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#仙輝暗転の番外編




 鍾離さんがふとしたときに見せる、緩やかな微笑みが好きだ。本当に、誰にも分からないくらい少しだけ口角を上げて、あの切長の目を細めながら、息を吹くように笑う。笑顔と呼ぶには若干物足りない表情かもしれない、けど、わたしはあの微笑みが好きだと思う。
 璃月の海上に滲む朝焼けほどに優しくて、天衡山の向こうに落ちる夕焼けほどに温かい色をしている。顔つきに反して冷たい印象はなく、そしてそれほど寡黙でもない。不思議な人だ。
 他の人から聞いていたよりも笑う人なのだと気づいたのは、わたしが珍しく耳飾りをつけて講談場に赴いたときのことだった。岩王帝君の尾の先を模した耳飾りで、あのいくつも枝分かれした尾の内の、細い房の一本をお借りしたような、なんとも美しい一品だ。
 わたしが髪を軽くかきあげ、右耳から下げているそれをそっと手のひらに乗せて見せると、鍾離さんは一瞬だけ身体をこわばらせた。そして、

「とても似合っている。君らしくて良い、そうだな、良い……良い、ものだ」

 と言いながら、何か特別なものを見るような目の色をして微笑んでいた。「お気に入りなんです」とわたしが言えば、「そうか、」と一言だけが返ってきて、返答に困る言い方をしてしまったな、とわたしは少しだけ反省した。
 耳飾りの先を、軽く指で撫でる仕草をする。わたしの耳の下でそれは垂れて、風に揺れる。

「……、」

 そのようすを見つめる鍾離さんの瞳は、朝焼けでも夕焼けでもない、何かの別の輝きを放っているように思えた。ふと彼の眼に視線を合わせれば、何事もなかった顔でこちら見つめている。「どうした?」「いえ、」彼は姿勢の良い人だ。背筋をまっすぐと伸ばして腕を組んでいるだけでも只ならぬ威厳を感じるほどなのに、実際に話してみればどこかあどけなさの残る人だと云った印象さえある。
 硬すぎるが故に、よく見れば抜けが目立つ。それは決して悪い意味ではなくて、石垣の見た目をしているというだけだ。不規則な模様さえ美しい、ただ全体を見てみれば計算されたそれなのだと初めて気がつく。
 彼がモラをよく忘れるのはきっと計算ではない。いやもしかしたら計算なのかもしれないと勘ぐってしまうほどに、彼はモラに関して忘れっぽい。
 この人はきっと、自分一人では生きていけない。他人が手を焼いて初めてそこにあるような、とまで行くのは少し言い過ぎか。
 わたしの愛する神も、周りに人がいなければ神としてそこにあることはなかった。
 璃月すべての人々と契約を結ばずとも、岩神の座を降りた今も神として崇められる姿を、わたしはどうにも美しく思ってしまう。「わたし、」無意識に、言葉がこぼれていた。

「あり得ないことですけど、」

 今から言おうとしているものを、わざわざ口に出す必要はなかった。けれどもこぼしてしまったものは仕方なく、目を丸くした鍾離さんの整った眉頭を眺めながら、言う。

「次の岩神の座につくものがいたとして、そう、いたとして……それを、わたしは岩神として受け入れられないかもしれません」

 それは人でも、魔神でも、妖魔でさえも。岩神として認められることはあろうと、璃月の神とは岩王帝君以外にあり得ない。

「前の恋人が忘れられない人みたいなことを言ってしまいました」

 少し恥ずかしい。けれど、わたしはきっと、絶対に次の岩神の存在を認められることはない。神や仙人のような、この国を庇護するものがいなくとも、人々が生きていける国を岩王帝君は目指したのだと、彼の言っていたことを思い出す。
 神の執政に長年依存した七国のひとつが、神のいないままに今以上の発展を遂げることなんか、ない。万が一にもそんなことは、あって欲しくない・・・・・・・・。だってそれを許したら、岩王帝君の存在を、少なからず否定することになってしまう。

「わたしは、人々に岩王帝君のことを忘れて欲しくない。だから、今後も岩王帝君の研究を続けていくんだと思います。せめて、わたしが生きているうちは、それが許されて欲しい……」

 そう語るわたしのことをじっと見つめる鍾離さんは、穏やかな日の光を瞳に映していた。

「例えば……強く頭を打って、きみ自身が、岩王帝君のことを忘れてしまったらどうする?」
「……もう一度、勉強すると思います。まあ、でも、わたしがわたしのままだったら、絶対、記憶を無くしたくらいで岩王帝君のことを忘れたりしません」
「忘れてしまったらの話だ」
「忘れませんよ。だって、わたしですよ」

 自分でも支離滅裂なことを言っているのは分かっている。ただ、わたしが岩王帝君のことを忘れてほしくないと願う人々の中には、無論、わたし自身も入っている。わたしは未来のわたしにだって、岩王帝君のことを忘れてほしくないと思っているのだ。
 わたしがお茶を飲もうとして茶杯を傾けると、鍾離さんは、あの凝り固まった表情に戸惑いを滲ませて、「頭の固い……」とこぼした。声ばかりは呆れているのに、やはり、どこか笑っている。
 良く笑う人だとは思わない。けれども、笑わない人だとも思わない。表情が豊かなわけでもないが、わたしには乏しいとも感じられない。
 その優しい微笑みのことを、月の光のようだと言う人がいるのなら。わたしは、きっと彼には太陽に値する人がいるのだと思う。
 わたしにとっての岩王帝君のような唯一無二の存在が、彼を優しく照らしているのだろう。私の右で揺れていた筈の耳飾りが、音を立てて地の上に落ちた。

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