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#タルタリヤの本名が出ます
#完凸公子の番外編
#捏造がたくさん




「アヤックスは睫毛が長いね」
「は、」

 ちゅう、と音を立てて、なまえは俺の左瞼にキスをした。なまえの肌と髪と衣類の匂いが急激に近づいてきた、その事実に一瞬だけ混乱する。
 いつだって動揺を植えつけてくるあの憎たらしい唇が離れていく。俺に馬乗りになったなまえは、何故だか不思議と落ち着いていて、この場で俺だけが落ち着いていないみたいだった。
 動揺する俺に向かって、またなまえが近づいてくる。垂れ落ちる髪の一房が俺の頬を撫でる。「……酔ってる?」「酔ってない」なまえからは酒の匂いもない。今は夜でもない。けれども目の前のなまえは、どうにもなまえではないのだ。

「なに、誘ってるの」
「そうだと言ったらどうするの」
「……うーん、俺は下より上が良いかなって、うわ!」

 服と肌の隙間に冷たい手のひらが滑り込んできたのを感じて、びくりと身体が跳ねた。シャツを押し上げるしなやかな指先が俺の腹筋を撫でる。見えないところで臍のあたりをつつかれ、くすぐったさに視界が狭まる。

「ここ、アヤックスのおへそ」
「っ、ぁ、そうだね、……何? 俺のこと、どうするつもりなの?」
「……どうしよう」

 ふと、なまえが困ったような顔を見せた。「どうするのがいいのかな」自分からけしかけてきたくせに、随分と何も考えずに行動を起こしていたらしい。流石にそこまで模倣する必要はないのでは、と作り物に対して高望みをしすぎていたことに反省しつつ、ひとつ、目の前のそれに質問をぶつけてみる。

「なまえは俺と何がしたいの?」
「何がしたい……?」
「……俺と、いやらしいこと、したい?」
「いや、したくない」
「は? なんでだよ」
「こういう風に、上に乗ってみたいと思ってた」

 拍子抜けだ。ただ、とても良い方向で。「俺の腹を触るのも? 触ってみたかったんだ?」「うん、腹筋でてるの、かっこいいから」「なまえはまだ薄いね」「うん……」なまえが自分の腹を撫でる。そこにそっと手を伸ばしてみれば、いつもならば真っ先に振り払われるところを、意外にもすんなりと受け入れてもらえた。
 俺はそれにドキドキして、なんだか頭がくらくらするようで、不思議と顔に火照りを感じてしまっている。なんだか俺の我儘や欲求が許されているような、そんな気がした。
 気がするだけ。本当に、許されているわけじゃない。知っている、分かっている。けれど、どうにも甘えてしまう。

「くすぐったい」
「あぁ、ごめんごめん。くすぐったいとか、一応痛覚はあるんだね」
「何言ってるの」
「ううん。なんでもないよ」

 外形と言えども、ある程度は複雑なものも思考できるみたいだ。このなまえの形をしたものが嘘を扱えるかどうかは、まだ分からない。
 稲妻の古代陰陽術式で編まれた四方の網――それを分析し、古書の記述に基づいて改良を重ね、術式の精度を上げたもの。『名を付けるならば、四荒八極の網だろうか?』気の知れた研究員の男が送ってきた手紙にはそう記されていた。送った試作を元に、サンプルデータが欲しいなんていう建前付きだった。
 ただの強力な自白剤が欲しいだけなら、わざわざ外形を捉える必要はない。女皇様がこれの開発を許可した真意とは、恐らく国家戦力の増強にある。若しくは、俺にこれを渡してきた研究員の趣味か。実験の末、将来的に成果が得られるということなら、まあ手を貸してやらなくもない。実際にいくつか部下を相手に使用して、安全性は保証済みだ。
 俺の上に乗っかったなまえの外形の精度は随分と高い。仮に隣に本人がいたとしても、その見てくれだけでどちらが本物かを判別することは困難だろう。それくらい、癖も仕草も完璧で、口調も、抑揚の付け方さえもまるで本人だ。もしこれが本人であったらどうしよう。そんな不安に駆られることは決してないと断言できるのは、その内面があまりにも本人のそれと乖離しているからだ。

「アヤックス、」
「ん」
「お腹見せて」

 ひた、となまえの冷たい手が再び俺の腹の上に落ちる。「脱いでよ」「へ、ぇっ?」飛び上がるほど間抜けな声を出したのは俺だ。いやだって、脱いでって、あのなまえが、俺に服を脱げって言うなんて、誰が想像できるんだ。

「アヤックスと同じくらい鍛えたい」
「それは……無理だよ、男と女じゃ体の作りが違うんだ。相当努力しないとできっこないよ」
「努力するよ、わたしは早く、アヤックスみたいになりたいんだもん」
「俺みたいに?」

 制服を強引にめくられて、腹がひやりとする。「うぁ、」こんなに大胆な手を使ってこられるとは思っていなくて、つい奇襲を許してしまった。だって、あり得ない、こんなこと、あり得るはずがないんだ。
 普段の様子と一変して全くもって積極的で、俺には刺激が強いくらいだった。なまえが今までにこんなふうに自分から寄ってきてくれたことなんてなかったし、許可もなく肌に触れるなんて、「ん、っ」一度もなかった。

「あ、ちょっと、ふ、あははっ、くすぐったい、よ、なまえっ」
「どうやったらこんなふうになれる?」
「んっ、く、ふふッ、は、目的を持って、正しく鍛えること、かなっ、」
「ふーん……」

 なまえの腕を掴んでも、まったく動じない。軽く手首を捻ってやろうかな、でも、まだ触られていたい。なまえから触れてくることなんか滅多にないんだ、これが本物ではないとしても、もう少しくらいは良い思いをさせてもらいたい。
 このなまえは、どうやら俺に気があるようだから。本物もそうに違いないと信じて、思い違いを飲み込んでやっても良いはずだ。

「……少し運動しようか。この体勢のままできる、トレーニングをしてあげる」
「トレーニング」
「そう」
「アヤックスが、わたしに教えてくれるの?」

 俺の腹を触りながら、なまえは問うた。「そうだけど?」俺はなんの確認なのかも分からず、ただ聞かれたことに肯定を返した。
 するとなまえはそっと笑った。例えば紐が解けるみたいに、積もった雪が輝いて溶けるみたいに、とろ火が冷水を温めるみたいに。

「うれしい」

 もう二度と見られないと思っていた、故郷に降り積もった雪の奥深くに埋めてきてしまったものだと思っていた。ある日を境に消えてなくなった、あの温かく柔らかな微笑みを、俺は再びこの目に入れてしまったのだ。
 そのなまえのようなものは、なまえが子どもの頃と同じ、あの屈託のない笑顔を俺の心に突き刺した。
 ばくばくと、心臓が喚き始める。ああだって、それは俺が求めて止まなかったものだ。俺はなまえが笑った顔があまり好きではなかった、だって俺には決して向けてはくれなかった表情だったから。俺以外のやつに向けられるものだった。なまえという女が俺という男に向ける表情は、いつだって決まっている。燃ゆる希望か、灯る絶望か、二つに一つ、またはその両方。

「嬉しい? 本当?」

 それは聞いてはいけないこと。そうと口に出してはいけないこと。それの耳に入ってはいけないこと。
 外形から本質の真意を聞き出そうとするなんて、決してやってはいけない。

「嬉しいよ、アヤックスに何か教わるの、何年ぶりだろう」

 こうなることが分かっていながら、俺は、自ら氷の縁に手をかけて、冷たく暗い海の底に落ちていく。
 身体の中をぐちゃぐちゃに掻き回されている気分だ。腸を引きずり出され、胃を砕かれ、腎臓を握り潰される、体験したこともない感覚が体内で渦巻く。腹の底が熱い、粘膜が爛れているみたいで、どくんと脈打っては熱が下腹部に集中する。
 その笑顔を見ていると、どうにも壊したくなってしまうのは、俺の意志がまだ弱いからなのかもしれない。
 本物じゃないくせに。俺に何かを教わった記憶なんかその内側のどこにもないくせに。ただの見た目が同じだけの、出来の良いばかりの贋作のくせに。俺に好意的ななまえなんか、存在自体が嘘のくせに。こんな嘘に甘えて良い筈がない、本物じゃなきゃ意味がない。俺が馬鹿だった、こんなもので満足しようとしていただなんて。
 俺の好きななまえは、もっと嘘つきで、素直じゃなくて、俺の目の前で笑わない、非情で残酷な女だ。俺を満足させる気なんかかけらもなくて、常にすべてを間違えていて、人の言うことを聞かず、「アヤックス、」無自覚なまま、俺の何もかもをめちゃくちゃにしようとする。

「ありがとう」

 そう言って笑顔でなだれ込んできたなまえは、思い切り俺のことを抱きしめて、「本当に嬉しい!」と小さく叫んだ。
 分かっている、これが偽物であることも。己というものがなく、人を欺く理由もない。故に嘘を吐けない、吐く必要がない。
 この外形になまえの魂はない。それを構成する核となる信念も、培われてきた経験も。これはただ反射で動く駒であり、そこに人の意思はない。
 でも、それでも、この狭い背中に腕を回してしまうのは、抱きしめ返してしまうのは。俺がどんななまえでも受け入れられて、愛せてしまえる、その証拠でもある。
 これはなまえではない、頭では分かっているけれど。見た目は完璧になまえであって、声も、仕草も、なまえと全く同じである。
 押し付けられる胸の大きさも、弾力のある皮膚の質感も、肌の匂いも、呼吸の仕方も、軽い吐息の吐き方だってなまえそのものだ。
 素直になって欲しいとは望んだけれど、ここまで極端なものを出されるとまた別の欲望が膨らんでくる。
 俺は、なまえにほんの少しだけ素直になって欲しかっただけだ。不貞腐れた表情で寄り添ってくるだとか。感謝の言葉を述べるのは恥ずかしいから、キスで済ませようとするだとか。性欲を発散させるための相手に、俺を選んでくれるだとか。

(まあでも、これが本音ってことで……いいんだよね)

 そうなると、なまえは普段から嘘を取り繕っていることになる。仮にそうであったとして、ここまで豹変するのは少し信じ難いことだ。ああ、嬉しい、嬉しいな。虚構の想い人を目の前に作って、それでどうにかなろうだなんて、馬鹿げている。それでも、決して得られることのない結果が嘘でもそこに映し出せるというならば、それを活用しないほうが愚か者だろう。

「なまえはさ」
「うん?」
「俺のこと、好き?」

 軽く抱きしめたまま、小さな耳元でそう囁いてみる。後悔すると分かっていて、それをした。こうでもしなければ、俺は追いかけてしまう。眼前に敷かれた氷の道を完全に割り切らなければ、俺は何度でも足を前に出すのだろう。落ちて、這い上がって、また落ちる。

「分かんない」

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