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 弓が引けませんと甘雨は言った。「引けなくなってしまいました」声色は冷たく、しかし少しばかり笑みを含んでいる。自嘲のそれだろうかと旅人は思ったが、彼女の薄紫色の瞳を見て喉を詰まらせた。泥を混ぜたような濁った色が、彼女の長い睫毛の下で揺れていた。
 いつから弓を引けなくなったのか、と旅人が問えば、「ええと……、四日ほど前からです」と思い出を懐かしむ表情で彼女は答える。瞼を伏せて、鼻歌でも歌い出しそうな微笑を浮かべていた。
 旅人の胸がざわついているのは、彼女が弓を引けなくなったからではなくて、その事象に満足している口ぶりで彼女が笑っているからだ。
 四日前といえば、なまえが腕に怪我をした日と一致するな、と旅人はぼんやりと思い出した。確か、七七が足を挫いたから、急遽必要な薬草をなまえが代わりに摘みに行ったのだとか。「薬草を探しているときに氷スライムに襲われてしまったんです。近くを通った甘雨さまが助けてくださったので、大丈夫でしたよ」確か、そんなようなことを言っていたような気がする。それと何か関係があるのか、と旅人は甘雨に問うた。
 甘雨は瞼を伏せると、「はい」と静かに肯定した。続けて、「でも、なまえさんに怪我をさせたのは氷スライムではありません。わたしの矢が、なまえさんに当たってしまったんです」と笑った。

「なまえさんは下を向いていて、後ろから近づく魔物に気づかなかったんです。距離的に、きっと私の声は届きませんから、その場で矢を放ちました。そうしたら……魔物に矢が当たった衝撃で、氷元素が散らばって、なまえさんに、当たってしまって、私、どうすればいいか分からなくなって……」

 すべてを魔物のせいにしました。
 甘雨のひとみが瞼に少しだけ隠される。狡知な人間のする表情であった。凡そ彼女には似合わない、善の滲まぬ微笑であった。

「ふふ……これから、なまえさんのお見舞いに行くんです。そのあとなら、旅人さんのお手伝いに向かえますが……ただ、今の私が旅人さんのお力になれるかはわかりません……」

 あ、でも、と彼女は付け加えて、愚獣の笑みを浮かべた。

「なまえさんが傍にいるなら、私はきっと弓を引けると思います。私の矢に当たらないところに、彼女がいてくれるなら……」

 表情と声色だけはどこまでも優しくて、けれども発言の真意ばかりが人ではない。
 旅人は、彼女の内側に咲き乱れる恐ろしい氷蓮の存在に恐怖した。「あっ……冗談です」甘雨が冗談を言うような者ではないということを、旅人は知っている。故に、恐ろしい。

「でも、弓が引けなくなってしまったのは本当なんです。今の私では、到底戦力になれません。ごめんなさい……」

 この謝罪は、きっと彼女の本心だった。「では、失礼します。先程のことは、どうかご内密にしてください。よろしくお願いします」彼女の手には月海亭の料理を包んだものと、数本の切り花が握られている。まだ、蕾がついたばかりのものだった。

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