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#仙輝暗転の番外編




黎黎リーリー! どこだー! おーい!」

 昼の玉京台に、パイモンの声がこだまする。
 あちこちを飛び回る妖精の近くには、同じように周囲に視線を配る旅人の姿があった。

「おーい! 黎黎ー! なまえが心配してるぞー!」

 中央にある背の高い常香炉の陰を覗き込んでは、何かを探している。
 通行人はその様子を見て、きっと猫でも探しているのだろうと視線を外した。港に比べて静かなこの場所は、猫の散歩道にうってつけだ。迷子の猫を探しにくる飼い主は、決まってここを訪れることを皆知っている。
 しかし、儀式が執り行われる場所でもあるこの玉京台で、これほどに大声を上げるのはあまり褒められたことではない。

「うむむ……かれこれ二時間は探してるのに、ぜんぜん見つからない! これだけ広いと、モンドで猫を探すのとはわけが違うな……」

 旅人は少し疲れた顔で、ゆっくりと頷いた。
 今日の冒険者協会からの依頼は、迷子猫の捜索だった。依頼主の家で飼っている猫が散歩に出たまま、もう四日も帰ってきていない。捜索願を出した依頼主が旅人たちの知り合いでもあるなまえであったので、二人は快くそれを引き受けたのだった。
 ただ、捜索はかなり難航している様子である。

「うぅ〜、オイラもうお腹すいたぞ……」

 パイモンが疲労と空腹で項垂れる。その身体がくるりと周って、ゆらゆらと落ち葉のように地に伏せようとした時だ。
 前方から、黒い外套を靡かせて歩いてくる男の姿が目に入った。「どうした、元気がないな」落ち着いた声色を風に乗せ、男は旅人の目の前で足を止める。

「んあ、鍾離。散歩中か?」
「そんなところだ」

 ぐったりとした様子のパイモンに返事をしながら、鍾離は少しだけ辺りを見回す。それは誰かを探しているようにも見えたが、すぐに視線を旅人たちのほうへと戻した。
 旅人は迷子の猫を探していることを鍾離に伝えた。「ふむ……それなら俺も手伝おう。少し身体を動かしたいと思っていた」「本当か!?」鍾離の助けが得られると察知したパイモンは急に元気になって、旅人の鞄から紙のメモを取り出す。

「もうまさに、猫の手も借りたいと思ってたところなんだ!」
「猫の手か。…………、」
「ん? なんだ?」
「いや。その手もあるか、と思っただけだ。どれ……」

 周囲を見回し人気がないことを確認すると、鍾離は常香炉の影に隠れるような仕草をした。

「何してるんだ? そこにはいなかったぞ」

 パイモンが腕を組んで揺れていると、香炉の足元から黒いものがぬるりと姿を現した。
 それは黒猫だった。旅人は一瞬だけ、目的の猫が姿を現したのかと思ったが、その不思議な色の双眸を見てはっとする。

「え!? もしかして、しょ、鍾離か!?」
「そうだ」
「うわあっ! 喋れるのか……」
「あまり慣れてはいない形だが、恐らくこの姿のほうが捜索はしやすいだろう。璃月で暮らしている猫たちにも話を聞けば、何か情報が掴めるかもしれない」
「仙人って凄いな……」

 その風貌は短毛の黒猫だが、耳や尻尾の先は日焼けをしたような錆色に染まっている。ゆっくりと尾を揺らす仕草は、風に揺れる彼の後ろ髪によく似ていた。
 パイモンは捜索願いのメモを読み上げる。「猫の特徴は……毛の色は真っ黒で、目はくすんだ緑色。細身で、毛はちょっと長くてぼさぼさ気味みたいだ。名前は黎黎リーリー、雌の猫だ」「黎黎か」鍾離は耳をぴくぴくと動かしている。声さえ発さなければ、その姿は完全に猫だった。

「それで、依頼主は――――」
「あ!? 黎黎ー!?」

 旅人とパイモンが声のしたほうへ振り向くと、遠くから血相を変えたなまえがこちらに駆け寄って来るのが見えた。彼女は猛烈な早さで鍾離に近づき、逃さんとばかりに黒い矮躯を素早く抱き上げる。「な、」漏れたのは猫の鳴き声だったかもしれないし、鍾離の吃驚を表す一音目だったかもしれない。
 なまえの腕の中に収まった鍾離は、あまりのことに驚いて暴れる様子すらなかった。目を皿のようにして、己の身体に絡まる腕の隙間から黒い手足を伸ばしている。「黎黎、この、もう〜!」鍾離の頭に頬を押し付け、なまえは大事そうに小さな命を抱き締める。「黎黎〜……!」何度も耳に入る音を聞いて、鍾離は、まるで自分がそのような愛称で呼ばれているような気分になった。
 依頼主とは彼女だったのか。これは必ず、件の迷い猫とやらを見つけてやらなければ。
 そう頭の中では考えているものの、溢れ出る多幸感に鍾離は逆らえない。暫くこのままでいたい、という気持ちが喉から漏れ出ている。
 なまえに抱き締めてもらえるなんて、些か夢のようである。
 彼が喜びに目を細めていると、その丸まった胴体に、なまえの顔が埋められた。毛皮に押し付けられる彼女の顔の凹凸が、鍾離の心を跳ねさせた。
 人の身体で例えるならば、首筋の辺りだろう。そこに鼻を寄せられ、深呼吸をされる感覚。皮膚の上を空気が流れて、生温い吐息に肌を湿らされている。
 鍾離はなまえに優しく抱き締められて、自分の匂いを肺いっぱいに吸い込まれていた。彼が本物の猫であれば、何も思うことはなかったのかもしれない。けれども、それは外見こそ猫ではあるが、中身はあの鍾離である。彼女にそんなことをされて、嬉しく思わない筈がない。
 鍾離は複雑な心境で、なまえの行動を受け入れていた。だって、この姿形にでもならなければ、彼女からこんなふうに身体を寄せられることも、抱き締められることもなかったからだ。
 二人はその様子を見て、罰が悪そうにお互いに目を見合わせた。鍾離には悪いと思いつつも、パイモンがそっと声をかける。

「なまえ……その……そいつは黎黎じゃないんだ」
「えっ」
 
 手元の毛皮から顔を上げたなまえは、目を細めて喉を鳴らしている鍾離の顔をじっと見つめた。ほんの少しだけ泣きそうな顔になりながら、「そんな……」と声を漏らす。
 そして大人しいままの鍾離を持ち直し、後ろ足を広げてその股の間にあるものを凝視した。

「……!!」
「う……本当だ、オスだ……」

 なまえは項垂れて、鍾離の足をぱたりと閉じる。
 抱き上げている黒猫が己の愛猫ではないことに落ち込んでいるなまえをよそに、鍾離は口を軽く開けたまま固まっている。そして彼女の腕の中で小さく震えては虚空を見つめ、丸い目をさらに丸くさせていた。
 猫の姿であると云えど、ここ一連の流れは耐えがたいものであるようだ。旅人は鍾離の無の表情を見て、同情の視線を向ける。

「そんな確認の仕方あるか?」
「本当に気が動転してて……ごめんなさい……」

 なまえは随分と疲れているようだった。黎黎が散歩に出て四日も家に帰ってこないのは初めてのことらしく、心配で仕方がないのだ。

「パイモンちゃん、この子に名前はあるの?」
「あ……! んと……、えーと……し、……しー……、石石シーシーだ! 野良猫……なんだけど、これから黎黎探しを手伝ってくれるみたいなんだ」
「え! 本当!?」
「ああ! 凄く賢い猫なんだぞ」
「そうなんだ……探してくれてるのに急に変なことしてごめんね……」

 なまえは鍾離の頭を優しく撫でるが、先程のことが余程の衝撃だったのか、微動だにしなかった。「ちょっとかわいそうだな……」「……」旅人は無言で頷き、俯いている鍾離の後頭部を眺める。多少の戸惑いも見えるが、ただなまえの腕の中に留まっていたいだけなのかもしれない。その証拠に、地に降ろされた鍾離は先ほどよりも少し小さくなって、耳まで下げている。
 旅人は、お詫びとして石石におやつをあげるのはどうか、と提案した。パイモンもなまえも良い考えだと賛同し、なまえは手のひらの上に猫用の餌を少しだけ乗せる。

「石石く〜ん、 小石 シャオシーく〜ん、ごめんね、はいどうぞ〜」

 目の前に差し出された柔らかそうな手を見て、鍾離はまた固まった。なまえの手の上には解されたささみが乗せられている。
 あのなまえが手ずから、己の口元に食べ物を寄せてくれているのだ。以前より、鍾離の中にはそのような願望が存在していた。なまえに何かを食べさせてもらうことがあれば、それは何よりも嬉しいことだ。
 けれども鍾離は動かない。続けてなまえが囁く己が名の愛称に、胸を打たれている。自分の名前の音を一つとって、石石シーシー。それだけではなく、彼女は鍾離を小石と呼んだ。
 小さな石と呼ばれているのを聞いた旅人は、そのあまりの対比に笑いを堪えた。だって彼は厳格なる岩の魔神であるのに、彼女の前ではこうして丸い小ぶりな石となって、本当にただの礫のようになってしまうのだ。
 鍾離はゆっくりと首を伸ばし、なまえの手の中にあるものに口を付けた。

「食べてくれた!」
「お、許してくれたのか〜?」
「いい子だね〜」

 ささみを口に含みながら、頭を撫でられている。なまえの猫撫で声には拍車がかかり、「う〜、可愛いね、可愛い〜」と、ご満悦のようだ。このような状況も、鍾離にとってはすこぶる嬉しい事象である。食事をするだけで褒められる猫というものも、悪くは無いのかもしれない。
 暫くするとなまえは別のところを探すと言って、南の方に駆けて行った。その場には気まずそうな二人と、姿勢良く座り込む猫が一匹だけ残った。

「鍾離、大丈夫か? その……あんまり気を落とすなよ、ささみも食べさせてもらったんだし……」
「気を落とす……?」
「なまえに股間を見られて、がーーん! って感じになってなかったか? オイラ心配したぞ……」
「…………その話はやめてくれ」

 鍾離は一気に顔を暗くして、また俯いてしまった。直前までなまえに触れられていたこともあってか、彼のひげはぴんと上を向いていたのに、今はもう抜け落ちてしまいそうなほど萎びている。
 旅人とパイモンが昼食をとっている間に、鍾離は璃月の街を駆けた。港、路地裏、飲食店の裏口、民家の陰。猫でしか通れないであろう道なき道を滑り抜け、さまざまな場所を縫って走った。
 そうして広げた網にかかったものは、意外な答えだった。

「家出してるだけ!?」
「そうだ。最近、彼女になかなか構ってもらえず、気を引くために姿を消しているそうだ」
「なまえって学者だろ? 忙しくて当たり前なんじゃないのか?」
「…………、それは、そうだな。しかし、黎黎は……俺の存在が気に食わないらしい」
「鍾離が関係あるのか?」
「……彼女が黎黎に構ってやる時間が日々少なくなっているらしく、それの原因は俺にある、と言われてしまった。黎黎からの直々の証言だ」

 確かに自分は彼女の時間を随分と奪ってしまっている。その自覚が鍾離にはあった。
 食事にも良く行くようになったし、講談が始まる一時間前から二人で雑談をすることもざらにある。今までその時間が黎黎のものだったことを考えれば、鍾離に怒りの矛先が向いても仕方ないし、こうして家出をして気を引きたいと言う気持ちも理解できる。

「随分と嫉妬されているみたいだな」
「人事みたいに言うなよ! っていうか、そんなに仲良くなってたのか……」
「数日すれば帰るから探すな、とのことだが、どうする? 旅人よ」

 鍾離はこれからの捜索についてを旅人に委ねた。旅人は、困っているなまえを助けてやりたい。でも黎黎が後数日で帰るなら、放っておいても問題は無さそうだと思った。

「黎黎は、今の姿のお前が鍾離だってことは知ってるのか?」
「いや、顔を合わせたときは石石と名乗ってしまった」
「目の前にライバルがいるのに……バレなくて良かったな。石石が鍾離だって分かったら、喧嘩になりそうだ」

 パイモンは揺れる。そして少し考えるように目を細めながら、「でも、こんなに探してるのに見つからなかったら、なまえは悲しむだろうな……」ちらりと旅人のほうを眺めた。
 旅人は決断を迫られる。なまえの元へ黎黎を連れていくか、このまま時の流れに身を任せるか。
 一度依頼を受けてしまった旅人が選ぶものは、無論、前者である。

「黎黎〜!」

 璃月港の南東埠頭付近にある、材木置き場の陰である。
 なまえは愛猫の姿を見るなり邂逅一番で駆け寄り、その身体を吸い始めた。黎黎はと言えば、満更でもなさそうに己の脇腹を吸われている。探すなとは言っていたものの、結局はこうして見つけてもらったことが嬉しいのだ。

「旅人さんもパイモンちゃんも、手伝ってくれて本当にありがとうございました。……あれ、石石くんは?」
「あー……石石はもう行っちゃったんだ。どこかで昼寝でもしてるかもな」
「お礼が言いたかったのに……」

 旅人はなまえからモラ袋を受け取ると、また会えるといいね、と笑いかけた。「きっとまた会えるぞ!」同調するパイモンは、元気いっぱいに四肢を振った。



 月が夜空をくり抜いて、微笑を零した頃である。なまえは、毛布の上でぐっすりと眠っている黎黎の姿を眺めていた。愛猫の帰宅に胸を撫でおろし、温かいお茶を飲んで身体を温めている。
 時計の針を見遣ったなまえは、そっと席を立って茶器を片付け始める。すると、外から猫の鳴き声が聞こえてきて、なまえは気になって窓のほうへと顔を向けた。

「ミャオ」

 自分はここだ、と鳴いて答える黒猫が、月明りに輪郭を照らされている。「石石?」黒い小石が返事をする。それは耳を跳ねさせて、自分の存在を主張した。
 なまえは窓を開けて、「おいで」と猫に声をかけた。賢そうな顔つきの黒猫はしなやかに地を跳ねて、なまえが身を乗り出している窓台へと着地する。

「あなたの協力のお陰で黎黎が帰ってきてくれたの」

 細い指先が、黒猫の顎を優しく撫でた。「ありがとう」ぐるぐると喉を鳴らした猫は、その指先に身を擦り寄せようとしながらも、控えめに首を捩じるだけに留まった。黎黎に気を遣ったのかもしれないし、まだその姿に甘えることに抵抗を感じているだけかもしれない。けれども、なまえの指に鼻先を当てようとしているところを見れば、何がしたいかを推測するのは容易い。

「もしまた街で会うことがあったら、こうして撫でさせてね」

 黒猫はなまえの瞳を見つめると、ゆっくりと目を瞑って、また丸いまなこを見せる。尻尾の先が柔らかく光ったのは、雲に隠れていた月が顔を出したからだろう。
 なまえに別れの挨拶を告げた黒猫は、静かに夜の暗がりへと姿を消した。
 それから、黒猫は夜道を練るように歩いた。吹き荒ぶ冷えた風だけが、黒猫の高鳴る心臓の音を聞いていた。
 土を踏みつける肉球の感覚、いつもよりずっと低い目線、そしてなまえから伸ばされた白い指先を思い出して、木の陰でそっと足を止める。
 びゅう、と風が吹いた。植え込みの枝が仰け反り、黒猫の姿を一瞬だけ隠す。次に植え込みが姿勢を正したときには、既に黒猫の姿は無くなっていた。
 影はとろりと形を変えて、背の高い男の輪郭が徐々に浮かび上がってくる。黒い外套の裾が翻って、夜風の姿を証明した。裏地に差し込まれた濃い金色は、今夜の月の色とよく似ている。

「……、はあ……」

 その場で立ち竦む男は、口元に手を当てて悩ましい色の溜息を零した。夜空に灯る月から視線を反らし、少しばかり熱くなった頬を風に晒している。

「…………、」

 顔など見せに行く必要はなかった。だって、あのときの彼はただの都合の良い野良猫であったのだから、それの存在をこれ以上世に留めて置く必要などどこにも無いのだ。石石という名の猫など、璃月に居ても居なくても何ら差し支えのないものである。故に、一度きりの姿だと想定していたにも関わらず、彼は二度も黒猫の形を模ってなまえの前に現れた。そんなことをする必要など、全くない筈なのに。
 ああ、でも。それでも。
 彼女の声で小石と呼ばれ、その輪郭を撫でられてしまえば、彼は再びその辺に転がっている礫のようになっても構わないと思った。
 鍾離は、顔を見せに行ったのではなく、なまえの顔を見に行ったのだ。迷い猫が見つからない不安に心を痛める彼女を放っておきたくなかった。自分の出る幕ではないと分かっていても、なんとしても彼女の役に立ちたいと思ってしまった。旅人の行動に感謝していたことも事実であり、これで少しでもなまえのことが知れるのなら、と利己的な気持ちを胸に四つ足で街を駆けた。そしてなまえが不安から解放されたことを、彼はどうしても確認したかった。
 そして得た対価はと言えば、鍾離にとって充分すぎるものであったようだ。
 彼は少しばかり月と共に夜を過ごして、また闇の中へと消えた。茂みの中で、小さな石が転がった。

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