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「甘雨さま、甘雨さま、」

 まどろみの中で、ここには居ない筈の人の声がしました。暗闇の中で私の意識を優しく揺さぶる甘い声色に、ふと瞼が反応を示しました。
 私は机の上に顔を伏せていて、どうやら眠りこけていたようでした。腕を枕にしていたのか、少しばかり左腕が痺れていました。面会の予約もなしに月海亭の執務室へ来る人などそうそういませんから、私は突然の来訪者に驚いて、間抜けな声を出しながら飛び起きました。机がガタンと大きな音を立てて、その衝撃でランプは揺れて、机上から数冊の本が落ちた音を聞きました。
 ぼやつく視界の中には、夕焼けに染まる執務室と、何か花のようなものを唇から突き出すように咥えて立っているなまえさんの姿がありました。

(え、え……?)

 私は驚きました。だってなまえさんが、あのなまえさんが、目の前にいるのです。しかも、清心の花を咥えて、どうぞお食べください、とでも言うように、私にその花弁を突きつけています。
 目を剥いて何も言えずにいる私に、なまえさんは指先で茎をつまみあげ、「食べてください」と笑いかけます。そしてすぐにまた茎の端を咥え、私の口元に花弁を押しつけて……机に身を乗り出して、温かい笑顔を向けながら、私に花を差し出して……。

なまえ、なまえさん、そんな、いけません……。し、仕事中……、です、……」

 その仕事中に寝ていたのはどこの誰か。はなびら越しに私をなじる細くなった彼女の瞳に、唇を閉ざしてしまう。だって、私は早くなまえさんに会いたくて、大急ぎで今日分の仕事を終わらせて、なまえさんに会う時間を作ろうとして……。無理をして明日の分にまで手を伸ばして、そのまま寝てしまったことを思い出しました。だって、確か、そんな気がするのです。

「かんうさま、」

 茎の端を咥えたまま、なまえさんは私の名前を呼びました。胸がどきりとして、頬に熱が灯る感覚を味わいました。

「早く、食べてくださらないと、花が枯れてしまいます」

 そんな筈はないのに、唇にものを挟んだまま、喋りにくそうにして彼女はそう言いました。その仕草と声が可愛らしく、私はその場で溶けてしまいそうになりました。なまえさんが口を動かすたびに花が揺れて、私の欲を誘うのです。
 ゆら、ゆら、ゆら。
 未だに突き出されたものに口をつけずにいる私を見て、遂になまえさんは、咥えたままの花で遊び始めました。不機嫌そうにムウと唸り、花を揺らして私を煽ります。緩やかに揺れる清心、それは猫をもてあそぶおもちゃのように、私の視線を奪いました。
 ああ、ああ、こんなことって。こんなことって、あっていいのでしょうか。私、目の前の誘惑に、負けてしまっても、良いのでしょうか。
 花びらの向こう側、茎端を軽く噛むその白い歯と、ちらりと見える粘膜の色、それを彩る柔らかそうな唇に、明確な名を持つ感情を抱いてしまう。

(なまえさん、)

 きっとこれは、あなたではないだろうから。私はそっと、花冠の中央に口づけをして、流れゆく夢の終わりに眩くひかる残酷な世界を見ました。甘い花粉と、苦い罪の味が、起き抜けの口の中でいつまでも粘ついて残っていました。

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