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「なん、ですか、それは」
 覇気の無い声だった。喉が声の張り上げ方を忘れてしまったような、絶望に打ちひしがれた乾いた声色だった。
 なまえは、その声の主が誰かを考えながら左側に首を捻った。数メートル先で、円卓の騎士ガウェインが文字通り真っ青な顔でなまえを見つめている。
 ガウェインの薄青の瞳は、なまえの左手に釘付けになっていた。なまえはと云うと、書類を持ったままの状態で固まってしまっていた。席を立とうとした瞬間だったのか、中腰で右手を机の上についている。左手にはまとめられた書類の束と、ガウェインの視線を奪う、何かがあった。
 長い袖の下に隠れた手の甲から、赤い痣のようなものがちらりと見えている。「それは、一体、ああ、」ガウェインは、その痣がどういったものなのかを一瞬で理解した。瞠目し、何かぼやきながらなまえのもとへと駆け寄る。外套を翻し、ぬるい空気を裂いて距離を縮めていく。なまえは少しばかり後退りしたが、床を這うコードの蔦に邪魔をされ、立ち上がる前と同様に椅子の上に座り込んでしまった。
 なまえの身体を覆う黒い影。ふとなまえが顔を上げてみると、瞳に怒りの色を浮かべているガウェインと目が合った。慌てて目を逸らしたなまえの瞳を追いかけるように、彼はその場に片膝をつく。
「誰と、誰とですか、誰と」
 空っぽの心で、うわ言のようにそれを繰り返し、「誰と、」ガウェインはなまえの手首を強く掴み上げた。「痛い!」突然の痛みになまえが声を上げる。彼女の手から滑り落ちた紙の束は、ばらりとその身を広げながらデスクの上を白で埋めていった。
「――誰と契約を?」
「はい!? い、痛い!」
「どのサーヴァントと? いつ? どういった経緯で? 何故? どうして、」
 だぶついた服の袖を捲り、手首を捻り上げ、濃い桃色に染まりつつある手のひらの裏を睨みつける。彼女が座り込んでいる椅子の背もたれが軋んだ。
 白い肌に浮かぶ、複雑な緋色の紋様。
――令呪だ。
 ガウェインは、ふいに剣で胸を貫かれたような感覚に身を震わせた。じくじくと痛む胸の奥を、自らの手で抉ってやりたいとさえ思った。それほどの衝撃だった。このか弱い手を握り潰してでも、それを消し去ってやりたいと思うほどに。その紋様は、一瞬にしてガウェインを絶望の淵へと追い込んだ。
 彼の額に脂汗が浮く。信じられない。認められる筈もない。ガウェインは思いつく限りの暴言罵倒を叫びたい衝動に駆られたが、彼女の怯えた表情を見るなり、喉が塞がった。何も彼はなまえを罵りたい訳ではない。ガウェインが肉を引き裂き生温い鮮血を浴びたいと望むのは、なまえと契約したとされるサーヴァントのその肉体。身の程知らずのサーヴァントに制裁を加えたい一心で、彼は奥歯を強く噛んだ。
 願わくば、この聖剣を刺し込み火の通りかけた内臓を抉りあげて、内側から燃やし尽くしてやりたい。灰すら残してやるものか。風に煽られる粒子すらすり潰して、無に帰ればいい。ガウェインは脳裏で未だ見ぬサーヴァントの最期を考えながら、凍りつくほどに冷たい薄ら笑いを浮かべた。
 そして、涙を流すようになまえに問いかける。
「どうして――」
 手首を握る力が緩められた。
「私ではないのですか?」
 そう繋げて、ぽつりと吐き出す。
 彼の目元に涙は見当たらなかったが、泣いているのかと錯覚するほど、彼の微笑みは痛ましかった。なまえはガウェインの目元に少しだけ視線をやると、急いで足元に視線を戻した。彼と目を合わせるのが、心底怖かったからだ。
 純粋な嫉妬が、ガウェインの身体の中を暴れ回っていた。その炎は彼の心を急速に焦がしながら勢いを増してゆく。彼の青い瞳に怒りの色を映してしまうほどに、強く強く燃え盛っていた。
「何故、私ではないのですか。私では、力不足だとでも? 私程度では貴女を守りきれないと、そう、お思いですか」
「なに、何の話ですか、これ、ただのらくがきですよ! 赤ペンで令呪みたいなのを描いて、リツカさんの真似をするのが、流行ってて……」
「……は?」
 なまえは自身の手のひらをくるりと返して、指先で赤い紋様を擦った。「ほら、油性だから消えないんですけど、インクですよ、令呪じゃないです!」ずい、と目の前に手の甲を差し出され、ガウェインは鼻につく油性インクの匂いを感じ取る。実に微かなものだったが、それを間近で見たことによって、インクが皮膚に滲んだようすまではっきりと確認することが出来た。
「……それは、誰とも、契約をしていないということですか?」
「契約なんて! していませんし、そもそも私、マスター適性も魔術師としての素質も無いので……だからこうやってマスターさんごっこしてるくらいなので……」
 なまえは恥ずかしそうに偽の令呪を服の袖を引っ張って隠した。「みんなやってますし、私だけじゃないですよ、本当ですよ」子供っぽい遊びだとばかにされるかもしれないと予想したのか、なまえは聞かれてもいないことを喋り始める。「ほら……令呪を以って命ずる! とか、かっこいいなって……」意味もなく掌を擦り合わせてみたり、首を傾げながら明後日の方向を見たり、挙動不審なようすを見せるなまえは忙しなく動いてみせた。
 なまえがそうやって自分の小さな醜態をはぐらかしている手前で、ガウェインはとにかく自身の早合点を恥じていた。俯いたまま、なまえの冗談じみた言い訳に悶えながらも、現状をどう切り抜けるかを模索している。
 まるで、なまえのサーヴァントに相応しいのは自分だけだとでも言うような――そんな口ぶりで、彼女を問い詰めてしまった。
 なまえはまだ偽の令呪の弁解に夢中で、彼の真意には気付いていない。
「結構うまく描けたと思うんです! でもやっぱり次はダ・ヴィンチちゃんに描いてもらって……ほらなんかそういう効果ありそうだから……あっこの書類今日中に提出なんでした! すみません、失礼します!」
 話の最中にふと時計を見遣ったなまえは、机の上に散らばった書類を急いでまとめると、足早にデスクから去って行った。軽く赤面したままのガウェインを、自分のデスクの前に残して。

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