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#羽化/糸師凛
「わたしを、りんくんの中で二番目に好きなものにしてね」

 そう笑ってみせたとき、わたしを見つめていた凛くんの表情が、まるでおぞましいばけものでも見たかのような、はたまた荒廃した世界の果てでも覗いてしまったかのような、そんななんとも言えない寂しいものになった。
 プールの底みたいな色をした虹彩のまんなかに、真っ黒に塗り潰された円がある。わたしは凛くんの目がとても好きだったから、きっとそのときも、瞼を大きく剥いて、あの綺麗な瞳をわたしに見せてくれていたんだと思う。

「俺は、」

 凛くんは眩しそうに目を細めた。外はもう暗くなりがちな、うっすらと煙たい時間だった。周りはそのほとんどがオレンジ色に染まっていたから、きっとわたしが背負っていた太陽の光が凛くんの目に刺さって、まぶしかったのだろう。
 橙色と、空の色が混ざったら、きっとこれから来るであろう夜のような、薄汚れた色になる。
 だから、わたしの身体で遮ってあげた。

「なまえのこと、」
「だめだよ」

 一際強い風が吹いて、わたしの白いワンピースを激しく靡かせた。飛んでいくはずのカンカン帽はとっくの昔になくなっていた。たしか、飛ばされたそれを二人で河川敷まで探しに来たのだっけ。もう随分と前のことだから、詳しいことや細かいことは忘れてしまった。

「りんくんの一番は、サッカーじゃなきゃ」

 けれど、大切なこと、忘れてはいけないことだけはよく憶えている。
 夕日に染まった肌は周りの景色と一緒くたにされてしまいそうで、早く小麦色に焼けてしまえばいいのに、と思った。そうしたら、明暗もしっかりして、わたしの形もはっきり分かるようになる。

「そんなのりんくんじゃないよ」

 わたしのカンカン帽は、いつまで経っても見つからなかった。だって、その日はずっと凛くんのことばっかり見ていたから、自分のカンカン帽が飛んで行った先なんか、知る由もなかったのだ。




「あ」

 昔のことに想いを馳せて、今の時間を忘れていこうとしていた。
 夏は好きだ、時の流れが早いから。わたしが一番好きな人のことを思い出させてくれるから。その人にもう一度会うために駆ける時間を、少しだけ縮めてくれるから。
 ばさばさと音を立てて、着ている白いワンピースの裾がはためく。ごー、と飛行機が飛んでいく音がする。追いかけるのはカラスの群れで、辺り一面、濃い目のオレンジジュースの色に染まっている。
 あの頃と同じ夏の夕暮れ、夜の入り口。汗ばんだ肌にワンピースが張り付く。昔とは違うメーカーの、同じ形のワンピース。めんつゆをこぼしてしまった場所まで同じだから、きっと思い出しやすい。
 あの頃と、同じ色の瞳。今日一日を過ぎ去って行った色、明日また来るかもしれない夏空の向こうの色。

「帰ってきてたんだ」

 あの頃と違うのは、身長と、体重と、心の中の闇の数と、わたしが麦わら帽子をかぶっていることくらいだろうか。
 大きな鞄を肩にかけた凛くんは、こんなに久しぶりに顔を合わせたって言うのに、何の返事もしてはくれなかった。前よりもずっと高い位置からわたしのことをにらみつけている。
 すごく背が伸びたねえ。顔付きも、全然変わったね。思ったことは全て、舌の裏に仕舞い込んだ。わたしと凛くんの会話には必要ないものだと思ったから。
 それに、今現在の話をしたら、過去のわたしと凛くんが、まるで最初からそこにいないもののように扱われてしまうかもしれなかったから、それは少しだけ悲しいかもしれないと思ったのだ。

「カンカン帽のリボンの色、りんくんの目と同じ色だったんだよ」
「は?」
「プールの底みたいな色」
「……もっと他にいい例えがあんだろ」
「無いよ、わたしはプールの底の色が好きだから」

 変わんねえな、と凛くんは言った。

「りんくんも、変わってないといいな」

 笑ってみた。世界が細くなった。
 その細い世界の真ん中に、わたしが世界で一番好きな人が立っている。

「めんどくせー女」
「でも、会いにきてくれた」
「たまたま通りかかったんだよ」
「じゃあ、運命だ」
「クセェよ」
「そう? 夏みかんの、いい匂いだよ」

 凛くんは、レモンの匂いがするね。
 うっすら笑ってそう言うと、凛くんはぎこちない動きで自分の手首のあたりを嗅いだ。
 そうなると、わたしはモンシロチョウになってしまうのかもしれない。
 凛くんが大好きなサッカーの、ボールと同じ配色であるというのは、良い。
 でも、色の配分が違うか。

「臭くないよ。りんくんはいい匂い」

 この酸っぱくて甘い匂いの正体が制汗剤の匂いでも、凛くん自身の匂いでもいい。

「大好き」
「俺は嫌いだ」
「そう? 世界で何番目?」
「一番」
「一番キライは傷つくから、二番目がいいな」
「めんどくせー女!」
「麦わら帽子のリボンの色。見て」

 わたしは自分の頭を指差した。

「りんくんの目の色とおなじ」

 麦わら帽子のつばの下で、にいっと笑ってみせると、凛くんは心底嫌そうな顔をした。あの頃よりもずっと大きな手で頭を押さえつけられて、暫く地面を眺めるはめになってしまう。

「りんくんの足じゃなくて、りんくんの顔が見たいよ」
「ウゼェよ」
「サッカーはまだ好き?」

 ふと、わたしの頭にかかっていた力が緩められる。わたしは帽子から頭をひっこぬいた。
 帽子の大きなつばを押し退けて、凛くんの頭があったあたりを見上げる。
 夕暮れに燃える前の、遠く、遠くの空の色。プールの底に差し込んだ、眩い光の色。

「りんくんだ……」

 口からこぼれた言葉が風に乗っていかないように、麦わら帽子を口元におしつける。「痛い」がさがさの部分が唇に擦れて痛かった。

「バーカ」

 唐突に掴まれた手首を引かれて、わたしはどうすることもできなくなった。凛くんはすっかり、どこもかしこも成長していて、わたしの腕に指が回せるほどに、手も大きくなっていた。

「どこいくの」
「帰んだよ」
「まだ遊ぼうよ」
「することねーだろ」
「あるよ。宝探ししよう」

 凛くんが足を止める。

「あのカンカン帽、まだ見つかってないんだ」

 急に握られた腕が痛くて大きな声を出したら、凛くんに怒られた。その怒り方は、あの頃とちっとも変わっていなかった。
 置いて行かれちゃうな。そう呟いたら、凛くんは呆れたような顔をして、またわたしの腕を強く握りしめた。

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