SSS | ナノ


(バレンタインイベントの話です)


 ああ。煮えた。焼けた。焦げたか。擦れ、煤けたのか。
 鉄鍋の底はいつだって惜しみなく汚いものだ。今の私の心も、恐らくそれと同様に。
 私の背を睨みつけている私ほど、愚かしいものもないのだろう。
 黒味を帯びた憎らしい赤茶色の、私の姿を模したサーヴァントが一騎。姿こそ通常の霊基のそれだが、衣装も、装飾も。彼女が褒め称えたであろう外套の色さえも。全身がチョコレート色に染まっている。
 そしてそれは、慈悲なく撃ち抜けと言わんばかりに、無防備にもこちらに背を向けていた。
 銀世界以外を一切映さぬ大窓が並ぶ廊下の隅で、そのサーヴァントは立ち尽くしていた。いや、何かに見とれていたのかもしれない。それが何とは言わぬ。今の私の視線を奪うものなぞ、彼女以外にあり得ないのだから。
 なまえ。私の霊核をゆるやかに焦がす彼女こそ、この黒い眼を奪うものだ。
 瞳の色が変わったところで、想いの在り方まではそう簡単に変質しないのだろう。あの私は。チョコレートなるものと多少の魔力で構成された、あの私は――慄き、軽い悲鳴をあげた彼女に、なまえに。こともあろうに手を伸ばし、掴みかかった。
 掴みかかる、という表現は正しくはない。正確にその行動を表すのならば、狂おしいまでの熱を帯びた抱擁か。愛しいものを手繰り寄せ、腕の中に押し込むという行為。それを、やってのけた。
 私ではないものが。あれは私ではない。私を模した贋作が、何故、誰の許可を以てして、彼女に触れられるというのだ。ああ、なまえ! 何故、何故、私の顔をした、私ではないものを受け容れる。顔が同じならば、体躯が同じならば、本質さえも全て同じだとでも云うのか。それは! その私は、私ではない。私を真似た魔力の残骸。私と似て非なるもの。私の劣化コピー、身の毛もよだつ複製品。
 私が、私こそが! 貴女の認めた優美。秀麗。貴女が世界で最も愛すべきものはこの私ただ一人!
 弓を構えた記憶はない。武器を編んだ感覚も。矢を射った際の触感こそ、指先には残ってはいなかった。
 炎神の咆哮アグニ・ガーンディーヴァより撃たれた青い炎は、獲物に向かってまっすぐに、勢いを失うそぶりも見せず一直線に放たれた。鏃に絡めた魔力は光の尾と成って、目標に向かい空を裂いていった。間もなく、固形物の破裂する音が辺りに響き渡る。“それ”は弾け、放散し、鈍い音を立てながら破片を床の上に飛び散らせた。
 私が射抜いたのは項だった。後頭部でも首でもなく、ただそこ一点のみを撃ち抜いた。無意識だったのだろうか。意識してのことだろうか。あの男を殺したときと同じ場所を、自分にも撃ってやろうと、一瞬でも考えた末の判断だったのだろうか。
 この一射で仕留めるという明確な殺意。それだけは確実にあった。殺す。その言葉だけが私の脳裏をうろついていたのだ。
「あ、アルジュナ、さ」その悲痛に濡れた声音は、あの複製品の消失を嘆いてのものか。眉間に皺が寄る。無意識の内に取り出していた神弓を霊体化させ、左手を軽く払った。
 頭部をなくした赤茶色が、自身の形を油膜に留めておくだけの魔力を失った。或いは、私の魔力に何もかもを刮ぎ落とされたか。熱にやられ、目の前で溶けていく銅色を、彼女は潤んだ瞳で見つめている。私が衝動のままに歩きだすと、彼女は肩を跳ねさせて私のほうを見た。
「あ、ああ……、アル、ジュ、ナ、さん?」
 彼女の腕の中で溶けていくモノ。甘ったるい匂いを放つ溶液が、彼女の肌を滑っていく。頬も、髪も、服も。足元も。カカオと砂糖、それから幾許かの粉乳を練り合わせた、黒味を帯びた液体。
 汚らしい。私以外で汚される貴女は、吐き気を催すほどに汚らしい。
 ジャケットの襟を直す。胸ポケットに刺していた薔薇は、先ほどの一射で共に散り散りになっていた。
 足元に散乱したチョコレートの残骸をすりつぶし、跳ねのけ、彼女との距離を急速に詰めた。勢い余り、仰け反ってみせる貴女も良い。ああ、これほどまでに身を寄せたのは、初の試みだ。普段ならば一目散に逃げられてしまう。
 私が美しいから。この世の何よりも高潔なものであるから。全てにおいて優れている私を前にして、萎縮するのも無理はないことだ。
「お怪我は?」
「う、あ、あ……あの、よごれて、しまう」
 全身をチョコレートに塗れさせ、目を剥いて狼狽する彼女は実に滑稽だった。彼女の首から下は、正面のその殆どがチョコレートで覆われているようなものだ。しかし、私への被害を最小限に食い止めるためか、無駄に動こうとはしない。
 それもそのはず。今の私は特殊な礼装によって、服装を別のものに変えている。オフホワイトのジャケットに白のシャツ、ループタイに軽いフレームの眼鏡と、現代のファッションを基にして、随分とご丁寧に着飾っていた。
 彼女の視線の先は一向に定まらない。動揺が見て取れる。ああ、加虐心を抑え込むのは、其れなりに慣れているつもりだ。
 冷静に。しかし、彼女の身を案じていることがしっかりと伝わるように。私は口を開く。
「汚れなど構いません。お怪我は、ありませんか。……先ほどの私に、何をされましたか。暴力を、振るわれたのでは? そう、見えたのですが」
「し、しません。アルジュナさんはそんなこと、チョコになったってしません。されていません。アルジュナさんは、あの、わたしを、」
 だき、しめて。
 そう口にされた途端、胸の奥で黒いものが飛び散る感覚を覚えた。紛い物の血液が急速に脳天に向かって流れていく。ああ、これは。
 この、頭に血が上る感覚は。嫉妬によるものだ。
 肋骨に包まれたところで、その根源は踊っていた。悋気の熱を性急に解放せよと叫び散らしている。この興奮を、憤りを、今すぐにでも発散しろと。
 息が詰まる。認めたくはないが、私は私自身に嫉妬しているのだ。悟られてはいけない。奥歯を強く噛むと、怯えた表情のなまえが私を見た。
「ごめんなさい、」
 何を謝る必要がある。貴女に危害を加えたのはこの私。私の姿を模したサーヴァントだ。それが私自身ではなくとも、私の抱えたこの感情が、形を成して貴女へと向かって行ってしまった。
 たった、それだけの話だ。しかし、その真意に彼女が気付くことはない。貴女を抱きしめたい。複製元であるこの私が、そういった望みを抱いている。下心こそ無い訳が無い。少し考えれば分かることだ。だとしても、彼女はそのことに一生気が付かない。
 私というものは、彼女の中で。すでに、人を、サーヴァントを。超越したものであるから。これは自惚れに他ならない。ああ、自惚れないことには始まらない話なのだ。
 ふと、彼女の唇が目に留まる。
 汚れている。そんなわけがあるものか。
 赤茶色をつけている。チョコレートが跳ねただけだろう。
 鼻先も、頬も。薄く、まるでチョコレートが擦れたような色を。
「ああ……!」まさか、まさか、どうしてそんなふざけたことを!
 自身の贋者に、彼女の唇を先に奪われるなど! 抱き締める、その程度ならまだ。対象に確実な死を与えるとして、そこまではまだ、いい。しかし、しかしだ! 私はこの、赤茶色がべったりと付着した珠のような肌にも、ふっくらとした柔らかそうな桃色の唇にも、触れたことなど今の一度もない。
 コピーが、完全再現すらできぬ贋作如きが! それを許されて、私には何もない。私が得たものはなんだ。得たものも得るものも無い。何も。そんなものはどこにも存在しない。
「あ、の、」
「……はい、何か。やはり、どこか痛みますか?」
 冷静を、取り繕う。今回ばかりは、恐怖の対象であってはならないのだ。
 まじまじと私の姿を見つめる彼女は、前髪の毛先からチョコレートの雫を垂らしながら、一体何を告げるのか。
「かっこいいです……」
「は?」
「かっこいいです、アルジュナさん……す、すてきですね……、あの……いつもと違って、あ、いつもと違うってそういうことじゃなくて、その……か、かっこいい……」
 常に淀ませている瞳に、この度ばかりは光を宿しながら、彼女は言う。口元に軽く握り拳を当て(もしや興奮しているのか)、細かい呼吸をする。私の身体をくまなく舐めるように、じっとりと視線を這わす。
 不快感なぞある筈もない。彼女は褒めたのだ。単純に、この私を。相応の言葉で。
 マスターや他のサーヴァントから、からかい混じりに何度も投げられたその言葉を、たった一欠片の含みも無く。
 懸命に輝く瞳は、初めて言葉を交わしたあのときと、全く以て同じ色だ。
 そうして、すぐにヒュッと息を飲み込んだ彼女は、「ごめんなさい、こんなこと言われても困りますよね、すみません。失礼します、あの、あ、ありがとうございました」と早口で捲し立てると、辞儀ともただの俯きともとれる速度で頭を下げた。
 すかさず逃走を図ろうとしたその足を絡めとったのは、床に身を潜めていた“私”の残骸だった。私の膚と同じ色のべたつく溶液。矢に込められた熱によって、少しずつ溶解しながらその身を辺りに張り巡らせて行く。
 ふらついた彼女の肩を咄嗟に掴むと、暴漢に遭遇したかのような声で悲鳴をあげられる。手のひらにぬるりとした感触を受けた。まだ、生温かい。
「あっ、そ、の、チョコまみれになってしまった、ので、とりあえず、着替え、に」
「そのチョコレートを被った姿のまま、施設内を闊歩するおつもりですか」
「……廊下も、この部屋の前も、わたしがもたもたしていたせいでこんなに汚してしまいましたし、すぐに掃除の用意をして、清掃を……」
「ほう、それならば都合が良い。幸か不幸か、ここは私の部屋の前です。着替えと、バスルームをお貸し致しましょう。どちらとも、簡素なものにはなりますが」
 彼女の顔から急速に血の気が引いていくのが見て取れた。「そんな、すみませ、ん」口元を緩め、蚊細い涙声を漏らす。この様子では恐らく、提示した案の後半部分は耳にすら入っていない。
 私の部屋の周辺を自分の不注意で汚してしまった、という事実がよほど衝撃だったのだろう。実際問題、彼女に非などある訳もないのだが。偶然この辺りを通りがかり、偶然、私の姿を模した者に襲いかかられた。
 しかし、強いて言うとするならば。全ては、“私”による計画の一部に過ぎなかった。そう考えるのが妥当と言えようか。
「では、」
 この礼装に飾られた自分が、彼女の心にどれほどの影響を及ぼすか、自覚していない筈もなく。
 自身に非があると思い込みやすい彼女が選ぶ先は、無論一つに絞られている。
「こちらへ」
 我が手の導く先は、銅色に塗られてしまった自室の扉。無機質な白を塗り替える、黒味を帯びた我が膚の色。
 怖気付いたのか、はたまた脳内での状況整理に忙しいのか。一向に踏み出そうとしない彼女に視線を移すと、何やら顔に薄ら笑いを貼り付けていた。今にも冷や汗を垂らしそうなその横顔を見ているだけで、自然と口角が上がる。
 恥じらいか。未だ、何も解っていないのか。いや、理解しているからこそ、足が止まっているのか。
 彼女の髪の先から、血ほどに粘ついた水の玉が一粒、切り離された。

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