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「鍾離さん、」

 そう言いながら甘えるようにして己に凭れかかってきたなまえを見て、鍾離は目を剥いた。左肩に擦り寄せられる彼女の頭に心を躍らせるも、この動揺を悟られまいと唇を引き締める。
 酒には弱いため嗜む程度だ、と聞いていた鍾離は、流石にここまでとは思っていなかったのか、少しばかり眉間に皺を寄せて机上の酒瓶を睨みつけた。長椅子に沈み込んだ身体は動きたがろうとせず、また、拒絶の意思など初めから生まれるはずもない。
 流れてくる吐息に練り込まれた果実酒の香りが彼の鼻腔をくすぐる。動揺を瞼の裏に隠しながら「なんだ、」と零せば、「鍾離さん」と彼女の声で彩られた己の名が飛んできて、鍾離は言葉を失った。
 今まで彼女にそのような色を含んだ声で呼ばれたことなどなかったし、こうして積極的に触れられることもなかった。行動の意図を掴むことがどうしてもできず、鍾離の心は揺れている。彼女自ら距離を詰めてくることを純粋に喜んでよいものかと軽く唸り、やわらかく笑うなまえの表情を眺めていた。

「鍾離、さん、」

 その発言には内容も意味もない。ただ、反応に困る彼の様子を見ては、悪戯っぽくくすくすと笑っている。戸惑う鍾離の腕に触れ、袖のあたりを指先であそび、固まっている手をつついた。指の腹が手套を滑り、鍾離の肌色の手首に軽く触れる。
 彼女の体温を肌で感じた瞬間、鍾離は瞬く間に岩のようになった。彼女がどうして自分に対し、こんなことをするのか理解ができなかった。ただ、確かな喜びが彼の全身を駆け巡っている。かくして心臓は止まり、呼吸は中断され、まばたきは忘れられるようになった。
 まるで服の下に興味を持たれているようで、この化身の内側である己自身に気があるように思えてしまって、どうにも平常心を保てない。こんなことがあってもよいのかと、世界に対して疑念すら向けている。文字通り何をしても己に視線を向けることのなかったなまえが、これほどまでに熟れた目をして、己のことを見つめている。
 さらに身を寄せたなまえは、鍾離の身体に手を這わせながらその胸板に耳をつける。

「……全然どきどきしてない。鍾離さんは、わたし自身に興味とかないんですか?」
「何、を、」

 顔を上げたなまえの潤んだ瞳が、夕景の瞳に熱を向ける。「鍾離さん」少しだけ震えた声に吐息が混ざる。赤らんだ頬はいつしかの情事の表情を連想させた。記憶の中にしかない、或いは虚構の記録が彼の身体を蝕んだ。
 酔いが回りすぎているだけに違いない、と鍾離は再び心臓を動かし始める。なまえの身体を引き剥がすために手を伸ばし、呼吸とまばたきを再開させた。
 鍾離が彼女の腕に触れた瞬間、びくりと細い肩が跳ねて、「嫌、」と声が上がった。触れられることを拒絶されたわけではないが、鍾離の内心には少しばかり靄がかかっていた。

「やだ、鍾離さん、なんで……」
「……っ、少し飲みすぎだ。これ以上は良くない。水を持ってくる、少し待っていてくれ」
「な、なんで……っ、なんでですか、わたしじゃだめなんですか? わたしじゃ興奮できないって、ことですか、」
「何を言って、」
「う……、」

 その場で静かに泣き出したなまえを見て、鍾離は己の身体が瞬く間に熱を持っていくのを感じていた。「うう、」鍾離の腕に縋りつき、大粒の涙をこぼして鼻を啜り始める。

「なんで、うう、鍾離さん、」
「……酩酊している女性に手を出すほど、俺は落ちぶれてはいない」
「出してほしいのに、」

 彼がその言葉に甘えられたらどれほど良かったことだろう。衣服を剥いで肌を吸い、肉を開かせ、膨れ上がった劣情を誘われるままに捻じ込んで、迸る愛欲に堕ちる。水滴の滴る珠の肌に朱を灯し、奥を穿って、互いの存在を求めあいながら共に果てようと言うのだ。
 今すぐにでも彼女を抱きしめて、口づけをしてしまいたい。判断能力の鈍った頭を優しく撫でて、愛さえ誓わせてしまえたらきっと楽だ。策略は彼の脳内で糸となって絡み合い、大粒の玉を結んだ。解けなくなったが最後、彼は鋭い刃で糸ごと切断してしまう。それだけはだめだと甘い誘惑さえ引き千切ろうとした瞬間、「鍾離さんのばか」なまえが身を乗り出した。

「酔っても何もしてくれないなら、もう、わたし、どうすればいいんですか……」

 果実酒の香りが鍾離の鼻腔を掠めたとき、既に彼の唇は口づけによって塞がっていた。唐突すぎる出来事に、彼の身体は瞬く間に石になって、そして肉の柔らかさを得ることなく、彼女のなすがままになった。

「ん……、」

 吐息の混じったなまえの声が漏れる。鍾離のくちびるに吸い付き、そこを甘く食む彼女の仕草は、彼の中にあった淡い小さな夢を叶えた。精一杯首を伸ばし、懸命に相手の気を引こうとするそのさまは、鍾離の理性が砕け散りそうになるほどだった。「……これでもだめですか?」唇を離したなまえが、潤んだ瞳で問いかけた。鍾離は同等の熱を込めた視線を返すと、なまえの肩をとり、自分の左胸に彼女の耳を当てさせた。「……あ、」跳ねる心臓の音を聞けば、なまえは恥ずかしそうに俯いた。そのようになってほしいと望んでいたのは彼女であるのに、実際に鍾離の心臓が激しく動く音を耳にすると途端にしおらしくなる。
 彼はなまえの手を拾い上げ、優しく握って彼女の望みに応えようとした。ただ、今の彼にできるのはそこまでであった。

「鍾離さん、」

 なまえが鍾離の胸に向かって話しかける。「鍾離さん……」肋の奥にあるところのものを欲しがる声で彼女は言う。彼は柔らかな唇が己の望む言葉を形作るのを今か今かと待っていた。

「好きです、」






 暗闇のないところから、光の差し込む世界が開ける。瞼を押し上げた先にあるものは己がつくりあげた邸宅における天井であり、その空間における空の限界をあらわす蓋である。

「……」

 気怠さを練り上げ、覚醒時の人の形を模倣する。自然と肉体の内側で感覚を麻痺させる。ぼんやりとした頭、滲む視界に映り込むのは宙を舞う埃のかがやきと、彼が定めた角度で差し込む朝の光だった。
 彼は入眠してから凡そ六時間後、己の瞼の裏側で夢とされるものを映し出す仕組みを施していた。睡眠を経験しながら何か別のことを体験してみようと思ったのだ。たとえば掴めない現実、あり得ない夢幻を見て、己を慰めようとした。己の欲望に嘘をついて、健気にも誤魔化そうとしたのである。
 既に誤魔化しが効かないほどに、彼の心は独りよがりで溢れていた。身を起こし、開いた手の中を眺めている。触れていた筈の柔らかなぬくもりは消え、ほのかに香る果実酒のいろ、それに混ざった彼女の肌の匂いはどこにもない。「鍾離さん、」鍾離の鼓膜がその声を拾うことはなく、幻聴にも満たない空想の呼びかけが彼の脳裏に響いた。
 嘘を食べたところで、本物の食感には到底勝てないことを彼は知っていた。願わくばすぐにでも彼女を抱きしめてやりたかった、口づけをして舌を絡ませ、寝具へと引き摺り込んで肌を打ちつけあいたかった。

「……はあ、…………」

 深くため息をつき、馬鹿馬鹿しい、と鍾離は独りごちる。夢の中でさえできないことを、現実で成し遂げられるはずがない。
 彼はそこが夢の中であると自覚があっても、彼女の肌を見ることを拒んだ。その白い肌がどれほど瑞々しく滑らかであるのかを知っていて、触れたいと思いながらもそれを拒絶した。幻想に手を出して満足できるほど、彼の欲は薄っぺらなものではない。目の前の情景が現実でない限り、それを掴もうと意味はないとして自制をかけていた。

「……、」

 鍾離は再び手を開いた。なまえの手を拾い上げたときに触れたときの感覚をまだ覚えている。それは柔らかく、ほのかに温かい。切り揃えられた爪は丸く、健康的である。薄皮の下に骨が入っていることがよく分かる、至って一般的な女の手だった。そこに己の長い指先を絡めて引き寄せてしまえたなら、解けることなく己の手に導かれてくれるなら、彼は満足だった。
 だから、夢から覚めたのだ。こちら側でもそのようになれば良いと信じて、まるでお手本を確かめる学徒の如く、鮮明に記憶を蘇らせていた。

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