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 こちらへと伸びてくるしなやかな指先を掴むのに何の迷いも必要ない筈なのに、今回ばかりはその手に触れるのを躊躇っている。大好きな召使様の手の平を受け入れられないなんて、そんなことあっていい筈がない。思うだけならば簡単で、けれど、身体ばかりがどうにも動かない。
 暗がりの部屋、仄明るい卓上ランプの灯りに照らされている召使様の姿は目を見張るほどに美しい。けれど、小さな橙色の光程度では、到底その冷徹な印象を覆せなかった。
 息が詰まる。それなのに、感嘆の溜息が口から漏れ出そうになる。彼女を呼ぶための唇は動かず、足さえもぼんやりとした影に縫い付けられている。決して固くはない束縛であるが、決して逃れられない束縛だった。
 向けられている微笑みは今までにないほどに熱を孕んでいて、目の前の彼女は本当に彼女その人であるのか――そんな、非現実的なことを考えてしまうほどだ。

「なまえ、」

 熱い吐息を纏わせて、彼女はわたしの名前を呼んだ。手套の外された、白く滑らかな皮膚に包まれた召使様の指が、軽く宙を掬った。

「おいで」

 優しい声色はわたしに恐怖を塗りつけた。慈悲深い視線はわたしの身体を凍らせた。ぎらぎらとひかる獣のような、滾る瞳がわたしを見据える。ジリ、とランプの火が音を立てた。わたしに警鐘を鳴らしているかのようだった。「なまえ」わたしの名を呼ぶ彼女は、皆の前では見せないような柔らかい微笑を浮かべている。
 『家』の子たちに見せる笑顔とも、また別のように見えた。『家』は、召使様が経営している孤児院のことで、壁炉の家と呼ばれているらしいそこには、何度か連れて行ってもらったことがある。わたしのような身寄りのないものがたくさん集まって暮らしていて、その子たちは自分たちのことを『家族』と呼んでいるらしい。彼女に連れて行ってもらうたびに、わたしもいつかこの『家』のものになり、そこで生活するのだと思っていた。けれど、いつまで経っても召使様にそれを許してもらえることはなかった。きっと、まだわたしは『家』のものに相応しくないからだ。
 ただ、面識はなくとも、口を利いたことさえなくとも、召使様という人を介して、わたしはあの子どもたちと、繋がりのようなものを感じていた。だから、わたしはみんなの家族であって、召使様の、家族であるのだ。明確な役割は与えられていないが、もしもわたしが他の子たちと同じであるならば、わたしもきっと、召使様の子であるに違いない。
 彼女の小さな鼻から抜けていく少し荒くなった息の音が耳にこびりつく。内鍵を閉めたばかりの扉に縋りつきそうになる。ここから逃げ出してしまいたい。けれどもそんなことをしたら、わたしが今の召使様に何を感じているかを悟られてしまう。怯える必要なんか初めからない筈なのに、わたしは何を想像して、何に怖がっているのだろう。召使様は怖い人ではない、わたしに危害を加えるような人ではない。分かっている筈なのに、己の直感を優先しそうになる。

「おいで」

 わたしの親というものはもうすでにこの世にいないが、召使様の唇が形作ったその言葉は、親が子を呼ぶそれとは全く違う気がした。
 足が動かない。立ちすくんだまま、召使様が瞬きする様子を眺めている。

「……ふふ、」

 彼女は鼻歌を歌うように笑いながらゆっくりと近づき、その美しい顔を寄せてはわたしの頬に唇を寄せた。「え、」驚いて声をあげても、身体ばかりが動かない。腰に手を回されても、拒絶の一つもできなかった。
 拒絶をして、わたしはどうしようと言うのだろう。わたしは一体何を拒もうとしているのか、自分でも理解が追いつかなかった。召使様を拒んでも良いことなんか、ある筈ないのに。

「あ、あの、」
「うん?」

 思い切って声を出せば、召使様は穏やかな声色で返事をしてくださった。けれど、わたしの身体をまさぐる手が止められることはなかった。「何、何を、」目的を聞こうとした瞬間、服の中に冷たいものが滑り込んできて、息を飲む。
 それは召使様の手の平だった。人間の生の手の平の感触であった。冷たい、と感じた頃には、わたしの体温を吸い取ってぬるい熱を帯びていく。
 耐えきれずに軽い悲鳴をあげる。召使様は何度か喉で笑ったあと、はあ、と満足気に息を吐いた。まるで知らない人みたいだった。わたしが尊敬する召使様とはまた別の人のようで――そんなことを考えてはいけないのに――恐ろしいと、そう感じてしまう。

「召使、様」
「うん」
「わたし、あの、違うんです、怖いとか、じゃなくて、驚いただけで」

 必要のない言い訳を並べれば、召使様はわたしの頬を優しく撫でながら、急速に顔を近づけた。
 全身が凍りついて固まり、動けなくなる。程なくして召使様の唇がわたしの唇に重ねられた。柔らかい唇はわたしを数回軽く啄み、吐息と共に離される。
 まるで永遠の時間のようだった。わたしには召使様のお考えが分からない。だから、召使様の『家族』にもしてもらえないのだろうか? それとも、わたしがもう小さな子どもと呼べるような年齢でもないからか。
 頬を撫でる指先の冷たさは完全に失われていた。
 
「これも、驚いただけか?」

 ふふ、と彼女は余裕を含んだ笑みを浮かべて言った。不自然な場面での笑うという行為に疑問を覚えたことはあれど、恐怖を覚えたのは今日が初めてだった。

「なまえ」

 召使様に名前を呼ばれることは、わたしにとってとても喜ばしいことだった。それはわたしの誕生日を祝っていただいたときに得た感情と同じだった。
 でも今は、ひどく恐ろしいと感じてしまう。召使様の行動や発言に、もう驚きたくない、そう思ってしまう。
 召使様は笑みを絶やさぬまま言った。

「たくさん驚けば、身体が慣れてくる。身体が慣れてくれば、脳が慣れてくる。脳が慣れてくれば、驚くこともなくなる」
「あ……、でも、」
「数をこなせばすぐに慣れるだろう」

 ふう、と耳元に吐息がかかる。わたしはそれを避けることもできないまま、耳の奥深くにゆるやかな熱気を受けて、背筋を震わせた。
 召使様の言っていることはよく分からなかった。ただ、召使様はこれからわたしが驚くようなことや、とても怖いと思うようなことを、このまま続けるつもりなのだ。召使様の言葉にならなんでも従える、そう思っていたのに、この雰囲気に慣れてしまいたくない気持ちでいっぱいになる。
 慣れてしまったら、良くない気がする。慣れてしまったら、もう戻れないような気がする。ランプの灯りはもうわたしのことを照らしてはくれなくて、わたしは、召使様の腕の中でだんだんと身を広げてゆく仄暗い熱に包まれながら、赤く燃える、燃えていく家のすがたを、思い出していた。

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