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 なまえが中也の頬を叩いたとき、彼のかぶっていたソフト帽がコンクリートの上に落ちた。帽子は、中也がえらく気に入っていたものだった。赤いチェック柄のベルトを締めた、濃い茶色のお釜帽子だ。
 ひっくりかえった帽子のつばは、晴天の空を見ていた。雲ひとつ見当たらない空だった。そこに平手打ちの乾いた音が響いたものだから、通りかかった黒猫もおどろいて足を止めている。神聖な帝國図書館の前で何をしているのかと、吃驚と不信感を織り交ぜた瞳でふたりを見つめていた。
「な、」なにしやがる、と中也は怒鳴りあげるつもりでいたが、なまえの泣きそうな顔を見るなり、目をむいて息を詰めた。ぬるい風が、赤く晴れかけた頬を撫でる。じわりと痛みはじめる左頬。中也は五秒ほど前の自分の発言を思い出した。
「好きな作品のひとつも覚えてないんなら、その程度の作家だったんだろう」
 葉の枯れたにおいのたちこめる、初秋の空の下で起こった出来事だ。


 熱をたっぷり吸ったコンクリートは、猫にとって肉球を火傷する原因になりかねない。黒猫は、見つけた木陰を縫うように移動しながら、図書館の周りをぐるぐると散歩していた。
 茹だるような暑さの夏から解放される秋の季節だと云うのに、それなりに夏の名残を見せる憎らしい気温。乾燥し始めた空気は、もうぬるい。
 図書館の入り口あたりに、ぽつんと置かれている青色のベンチがある。屋外に晒されているために、ずいぶんと色あせている小汚いベンチだ。黒猫はそのベンチの端で昼寝をするのが日課だった。だから、今日もそこに寝そべって、ばりばりと猫の仕事に勤しむことにしようと決めていた。
 つめたいタイルの上を踏みしめながら、熱風に煽られる。日向と日陰で体感温度は六度も違えど、けむくじゃらの猫にとって夏の気温は死活問題であった。
 なるべくならば日陰が良い。猫は、直射日光の当たらない、そこそこ風通しの良い場所を常に求めていた。だが、街中のどこを探しても、結局はここに戻ってきてしまう。涼しい場所が良いとは言ったものの、最終的には、身近な落ち着ける場所がいちばんだった。
 図書館のまわりをある程度視察したあと、黒猫はやっと青色のベンチの前に戻ってきた。館外に異常は無い。穏やかに、健やかに過ごせそうな一日だ。ならば、猫の性分を務めねば。黒猫はぐっと背伸びをして、ベンチの上に飛び乗ろうと身を縮めた。
 勢いをつけて飛び跳ねようとしたそのとき、猫は聞き慣れない声を耳にした。館長でも、錬金術師でも、転生した文豪の誰でもない。もしかすると、蝉の声の一部を人の肉声と聞き間違えただけかもしれない、そんな不安定で不確定な、本当にそこにいたかも解らない小さな声を、猫の耳は偶然にも聞き届けた。
「お兄さん、お兄さん。大丈夫ですか。寝ているだけですか。こんなところで寝ていたら、風邪を引きますよ」
 その声の先には、どうやら木の根もとで酔いつぶれている、中原中也がいるらしい。猫はそちらに視線すら向けていないのに、またか、とでも言いたげな表情で目を伏せた。
 大方、明け方まで酒を飲んで、酔いを醒まそうと外に出たところ、そのまま木の下で寝てしまったのだろう。猫は、そんな中也の日頃の行いをほぼ毎日のように目にしてきた。少なくとも、中也がこの帝國図書館に転生されてから、言葉の通り休み無く。
「あー……なんだよ、せっかく人が気持ちよく寝てんのによ……」
「行き倒れているのかと思って……」
「要らねえ親切ご苦労さん」
 ひび割れたような乾いた声が、中也の喉から押し出された。その場に唾でも吐きそうな勢いで、普段よりもずっと目つきを悪くした中也は女を睨みつけた。女は何か言いたげな顔をしながらも、睨み返したり悪態を吐くこともせず、しゃんと姿勢を正している。
「んだよ、」
 中也は女の態度に食ってかかった。寝起きだからか、ずいぶんと機嫌が悪い。
 女の視線はひやりと冷たく、中也の目元をなぞった。
「ここは帝國図書館でしょう、図書館のイメージが、悪くなると良くないでしょう」
「……何、俺に説教してんの?」
「お兄さんを筆頭に、ここが悪い人の溜まり場になられたら困ります」
 その言葉を聞いて、中也はさらに機嫌が悪くなった。心底嫌そうに眉間に皺を寄せ、鋭い眼光で女を睨みつける。
「悪い人ぉ?」
 苛立ちすぎて笑いすら込み上げてきたのか、面白そうに肩を揺らしている。今すぐにでも愛銃を取り出して女の額を撃ち抜きそうなほど、その瞳は笑っていなかった。
「俺がその悪い人の一員だと思うんなら、話しかけないほうが身のためだったと思うぜ」
 しかし、殺気こそ無い。子供のするような、程度の低い煽りだ。まるで自分は相手と同格ではない、寧ろ上だとでも言うような、根拠のない自信を糧に相手を口調だけでばかにする少年の口ぶりだった。
 錬金術師によって転生されてからの彼の行いの大半は、到底『悪い人』がするものではなかった。完全なる善行に近いが、だからと云って見返りを求めていない訳でもない。
 彼は『良い人』なのか? その質問に対する答えはイエスに近いノーだ。寧ろ、錬金術師の力で転生された文豪のそのほとんどは、現在もなお非行を好む中原中也と、本質はさほど変わらない。
「……帝國図書館は一般公開されてない筈なのでぇ、関係者以外館内には入れませんけどぉ、何かご用ですかぁ?」
 中也はおどけながら、思いつく限りの『良い人』のまねをした。口調だけのものだったが、それだけあれば人の神経を逆撫でするには充分だった。
「図書館の方だったんですか」女は少し驚いたそぶりをした。
「そうでーす」
 中也は帽子のつばをつまみ、片目を瞑りながら会釈のようなものをする。それを見た女はさらに目を釣り上げた。
「だったら尚更、きちんとしてください。図書館の前で館員が昼間から呑んだくれて寝てるなんて、信じられません」
「はいはーい」
 ざあざあ。木の葉が風に揺られて盛大に擦れ合う。吹いた風は、まだ少しばかり夏の香りを残していた。

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