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#仙輝暗転の番外編




「鍾離さん、」

 女の温かい指先が、鍾離の膝元に触れる。突然のぬくもりに驚いた彼は身体を強張らせたが、「うん?」と動揺を隠して返事をしてみせた。

「鍾離さん……、」

 女は甘えるように彼の右腕に擦り寄った。潤んだ瞳が鍾離の琥珀色を見つめる。「どうしたんだ」彼は読書の邪魔をされたことを嬉しがって、そのまま本を閉じた。
 鍾離の手の中にある本を恨めしそうに睨みつけた女は、それを奪い取ると机の上に軽く放り投げた。「こら、」猫を叱る優しい声色と、柔らかな眼差しが女に向けられる。「それはもう絶版なんだ、大切に扱って欲しい」思ってもいないことを口に出して、咎める視線で女を見やる。「……ふん」女は不機嫌そうに鼻を鳴らして、鍾離の胸にもたれかかった。

「きみ……、構って欲しいなら、そう言えばいいだろう」
「鍾離さん、本ばっかり、つまんない」
「……、」

 そうやって我儘を言う女を愛おしく思い、抱きしめてやろうとしたが、鍾離は己の股座に違和感を覚えて固まった。何か、柔らかいものに包み込まれている感覚を受けている。
 先ほどまで膝の上に乗っていた白い手が、そのまま彼の輪郭を撫でて、軽く開かれた股の間に滑り込んでいた。
 未だ硬度を持たないそこが、悪戯な指先によって柔らかい刺激を受ける。鍾離は戸惑って女の腕を掴んだ。

「きみ、っ……」
「これ、なに? あったかい……」
「やめてくれ、……っ、」
「もこもこしてる。何か入ってるの?」

 女はそこに何があるのかを知らない様子で、鍾離の股の膨らみを撫で続けた。鍾離は早くその手を取り上げてしまえばいいのに、細い手首を優しく掴むばかりで一向に自分から遠ざけようとしない。

「……だめだ、やめなさい」
「何か隠してる?」
「何も隠していない、」
「じゃあ見せて!」

 面白そうなものが入っていると思ったのか、女は楽しそうに声を上げた。「動いてる!」「……っ、」大きな手が、女の手首を握り込む。

「やめなさい」

 鋭い視線が女の瞳を貫いた。女は身体を固めて、声すら失ってしまった。

「相手の身体に許可なく触れてはいけない、……」

 自分でそう言って、彼は深く傷ついた顔をした。
 女は怖がると言うよりも、ただ驚いているようだった。鍾離の反応の意味が分かっていないのか、大きく瞬きをして、少しばかり息が乱れている彼の顔を見つめた。

「じゃあ、触ってもいい?」

 鍾離の胸がどきりとする。
 およそここが分岐点である。彼はこのまま許可を下すか、それでもやめさせるかの二択を迫られた。
 女はこの行為が何を意味するかを理解しておらず、それをしたらどうなるかを分かっていない。鍾離はこの後に起こることのそのすべてを知っているし、そしてそのようになる結末を、望んでいない訳ではない。過程の中で生まれる二人だけの熱を誰よりも共有したいと思っている。
 だから、少しくらいなら。

「……だめだ」
「じゃあ触らない、見るだけ!」
「それもだめだ」
「なんで!」

 一を知れば十が欲しくなり、十を知れば百を、千を、いくらでも欲しがるようになる。それは定命者に憧れを抱いている彼自身も例に漏れることはない。

「とにかくだめだ。まだ……だめなんだ。いずれ教えるときが来る、それまで待っていて欲しい」
「……じゃあ、何が入ってるのかだけ教えて、気になる……」

 本当にこの人間は、目の前にいる男の心を何一つ知ろうとしないくせに、知的探求心だけは人一倍強いのだ。
 この度彼女の興味を引いたものは、なんの面白みもない、ただただ醜悪な欲のかたちである。それがこぼれ出た瞬間、取り返しがつかなくなることを彼はよく知っている。そして、結局は取り返しがついてしまうことも。
 ただ、してしまったという事実だけは、彼の中から消えることはない。それに苛まれることが怖くて、また記憶に心を蝕まれるのが恐ろしくて、たった一時の過ちを犯すことさえ躊躇っている。

「今から大切な話をする。俺の目を見てほしい、」

 それから鍾離は女の瞳を奪った。女が瞬きをするたびに、鍾離の心はときめいた。「鍾離さん?」己の名を呼ぶ声がして、鍾離は己の目を輝かせる。
 名残惜しい。まだ、その眼差しを受けていたかった、眺めていたかった。何も疑わない、何も畏れない、何も知らない、純粋無垢な二つの目が愛おしくて、憎らしい。「……おやすみ、」それから女は脱力して、鍾離の胸の中に落ちた。
 彼は、そうっと彼女の背中に手を伸ばして、一瞬だけ触れるのを怖がってから、優しく肉の輪郭を撫でた。「…………、」長椅子にもたれ、天井を見遣る。いつもより心臓の鼓動が早いのも、未だに彼女に触られたところが熱を持ってしまっているのも、選択さえ誤らなければ時の流れが解決してくれると信じている。
 そうやって、彼はすべてを時と後世に任せている。運命を自分の手の中に収めようとしながら、過ぎ去る一分一秒をまるで大切にしない。この一瞬を永遠にしたいと言って、刹那を無駄に消費し続けている。それらを繋げたものが過去や未来になると知って尚、磨耗ばかりを恐れていた。

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