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 女は絨毯の匂いを嗅ぎながら、近づいてくる足音に耳を傾けた。唐突に後頭部へと走る痛みに声を上げることもなくその処遇を受け入れ、握り込まれた毛髪に絡みつく長い指先の感覚を思い知る。
 浮き上がった頭につられてぶら下がる上半身に抵抗の意思は見られず、「立て」と言った彼の声を耳にして、やっと絨毯の上に足の裏を乗せた。その踵は浮いている。

「俺を見ろ」

 女は静かに瞼を上げる。震える睫毛の先は、なかなか上を向かない。

「俺の目を見ろ」

 怒りに燃える黄金の瞳は女の目元を睨みつけている。間を置いたところで何の動きも見せない女に対し、彼は痺れを切らしたように女の身体を引き寄せた。
 それは決して情緒的なものではなかった。長い髪を掴んだまま、強引に距離を詰めるだけの乱暴なものだ。抱き止め、指先に絡めた女の髪をぐいと引っ張ると、やっとのことで細い喉が反らされた。「う、」漏れた声はか細く、まるで精気がない。

「俺を見ろ、俺は何だ。その視界の中に何が見える」
「あ……」

 言ってしまえば、何も見たくはないのだ。
 けれども女は彼のことをよく知っている。例えば、先ほどまで仲睦まじくお互いの輪郭に指を滑らせて遊んでいた――鍾離という男のことよりも、目の前の男のことを、この女はよく知っている。

「ああ……、」

 女の目が潤む。数秒前まで傍にいた筈の大切な人を一瞬で失ったからか、髪を掴み引き寄せられては彼自身から滲み出る威圧でなぶられているからか、死せる神を今一度その視界に収められたからか、眼球の瞼の隙間から水の玉がこぼれ落ちた。

「なまえ、」
「鍾離さん、鍾離さん……」
「お前には俺があの低俗な凡人に見えるのか」
「鍾離さんのことを、そんなふうに、言わないでください」
「口を慎め」
「鍾離さん、」
「俺はあの客卿ではない」

 黄金の瞳が翳る。雲の如き薄い瞼は睫毛の陰を見せ、赤い目尻がスウと消える。
 怒りに震えた唇が女の唇によって慰められようとしたとき、女は彼の腕を振り払った。長い指に絡んだ髪がぶちぶちと音を立てて引きちぎられる。「――!」声にならない悲鳴が女の喉元に引っかかった。突然のことに手の力を緩めた彼は、指先から解けていく女の髪束を掴み損ね、遂に自由を与えてしまった。

「待て、……」

 走り出す女の背などいつでも貫いてしまえるし、逃げる脚を折ってしまうことだって彼にとっては簡単なことだ。けれども、彼はその選択をしなかった。
 逃れようとするならばこの手で捕まえ、二度と逃走を企てようと思えなくしてしまおう。
 岩の魔神モラクスは、瞳に石珀の輝きを見せた。
 彼は緩く握った左の拳を前に突き出し、一瞬だけ手のひらを強く握った。再び力を緩めれば、指の隙間からさらさらと黄金の砂がこぼれ落ちた。それは瞬く間に人の輪郭を纏い、白い装束を身に付けた若い男の姿になった。深く被った頭巾の陰から、彼と同じ輝きを宿した目元が現れる。

「――往け」

 モラクスが命じる。白い頭巾の男は外套の裾を翻しながら女の跡を追った。揺れる長髪の尾が部屋の出入口から消えていくのを見ながら、モラクスは引いた椅子に座した。先程まで女が座っていた椅子だ。

「……、」

 己の手の中に残った女の毛髪を眺め、少しばかり口元を緩ませる。十数本の、艶のある女の髪である。
 彼はその髪をゆっくりと口に含みながら、恍惚とした表情で女に想いを馳せた。早くこの腕の中にあの痩躯を押し込めて、やわらかな唇を吸い、涙で濡れた目元を見ながらその身体が誰のものであるかを教え込みたくなった。一晩中腰を打ち付け、深い絶頂を与え、広がった奥の蜜溜まりにすべてを注ぎ込みたい。この際、見えるところに己の所有物である印を付けてしまうのもいいだろう。自分から秘部を開いて甘えた声で強請るまでしっかりと躾を施して、二度と塵芥の名を口にできぬよう誓わせて――それで、この度は許してやるとしよう。
 口の中に入れた髪の端を掴み、ゆっくりと引いていく。唾液の纏わり付いた毛髪はきらきらと輝いて、彼の舌先に張り付いたまま暫く離れて行こうとしなかった。あれも、早くこうなればいい。光を受けて艶めく女の髪を見て、モラクスは愛おしそうに瞬いてみせた。

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