の背中に手が伸びることはなかった。
 両腕が重い。鉄の手枷をはめられているようだ。腕を上げようとするたびに軽く痙攣し、ぶらりと垂れた手首がどくどくと脈打つのがわかる。血の巡りを感じる。そんなことはどうでも良い筈なのに、頭の隅ではささやかな感動に打ち拉がれていた。
 彼女は不自然な挙動を見せる私の背中を、心臓が三度脈打つたび、やさしく叩き続けた。
「レスリー、具合が悪いの? どこか、痛いところがあるのかな」
 こどもをあやすようなその声色は、レスリーに投げかけられたもの。彼女の認識するレスリーとは、肉体は違えども、私のことだ。腕の震えが止まる。
 今の私は、やはり、レスリーに他ならない。私は今一度レスリーとして、彼女の中にあるレスリーとして、彼女と接することを決めた。こんなとき、レスリーならばどんな言葉を選ぶだろうか。自分自身が直感で選んだ言葉を発するのか。それとも、他者の意識と同調した結果を吐き出すのだろうか。
「……そばにいて」
 私が導いた答えは、それだった。
「そばにいて、そばに、いて」
「うん、どこにも行かないよ、大丈夫だよ」
 彼女は私の発言すべてに肯定した。レスリーに少しでも安心感を与えるためか、よくこちらの言葉の節々に相槌を打った。
 そばにいて。その一言は、ある一定の年齢を過ぎたあたりから全くと言っていいほど使わなくなった言葉だ。あまりにも、自分らしくない。そしてそれに騙される目の前の女も、おかしく思えて仕方がない。
 いいや、実に、変な女だと思った。しかし、今のところ不都合はない。頭のどこかではこの家から脱出する方法ばかりを考えている。だと言うのに、窓の外の明るみを見て、私は何故か、少しばかり、安堵したような気になっていた。改めて考える。これから脱出しようと云うのにだ。
 なぜ?
 多少なりとも、ここを居心地が良いと感じてしまっている自分が居た。そんなことにも気付かずに、私は人の熱に触れていたのか。まだもう少し、ここに留まっていたいと、無意識にもそう望んだのは何故だ。久しく感じていなかった愛情というものに、心の渇きを癒されたいと、思ったのか。「は、」何を、馬鹿馬鹿しい。現実とは、これほどまでに、これ以上に、私を狂わせるつもりなのか。


 私は何故、彼女に従うのだ。彼女の言動に命令のような強制力は感じない。服従している気さえしない。手を伸ばせば指先が絡まり合うように、実になめらかに点と線が繋がる。反発する気さえ起きない。頭が働いていない訳ではないのだ。しかし顕著に、矛盾なくそれらは行われている。
 私の中にいるレスリー・ウィザーズが、そうしろと耳の裏側で囁いているようにも思えた。私の意識の中にいない、また別の者の、認識すら出来ない他者の意識。まるで、レスリー・ウィザーズの意識の断片が、この肉体のどこかに潜んでいるような、そんな気がしてならなかった。
 意識とは――この世に二つとないものだ。
 意識とは――この世に一つだけ、在ることを許されているものだ。そう、信じてきた。
 私が他者と意識を共有するすべを求めるようになったのはいつからだったか。私が私であるということを証明したいと、そう望んだときからか。ただの好奇心からか。私の自我が芽生えたのはいつだ。忘却の果てに見えるものは無い。結論から言えばわからない。それだけは理解できる。そればかりを理解させられてきた。
 自分という意識を証明するためには、自分ではない者の意識が必要だった。意識とは――個が個であるために、どうしても必要なものなのだ。
 彼女を信頼したいと思う自分に銃を突き付けたところで、現状は変わらない。わずか三十分足らずの間に、まともな信頼関係など生み出せる筈もない。しかし、彼女と私の間には無いものが、彼女とレスリーには確実に有り得るのだ。彼女は私を信用している。正確には私ではなく、この借り物の肉体のほうに。さきほど初めて名乗られたときに聞いた名すら思い出せないというのに、彼女は。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -