SSS | ナノ


 肺が潰れる。息が詰まる。眼球はどこまでも潤っていて、いつか溺れたこどもを助けるため湖に飛び込んだときの感覚を思い出した。
 口内にぬるついた水が滑り込んでくる。このまま死ぬ直前まで水を吸って生きなければならないのかと思うと、それも良いかと思う反面、途端に酸素が恋しくなった。
 身体は重い。見えない鎖が纏わりついているようだ。私の身体を水底へと繋ぎ止めるために、腕を、脚を、胴を、首を、絡めとり、決して離さない。それは錆びついていて、今にも千切れそうなほど脆い作りをしているというのに、私を一向に逃がそうとしない。
 沈む。喉に水が入り込んでくる。口の中から逃げたあぶくが、光を反射する白い球となって、私を水中へと置き去りにする。
 全身の血が沸騰するようだ。熱い、苦しい。もうすぐ水面へ辿り着けるというのに。水を掻き抱く。あの、白く煌めく世界が欲しい。私を生かす酸素が飲みたい。内に溜まるすべての水を吐き出したいとは言わない、とにかく呼吸がしたい。呼吸。呼吸を。
 私は水面を駆けることさえ出来るというのに、何故、水中でもがき苦しんでいるのだろう。
 答えはすでに出ている。そこに彼女がいたからだ。
 私は彼女の甘い唇から口を離した。「はぁ……っ」耳を突いた熱い吐息は、私の青い心をくすぐってくるようだった。
 酸素が恋しい。呼吸がしたい。しかし、ただの呼吸では意味が無いのだ。生唾を飲み込む。彼女のそれと混ざり合ったものが私の中へと落ちて行くのがわかる。
 彼女は私にとって酸素であり水なのだ。今の私を構成するものの一部として、彼女はこの世界に存在する。エーテルの肉体を維持するために必要なものとはまた違う。いや、もしこの人の生命エネルギーを、我が肉体に注ぎ込むことが出来るのだとしたら。眉間に皺を寄せる。そんな恐ろしいことを一瞬でも考えてしまったことに、嫌気がさした。
 彼女のひとみと、かちりと視線が合わさった。胸の裏で暴れていた心臓がさらにうるさく喚き始める。頭の中が空になって、唇さえも自分の役割を破棄する始末。役に立たない口を開閉していると、彼女はキッと私を睨みつけ、細い声で叫んだ。
「離してください!」
 胸を押される。か弱い手だ。私を引き剥がそうと全力で腕を伸ばしてくる。
 私はそっと彼女から離れた。しかし、すぐにでもその腕を掴み、引き寄せられる程度の距離に留める。
 本当ならば、この一瞬でも彼女を離したくない。抱きしめたい、その唇を己の唇で押さえつけてしまいたい! 忍耐力はそれなりにあるほうだと自負しているものの、彼女の表情を見ていると、今まで抑えてきたものが何もかも崩れ去ってしまいそうになる。
 本能なら白の鎧で塗り固めた。外套で身を包み、いつでも巻き上げられるよう理性の帯を靡かせた。
 だというのに、彼女は、そのすべてを溶かしにかかってくる。気安く私の名を呼び、何かあれば私を頼り、こういった暗がりの中へと私を誘い込む。
「貴女が、」
 私が誰の目にも触れぬところで、密やかに廃棄しようとしていた心を、いとも簡単に拾い上げ、弄ぶのだ。
「貴女が先に、私を、ゆ、誘惑したのではありませんか……!」
 感情的になり、軽く叫んでしまった。視界が端から滲んでいったのは、彼女に対する熱が一気に噴きあがってきてしまったからだ。冷静になれ、と自分に言い聞かせながら、奥歯を強く噛みしめる。
 私を見上げた彼女は、目を皿のようにしながら「はあ……!?」と声を上げる。
 そう、きっと、恐らく。彼女には自覚が無いのだ。私を誘惑した自覚が。
 唇についた蜜を舐めとる、たったそれだけの仕草ですら、私は魅了されてしまう。無自覚な誘惑に全身を蝕まれる。動揺の色に染まるその瞳に、引き摺り込まれてしまいそうだ。
「常に私に気があるような素振りをしていたのは、私を、その、誘惑して……!」
「誘惑なんかしてません! 何言ってるんですか!」
「倉庫の電球を替えるから手伝って欲しいだなどと、私と二人きりになる口実にしか聞こえません……!」
 背丈のある英霊なら他にもいる。それこそ、足場を作らずとも天井に手の届くアステリオスやダレイオスV世が。その者たちを除外して私に手を貸して欲しいと頼むくらいなのだ、勘違いするなというほうが酷である。(彼らが揃いも揃ってバーサーカークラスであるということは、この際目を瞑ろう。彼女はあらゆるサーヴァントの中から私一人だけを選んだのだ!)
 愛らしく濡れた唇から、すぐさま否定が飛んで来た。「信じられない! 私はここに備品取るついでに電球取り替えに来ただけですし、ランスロットさんはほぼ無理やりついてきたようなものじゃないですか! 何言ってるんですか!? マシュさんに報告しますからね!」マシュ――息子であるギャラハッドのデミ・サーヴァントとなった、カルデア局員の少女――の名さえ利用して、私を止めにかかってくる。
 彼女は猫のように唸って私を威嚇した。全身の毛を逆立てる勢いで、こちらを睨みつけてくる。もしも、その細い指先に、鋭く尖った爪が伸びていたとしたら、私は今頃彼女による引っ掻き傷で全身を負傷していた ことだろう。
「こんなことをするのが目的だったんですか!? 本当に信じられない! 貴方を信じたわたしがバカでした! 退いてください! もー!!」
 発情期の猫の如く喚き散らしながら、怒声だけで私をその場から退かそうとする。
 倉庫の出入り口は私の遥か後方にある。この巨体を退かさねば、彼女は私から逃れることも、誰かに助けを求めることも出来ない。幸運にも、この倉庫は自室と同程度の広さだった。そして、どこもかしこも使われていない備品であふれている。逃げ場などほぼ無いようなものだ。
 全身の毛穴が開いていく感覚がした。現状と、彼女の憤怒の表情が相まって、欲が湧いたとでも言えば良いのか。身体の中で膨れ上がっていくざらついた欲望に、背骨をつうっと撫でられる。
「……こんなこと、とは」
 胸の辺りに手を当て、魔力で編み上げていた武装をいくつか解除する。黒のインナーを曝して見せると、彼女が蚊細い息を飲む音が聞こえた。
「どんなこと、でしょうか?」
 下半身の武装のみを残して、一歩前に踏み出す。金属の擦れる自分の足音ばかりが鮮明に聞こえてくる。これでは彼女の呼吸が耳に入ってこない。
「いッ……!? こ、来ないで! 殴りますよ!?」
 彼女はそう叫ぶと、小さな身体を捻りながら、軽く腰を落とした。正拳突きを繰り出す直前の動作によく似ている。
「本当に! 本当に殴りますからね! わたしのパンチはすごく痛いんですよ!」
 その動作と言動が見せかけのものだと、瞬時に理解出来た。「……どうぞ。反撃も迎撃も、決してしないと誓いましょう」彼女は、魔術師ではない。だから、あの拳から繰り出されるものは、至って普通の殴打のみ。可愛らしい抵抗の仕方に、思わず笑みが零れた。
 私の表情が理解し難いのか、彼女は身を小さくしながら一歩一歩後退していった。拳を握ることすらやめ、今では胸の前で両腕を折り畳んでいる。まるで驚いて飛び上がった猫のようだと、つい、笑みが零れた。
 そのまま着々と歩を進め、足の踏み場の少ない倉庫の奥へと追い込んでいく。牽制しあう間も無く一気に距離を詰めて、積み上げられた箱の山に優しく彼女を押し付けた。少しでもバランスを崩せば、こちらに雪崩れ込んでくるであろう脆い山に。
 自分の体でその矮躯を押し込むと、小さな胸が私の腹のあたりを撫でた。小ぶりだが、弾力のある胸だ。私の腹を邪魔だとでも言わんばかりに押し返してくる。背中に当たる箱の山を懸念してでのことだろう。
 柔らかい。衣服越しでさえこれなのだから、直に触ればもっと……。
 胸の感触にぼんやりとしていると、大した威力もない殴打が何発も肩のあたりに飛んできた。申し訳ないと思いつつ、殴りかかってきた両手を拾い上げる。すると、自然と降参を示す格好を強制してしまうことになった。彼女はもう為す術無しと諦めたのか、涙声になりながら小さな胸を押し付けてくる。
「あなたマシュさんのお父さんでしょう!? いや厳密には違うと思いますけど、少なくとも父親なわけでしょう! 父親ともあろう人がこんなことしていいと思ってるんですか!!」
 彼女は何かを叫んでいる。だが、何を訴えているのか、上手く頭に入ってこなかった。可愛らしい声が私の胸に打ち付けられている、それだけは分かる。
 私は、腹に押し付けられている柔らかな胸の感触に、完全に気を取られてしまっていた。豊満とも、貧相とも言えぬ大きさの、よく跳ねる胸だ。
 頭がそのことでいっぱいになる。視線を下げた。私の腹に当たり、押し上げられる二つの乳房。溢れ出るような胸の形に、たまらなく欲情してしまう。
 こんな、マシュと対して変わらぬ背丈の、少女と見間違えるほどの矮躯を持つ女性に、私は、劣情を抱いてしまっている。
「もうっ、もう本当に、マシュさんに言いつけますからね、本当ですよ! ランスロットさんに乱暴されたって、マスターさんにも言いますよ!」
 胸板の少し下辺りに、がつりと額がぶつかってくる。
 そこでやっと、彼女の言葉が耳に入ってくるようになった。聞きなれた人物の名前を鼓膜に受けて、我に返る。
 マシュに、マシュに言うということは。マスターに、言うということは……。
「それは、つまり、……マシュとマスター公認の関係に、ということでしょうか……!?」
「はあ!? 違いますよ!! もー!」
 ぐいぐいと胸を押し付けられ、私の理性は崩壊寸前だった。この身体を押し退けようとしているのだろうということは何となく分かるのだが、場所が場所なのだ。
 その下に少しでも刺激が加われば、私はもう、取り返しのつかなくなることをしでかしてしまいそうで。
「見境なし! 他の職員にもこんなことをしてるいんですか!?」
「なっ……」嫉妬か! なんといじらしい!
 確かにこのカルデアは魅力的な女性で溢れている。勿論、彼女もその華麗な花々のうちの一人だ。評し、序列や優劣をつけることすら烏滸がましいその花たちの中で、彼女は、確かに、私の心を動かした。
 水面に映り込む月のように、私の視線を捕らえたのだ。
 肺が潰れる。息が詰まる。眼球はどこまでも潤っていて、いつか溺れたこどもを助けるため湖に飛び込んだときの感覚を思い出した。
「貴女にだけです」
 身体を軽く倒しながら、強い口調で言い放つ。
「このようなことは、貴女にしか、していません」
 拘束していた腕を解放し、そっと彼女の背中に腕を回す。引き寄せ、狼狽して震えている身体を優しく抱きしめる。私の身体を押し返すために腕を掴まれたが、力の差は歴然だった。
 私如きに翻弄されてしまう貴女の心は、どこまでも純粋で、無垢なのだろう。私がどのような罪を重ねてきた男であるか、貴女はきっと、何もかも知っているというのに。こんな男の言葉に、しっかりと耳を傾けてくれている。
 呼吸がしたい。呼吸。呼吸を。水面に口をつける行為を。酸素を求めて水面下から頭を突き出し、水にまみれながら、このからだの隅々にまで生を送り込むのだ。
 彼女の身体に手のひらを這わせ、背中、腕、肩、首、そして最後に、頬の輪郭を撫でる。素手で触れた彼女の肌は、少しばかり汗ばんだように、しっとりと湿っていた。
 透明感のある白い肌は薄桃色に染まりかけている。赤く染め上げてしまいたい。そう願いながら、彼女の瞳をじっと見つめる。
「なまえさん、私は――」
 言葉を、落とす。唇を、落としていく。私を見上げたことで半開きになってしまったくちびるを塞ぐために。
 首を軽く捻りながら、瞼を下ろす。ぎこちない衣擦れの音が響く。片手を彼女の後頭部へと滑り込ませ、私を今か今かと待っている、あの唇へと――。
「もおーッ!!」
 額に、鈍い音を立てて何かが直撃した。
 牛か。いや、暗闇の中で聞いた声音は確かに彼女の声だった。ぐらついた頭を押さえながら数歩後退する。片目を開けると、右腕を振りかぶっている彼女の姿が見えた。
 間髪入れずに左頬が弾ける。鋭い痛みが私を襲った。声を上げる間も無く怒涛の二連撃を受けて、私は確信した。これは、頭突きと、平手打ちだ。
「……っ、なまえさんっ!?」
「何が、貴女にだけ、ですか! そんなこと言いながら他の職員にも口説き回ってるの知ってるんですからね!」
「誤解です! 私は貴女以外の女性になど……、…………」
「ほらー! もう信じられない!! 善意や親切心からならまだしも、完全に下心丸出しじゃないですか! 貴方それでもお父さんですか! 父親の自覚は!?」
「何を! 私は紳士として当然のことをしているまでで……」
「辞書で紳士って言葉調べてきてください!」
 子猫の威嚇と同等。思わずこちらから手を出し、生え揃ったばかりの爪を立てられたくなるほどの。釣りあがった眉は綺麗な線を描いていて、そのラインに沿って指を這わせてしまいたくなる。赤色を乗せている頬の理由は、嫉妬か、怒りか、恥じらいか。願わくば、一番最初のそれであれば良いと思った。
「お疲れ様です! わたしはこれで!」
 愛らしい小さな体を駆使し、私の脇腹をすり抜けた彼女は、説教を続けることもなく出入り口に向かって足早に駆けて行った。床の上に落ちているがらくたをいくつか蹴り飛ばしながら、私に背を向けて走り去って行く。
「なまえさん……っ」
「ケダモノ!」
 振り向きざまに吐かれた言葉は、私の胸を鋭く突いた。明確な拒絶だった。頬に染み渡る痛みが直に馴染んできたころ、私は取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだと思い知らされた。
 肺が潰れる。息が詰まる。眼球はどこまでも潤っていて、いつか溺れたこどもを助けるため湖に飛び込んだときの感覚を思い出した。
 この度ばかりは、得たものなど何一つ無く、また、失ったもののほうが遥かに大きかった。一度持たれてしまった不信感を拭い去ることは容易ではない。ただでさえ私を警戒していた彼女が、次も情けで心を許してくれるとは限らない。そうして私は、彼女にのめり込んでいくのだろう。
 替えたばかりの白熱電球の明かりが、この胸の中に濃い影をつくる。
 肺が、震える。未だに私は、彼女に触れたいと思っている。愚かな。過ちを繰り返すばかりか。しかし、この想いは間違いでもなければ過ちでもない。あのときのように。あのころのように。
 己の一番深いところで芽吹いた感情によって私は破滅し、またその周りをも巻き込みながら潰れていく。
 やはり、無理だ。止められそうにない。自分の思いを伝えただけでこの有様だったとしても。熱の溜まった顔を、誰に隠すわけでもないのに片手で覆う。鎧の剥げた身体はいつになく熱く、燃え盛ってしまった心を覆う最後の砦も、汗でじっとりと湿っている。それすらも脱ぎ捨ててしまったとき、私は、本当の生身のすがたで湖に飛び込むことができるのだろう。
 呼吸がしたい。呼吸。呼吸を。私を誘惑するあの水面に口をつけて、水と酸素の両方を舐めとって吸い上げてしまいたい。私は、彼女に、なまえという人に。舌を濡らされ、喉を詰められ、肺を侵されてしまいたいのだ。肋の奥がむず痒い。なりふり構わず掻き毟ってしまいたい。
 堕落、させられる。しかし、それを望んだのは、紛れもなく私自身だった。

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