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 自室の簡易キッチンの汚れが目立つようになってきた……という事実に気が付いたのは、寝る前に水でも飲もうかとキッチンに近寄ってから間も無くのことだった。
 毎日掃除に時間を裂けるほど暇が無かったと言えば、言い訳だろうと水周りの整理が趣味のサーヴァントさんにお叱りを受けてしまいそうで。彼の家事に対する意識は驚くほど高い。前世はきっと子沢山の家庭を仕切るお母さん、もしくはお節介焼きのお兄さんだったのかも。
 台所の掃除に時間を取られるくらいならと、普段から目立つ汚れだけを適度に取り除くことでお茶を濁してきた。しかし、次第にその汚れにも目を逸らすようになってゆき、気がついた頃にはもう遅く。いつの間にか私の部屋には、しつこい油汚れや謎の水あかが蔓延る超弩級汚部屋キッチンが爆誕していた。
 入った頃はあんなに綺麗だったキッチンマットも、謎の茶色いシミや糸のほつれのせいでみすぼらしい姿を晒している。特にコーヒーのシミが一番目立つ。変な匂いもする……気がする。
 いや、これは、誰がどう見ても、引くでしょう。
「あら、なまえさん。お掃除……ですか?」
 柔らかくて艶のある声音に、思わず肩を大きく跳ねさせる。それから一呼吸置いて、後頭部に二つ、ぽよよん、と柔らかい何かの感触を受けた。ゆるりと腰に回る、二本の細腕。こんなにも細い腕なのに、解くのは容易ではないように思えた。
「この頼光……お手伝いいたしましょうか? ……あら、あの、あの? なまえさん……?」
 本当にびっくりして、全身が固まってしまっていた。時間も時間なので、幻聴か、それこそオバケか何かだと思って……。声で誰なのか判断できなかったことが、唯一の無念。そもそも私の部屋に私以外の人物がいるとは想定の範囲外で、あまりの驚きと恐怖に、思考すらどこかへ飛んで行ってしまいそうだった。
「あら、あらあらっ、ご、ごめんなさい。吃驚させてしまいましたね。部屋の外から声はかけたのですが……」
 後ろから軽く抱き締められていたお陰で、無惨にも尻餅をつくことはなかった。寧ろ後頭部にものすごく柔らかなクッション……もとい豊満な、豊満すぎる胸が、押し付けられていた。
 私の頭で左右に押しのけられる頼光さんの胸。ごめんなさい、と私の見えないところで頭を下げているのか、ぽよんぽよんと軽く跳ねる頼光さんの胸。脂肪の谷間で遊ばれる私。男の浪漫で後ろから殴られ続けているみたいで、なんだか恥ずかしいを通り越して変な笑いが込み上げてくる。
「もし? なまえさん……? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
「こっそり後ろから話しかけてびっくりさせて、『もーこのこのー! きゃっきゃっ! うふふ!』作戦、失敗です……」
「ちょっと意味がよくわからない……」
 何やら頼光さんは、私の部屋に来たはいいものの、声をかけても中から返事がなく、いけないとわかりながらもやはり心配で部屋に入ってしまったようで。
 キッチンの前でゴム手袋をはめて洗剤と雑巾を持って立ち尽くす私の背中を見て、イタズラ心が芽生えてしまった。わたしがここまで驚くものだとは思っていなかったらしく、頼光さん的には『ちょっとびっくりさせて、も〜〜!!』をすることが目的だったとか。
「恋人かなんかか……」と、照れ隠しにもならないと解っていながらもぼやいてみる。
「なまえさん、近頃お疲れでしょう? この頼光、少しでもその疲れを癒して差し上げたいと思いまして……。お掃除でしたら後ほどお手伝いいたしますから、少し、横になりませんか?」
「で、でも掃除は今夜くらいしか……」
「ね? ね? ……、だめですか? ほうら、なまえさんはだんだん、ねむくなーる!」
「う……」
 確かに、本当はすごく眠い。もう眠る予定だったけれど、汚れがどうしても気になってしまって。終わったらすぐにでもベッドへ入るつもりだった。
 しかし、明日も仕事詰めなのは確定しているので、できる限り今日やれる作業は終わらせておきたい、というのが本音だ。
 朝早くから予定されている、各サーヴァントのバイタルチェック。それは私からすれば定期的に訪れるある種の拷問のようなものだし、特にバーサーカークラス数名が連続で来た時なんか……気が滅入るので想像するのはやめよう。
 なるべく、暇のあるうちに、やることをやっておかないといけない、けど。
「……だめなのですかっ」
「う、うう……いや、その……ほら、ね?」
 やんわりと断ろうとすると、「うっ、」と、涙ぐんだような頼光さんのお声が降ってきて、
「うわーんっ! この頼光の一世一代のお願いを、断られましたぁっ! ま、マスタぁぁ……ッ、なまえさんが、意地悪をしますーっ! わーっ!!」
「あああっ大丈夫! 大丈夫ですから! ねっねっ泣かないでマスターさんに言わないで! 掃除今度にしますから、ねっ、ねっ」
 突然泣き出した頼光さんをなんとかしようとまくし立て、ゴム手袋も洗剤も雑巾も投げ捨てて、物凄い速さで手を洗って臨んだ。ぺたんとその場に座り込んでいる頼光さんは、両目を細い指の先で擦っている。
 子供みたい、私の方が彼女よりもずっとずっと子供なのに。
「横、横になります、ベッドに行きます!」
「……誠ですか? 嘘偽りなく?」
「本当の本当です、今日はもう、頼光さんと横になって、あとは寝ます、だからほら……」
「……うふ、うふふふ。うれしいです、近ごろ、金時も私を蔑ろにすることが多くなって……なまえさんも、私のことに飽きてしまったのかと……」
 飽きるってどういうことですか――口を開こうとしたものの、黙らされてしまった。座っている頼光さんに腕を掴まれ引き寄せられて、正面から胸の谷間に飛び込む。いや、飛び込まされてしまう。
 人肌の温もりと、どこまでも柔らかいその胸に包まれて、わたしは本当に、頼光さんの子供になったかのような気分だった。今までの感情の高低を、即座に一定のものに戻されたみたいで、安心って、こういうことを言うんだなぁと、胸に埋まりながら思う。
「ふふふ、なまえさんにまで拒絶されてしまったら、もう……口では言えないようなことを、しでかしてしまっていたかもしれません」
「ん、んんん」
 なんだか聞き逃してはいけない台詞を吐かれたような気がした。頼光さんの胸から脱出しようと試みるも、どうにも動けない。視界は真っ暗。頬に張り付くふたつの乳房。頼光さんの胸の鼓動が、直に伝わってきて、だんだんと、意識がぼんやりしてくる。
「なまえさん、なまえさん、うふふ、可愛い子。愛しい子。こうしていつまでも、腕の中に仕舞っておきたいくらいです……さあ、おねんねしましょうね」
 瞼が落ちてくる。暫くしてやってきた浮遊感が心地良くて、ここで眠ってしまいたいくらいだった。きっと、頼光さんに運ばれているんだろう。申し訳ない気持ちと、ずっこうされていたい気持ちで板挟みになる。頼光さんの腕の中は、何よりも温かいから。
 運ばれた先の布団の上で、私に絡みつく頼光さんの体温を感じた。添い寝をしてくれているみたいだ。柔らかくて甘い匂いがする。頼光さんの匂いかな。
 おかあさん、と口から溢れた言葉を、頼光さんはその手でそっと掬い上げて、私の頭を撫でてくれる。薄く開けた瞼の向こうで、眉を下げた頼光さんが、苦汁を舐めたような顔で私のことを見ていた。
「……なまえさん、私は、私は……貴女の母でいることが、辛い、」
 強かな彼女が、頼光四天王をか率いるこの人が、弱々しい台詞を吐きながら私の身体を引き寄せる。
「母が母でなくなったとしても、なまえさんは……」
 その魅力的な唇が、続けて何を紡いだのかはわからない。私の意識は、そのまま暗闇の中に落ちていった。

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