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 女がヌヴィレットの一定の仕草に違和感を覚えるようになったのは、あのしなやかでありながらも鋭角でできた長い指の束が、女の細い肩に優しく触れるようになってからだった。

「あれ、肩が凝ってるの? マッサージをしてあげようか?」
「いえ、大丈夫ですよ。……」

 小さな同僚に声をかけられた女は、何事もなかったふりをして、熱のこもる己の肩を抱いていた。「そう? 辛くなったらいつでも言ってね。肩叩きくらいならできるから」女の同僚は、丸い輪郭の手を口元に当てながら、心配そうに言った。

「ありがとうございます」
「そろそろ休憩に行ったほうがいいんじゃない? あなたは少しがんばりすぎだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。それに、あなたを心配してるのって、私だけじゃないんだよ」

 女は、所属するメンバーの殆どがメリュジーヌで構成されているマレショーセ・ファントムのエージェントのひとりで、普段はメリュジーヌたちの手に負えない業務を代行している準公務員である。他者の困りごとを見過ごせない生真面目な性格で、愛想の良さも相まって同僚のメリュジーヌたちから厚い信頼を寄せられていた。
 厳密に云えば、彼女たちは決して『同僚』ではないのだが、女と仲の良いメリュジーヌたちはそれを指摘されると湯を沸かしたようにかんかんになって怒るので、例え内部の人間であろうとも皆一様にその女の取り扱いには注意していた。
 丁寧で素早い仕事ぶりから共律庭に再配属を検討されていたが、未だに見送られている。その要因は、一度女の周りの様子を見てみれば一目瞭然であった。

「またヌヴィレット様のところまで郵便物を届けてあげたの?」
「いえ、わたしが廊下にハンカチを落としてしまったみたいで、それを拾ったヌヴィレット様が届けにきてくれたんです」
「そうなんだ。これでいつでもトイレに行けるね!」
「はい」

 両手を上げて喜ぶ同僚の姿に微笑んでいれば、早く休憩に行けとせがまれ、女は腰のあたりを何度も押されて部屋を追い出されてしまった。
 昼食すらまだ食べていないことを思い出した女は、ひとまず食堂へ向かうために歩き始めた。向かいからやってくるメリュジーヌたちの邪魔にならないよう通路の端を歩きながら、かけられた声に丁寧に挨拶を返した。
 女はメリュジーヌたちが通過したことを確認すると、ふと肩に残った仄かな熱を思い出したように手を伸ばす。

(失礼なことをしてしまった、)

 ヌヴィレットに触れられたときの感覚は、決して悪いものでは無かったはずだった。だから、きっとあれは意外な人物との接触に驚いただけで、不快とか、そういった類のものではない。彼は、我らがマレショーセ・ファントムのリーダーであり、この国の最高審判官である。だから、彼ほどの身分を持つ者からの親切心を邪険に扱うなど、あってはならないことだ。
 女はヌヴィレットに名前を呼ばれながら肩を叩かれただけだ。声をかけられても気付かないほど集中してしまっていたのか、左肩を優しく叩かれて初めて彼が後方に立っていることに気が付いたのだ。数えられる程度ではあるが、今までにも同じようなことは何度かあったし、特別意識するような事象でもないことは確かである。
 パレ・メルモニア内を出入りする男性は多い。よって、男性を見慣れていないわけでも、不慣れであるわけでもない。業務上メリュジーヌと接する時間が長いとは言えど、メリュジーヌとの対応ばかりが女の業務でもない。
 他の職員に肩を叩かれたことなど何度もある。それと同じだ。
 常に真摯な態度で皆に接する彼の手に、別の意味合いが乗っているかもしれないと考えること自体が失礼なことだ――女は頭の中で思考をぐるぐると掻き回しながら、自意識過剰、と己を叱咤した。

「考え事かね?」
「えっ? あっ!」

 俯いたまま歩いていたせいか、意識を全く別の場所に置いていたせいか、目前まで迫ってきている人物にぶつかりそうになって、女は慌てて制止した。しかし止まりきることができず、そのまま相手の胸に飛び込む形になる。「ぎっ!」「おっと、」勢い良くぶつかるも、相手は一歩引いてうまく衝撃を逃したようだった。
 女が少し顔を上げると、フォンテーヌの最高審判官であるヌヴィレットが、少しだけ驚いたような表情で睫毛を震わせていた。あまりの距離の近さに顔を伏せれば、お互いの距離が殆ど無いことを目の当たりにして、女は少し後退しながら冷や汗をかいた。

「ヌ、ヌヴィレットさま、」
「……先ほどもあまり体調が芳しくように見えたのだが、まさかここまでとは」
「あ、いや、」

 ただぼうっとしていただけとは言えず、女は唇を開閉しながら視線を逸らした。「あの、」両肩に、あのしなやかな指先が揃えられた手のひらが乗っている。

「大丈夫です。気分が悪いとか、そういうことはなくて、」
「今も前方から声をかけたが反応がなく、私が目の前に来てやっと気づいたように見えた」
「……お腹が空いていて、今から食堂に行くところで。ご飯のことを考えていたんです」
「昼休憩にしては随分と遅い時間だが……」
「いつもこれくらいの時間にお昼休憩を頂いているので、大丈夫です。……ヌヴィレットさま、」

 細い両肩に触れていた手がするりと逃げたかと思うと、ヌヴィレットの指先が女の背中あたりでゆっくりと組まれた。「え……」絡む指先は柔らかく、しかし簡単に解かれることはなさそうである。
 女はヌヴィレットの腕の中で大狼狽し、奥歯をぎゅっと噛み締めた。ただでさえ最近のヌヴィレットに対し不信感を持っている女ではあるが、彼は誰に対しても同じ態度であるに違いないと考えては不躾な疑念を振り払って己を納得させていた。
 現状はといえば、彼に軽く抱きすくめられている。失った距離感を取り戻すために、女は錆びつく口を開いた。

「ヌヴィレットさま、あの、」

 細波に揺蕩う水の泡ほどの穏やかさで、ヌヴィレットが言う。

「君に半休を与える。今日はもう帰宅して、早めに休むといい」

 柔らかな声色だった。滑らかな発音だった。明らかに、女の体調を心配しての発言であることが見てとれた。

「それは……よくありません。まだ仕事が残っています、」
「私が処理しよう。君が担当する業務内容は頭に入っている。気にする必要はない」
「でも……」

 彼が指を組み直す仕草をすると、女はくすぐったそうに身体をこわばらせた。状況の整理に頭が追いつかないのか、視線を揺らがせては目の前に広がるヌヴィレットの体躯に圧倒されるばかりである。

「昼食を食べてから考える、ではいけませんか」
「無論だ」
「……あの、人の目が気になるので、一度離して欲しいです」
「周りには誰もいないから安心するといい。また、君が素直に半休を承諾するようなら解放しよう」
「そんな……」

 背中のほうから、複数人が慌てて走り去る足音が聞こえた。人間よりも軽く小動物よりも重い二足歩行の生物が、声をひそひそと隠して壁の向こうに消えていく。
 女は一気に恥ずかしくなって、眉を下げながら眼前にある礼服の留め具を見つめ続けるしかなかった。

「や、休みます、帰って寝ます」
「うん、それがいい」
「……離してください、」

 彼の腕から解放されたい一心で女は条件を飲んだ。
 女の背で結ばれていた指は解かれ、名残惜しそうに離れていくものの、まだ心残りがあるのか、濃い色の手套に包まれた指先が女の耳のあたりを掠めた。柔らかな耳殻を優しく触れられ、びく、と矮躯が固まる。

「耳が赤い。……大事を取って、明日も休みを取るべきだ。申請は私が通しておこう」
「い、いえ、大丈夫です! 大丈夫ですから……半休で……」

 女は顔中に血が集まっていくのを感じていた。重なる羞恥でさらに耳は赤く染まっていった。
 それを見たヌヴィレットは、どこか楽しそうに口角を上げていた。顔にこそ出難いものの、こうして女と言葉を交わし、近い距離で交流できることがどうにも嬉しくて仕方がない様子であった。
 女が己と視線を合わせないように顔を背けていることに思うところがあるようで、彼の穏やかな目付きには少しばかり企みがちらついている。

「唇の血色も、良くないように見える」

 指は朱色を乗せた耳を滑り、薄桃に染まる頬の横を通ると、軽く開けられたくちびるに触れた。
 柔く、小さく、触れれば忽ち溶けてしまいそうなほどの。彼が強く心を引きつけられる、薄紅梅の色を乗せた口唇である。
 その輪郭に触れた指先は、色のついた粘膜を優しく撫ぜる。
 指先を軽く押し退ける女の唇は、なめらかで、滑りが良さそうで、思わず吸い付いてしまいたくなる――。

「……失礼。唇の彩りを拭ってしまったようだ。すまない」
「い、え、……こちらこそ、すみません。ヌヴィレットさまの手袋が汚れて……」
「構わない。異性の身体に勝手に触れるなど、間違いでもあってはならないことだ。心から謝罪させてほしい」
「いえ、大丈夫です。ヌヴィレットさまですし……」

 彼の心がほんの少しだけ跳ねた。「それは、」掠れた小さな声が漏れる。表情が綻びかける。

「わたしを心配してくださったんですよね、すみません」

 女は口元を一瞬だけ手で隠し、「リップなら大丈夫です。ちょっと触った程度なら、そう簡単に取れません」すぐにヌヴィレットに唇を見せた。
 笑う女の口元には、彼の視線を釘付けにする柔らかそうな唇が、ほのかに色づいている。「ブラシーネみたいな色で、気に入っているんです」と、女は仲の良いであろうメリュジーヌの名前を出して、その場を和ませようとした。

「……ああ、良い色だ」

 ヌヴィレットは静かにそう言って、女に速やかな帰宅を命じると、別れの挨拶をしてその場を後にした。揺れる長い銀色の髪に美しい青を流すその姿は、どこか上機嫌そうであった。
 女は彼の背中を見送りながら、ふと頭に浮かんだ疑問について考えた。どうしてリップを塗っているのに唇の血色が悪いことが分かったのだろう。暫く考えてみたが、答えは出てこなかった。

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