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「付き合ってくれないなら結婚でもいいです」
「なんて?」
「オレと付き合えないなら結婚してください」

 だからなんで。
 その言葉を発する前に、わたしはキバナくんの腕の中に閉じ込められてしまった。急な事で驚き、身体が固まってしまうと同時に、なにかとてつもなく面倒なことが起こりそうな予感がした。
 視界は暗くなり、キバナくんの付けている香水の匂いがより一層濃くなる。同時に、ひどく呼吸がしにくくなって、少しばかり眩暈がした。
 もしかしたら彼は酔っているのかもな、と思うくらいには、キバナくんからお酒の匂いがした。あまり良くない酔い方をしたのかも。彼はお酒を飲んでこの家に帰ってくることはあれど、こんなに情緒を乱しながらわたしに絡んできたことは一度もなかったので、こちらはこちらで多少動揺していた。
 彼が悪酔いしたときの対処の仕方をわたしは知らない。彼の世話をしようと思ったことなど、今までに一度たりとも無かったからだ。
 時刻は深夜一時。彼くらいの年齢の人ならば、誰もがお酒を飲んで帰ってきてもおかしくない時間帯だ。同居しているだけとはいえ、彼が最寄りの宿として使用しているここに帰ってこれるだけの意識があってよかった。人間的帰巣本能が適用されるならば、彼自身の家に帰って欲しかったのだけれど、そこまで贅沢は言えないみたい。

「キバナくん。一回離れよう」
「いやです」

 キバナくんはこの家の扉を開けてから、ものの数分でこれだったので、相当酔いが回っているのだろう。わたしの顔を見るなりワッと泣き出して駆け寄ってきて、そのまま抱き寄せられて、このざまだ。そして支離滅裂な発言。涙を含んだ声、ぐずるような口調でもの哀しく嘆く。確実に酩酊している。誰が見ても明白だった。
 彼は背が高く、体格も良いほうだ。このまま倒れたら非常に危ない。「飲み会でもあったの?」相手を刺激しないように、彼の背中を優しく叩きながらゆっくりと発言する。「結婚してくれますか?」わたしの問いに対する返答はなく、それの一点張りだ。有り余った身長から繰り出される抱擁は、わたしの行動を著しく制限する。
 暴れでもしたら二人まとめて転んでしまうかもしれないし、キバナくんの声は既に涙で濡れていて、いつそのすべてが崩壊してしまってもおかしくない状況だった。彼が自分の足で立っていることが奇跡のようにも感じる。「なまえさん、」腕にこもる力が強くなる。けれど、抱き返すようなことはしない。
 してあげたいけれど、してはいけないことだ。相手の愛情表現をそのまま返すという行為は、わたしたちの間では決してあってはならない。
 だって、わたしはキバナくんのことを、ただの後輩としてしか見られないのだから、当たり前のことだ。これ以上の関係は望まないし、望めない。
 それは、彼も分かってくれている筈だ。

「結婚はしないよ」
「オレ以外と結婚しないってことですか?」
「わたしは誰とも結婚しない、できないよ」
「いやだ、オレとは結婚してください、オレとは、してください」
「しないよ、わたしはキバナくんとは結婚しない。付き合わない。前からそう言ってるよ」

 キバナくんは息を呑んで、わたしの身体を更に強い力で抱き締める。「なんで、」声は揺れて、「なんでそんな、こと、言うんですかあ」先程よりも、ずっと感情的な声色に変化する。
 変に期待をさせてはいけない。わたしは彼と付き合っているわけではない。わたしはゲームの休憩ポイントに配置されているNPCみたいものだ。そしてこの部屋も、彼にとってはただの休憩ポイントである。本当に帰宅するべき家じゃない。寝泊りをしても良い部屋を提供しているだけだ。ただいまという挨拶だって、本来ならば冗談で流してしまうべきものなのだ。

「いやだあ、オレ、なまえさんと結婚したい」

 わっと泣いて、お酒の匂いを振り撒いた。こんなに酔った彼を見ても、面倒だな、という感情以外は芽生えなかった。
 わたしに生涯のパートナーとしての立ち位置を求めてくるなんて、もうそれほど無いものだと思っていた。わたし自身のことについては何度も説明をしているし、彼も理解してくれているものだと、そう、思い込んでいただけなのかも。
 ずるり、とキバナくんの背が縮んでいく。立ち続けることが難しかったのか、彼はそのまま膝を折った。
 膝立ちになっても、キバナくんはわたしにしがみつくのをやめなかった。わたしの胸のあたりに顔を擦り付けて、「いやだ、なまえさん。オレ以外と結婚しないで」と子供のように喚いて、もうわたしの話なんか聞いていない。
 その体勢になってやっと、膝立ちをした彼の頭が来る場所が、わたしの顎の位置だと言うことに気づいた。キバナくんのことは背が高い人だと思ってはいたものの、あまりの規格外の身長差に少し驚く。

「キバナくん、お水を飲もうね。デザートとかいる? 何か、買ってこようか」
「はぐらかすなよ、なあ、なまえさん、オレと結婚してよ、付き合わなくてもいいから」
「……順序が変だよ。普通の人は、付き合ってから結婚するものじゃない?」
「なまえさんは普通じゃないだろ」

 その話に触れるのはあんまり得意ではないな、とわたしが口をつぐむと、キバナくんははっとして、「ごめんなさい、違うんです、違う、なまえさん、そういうつもりで言ったんじゃ」と狼狽して続けた。「ごめんなさい、」キバナくんの発言は、わたしの言葉に乗せて発されたものだ。大丈夫だよ、と返事をしても、彼は暫く謝り続けて、わたしを困らせる。
 わたしが普通ではないことが事実かどうかはこの際関係ない。ただ、わたしの考え方は確実に普通ではない。それはわたしが人を好きになることができない性質を持っていることには由来せず、只々、わたしなりの考え方でそう動いているというだけ。
 性質に、影響されている面もある。けれども、それだけがすべてではないし、わたしと同じ性質をもつ人は、きっとわたしと違って普通の人たちなのだ。
 それに、わたしが普通じゃないという判断は、彼一人だけが決められることではない。誰かが勝手に決めていいことでもない。
 わたしは。わたし自身は。好きでもない人とは付き合えない。そういう考えを持っているだけだ。だってもし、そんなことがあってしまえば、それはあまりにも相手にとって、不遜で、無神経で、失礼なことだろうから。
 特に、わたしのような人間を相手に選ぼうとしているのなら、尚更だ。

「わたしは、誰かと付き合ったり、結婚したりはできないんだよ。わたしが、したくないの。わたしにそれを望んでくれた人を傷つけてしまうことになる」
「いいです、オレは大丈夫です。オレは傷ついてもいいです」
「だめだよ」
「傷つきたいんです」

 なんで、と言うのも躊躇われるほどに、キバナくんの言動はおかしかった。自分から傷つきたい人間なんてこの世にいるんだ。いるのか。目の前に。
 存在することが重要なのではない。そんな人がいてもいい。ただ、わたしはその感覚が理解できないだけだ。トマトは嫌いだけどケチャップは好き。傷ついてもいいからわたしと付き合いたい。そういう人がいてもいい。わたしはその考えが、よくわからないだけ。

「なまえさんがそこで傷つくってことは、オレのことを想ってくれているからでしょう。オレのことを大切に思ってくれているからでしょう。それなら、いいです、オレはそれでもいいです」
「キバナくん」
「だから、なまえさん、」
「わたしは、嫌なんだよ」

 キバナくんのことは大切だ。大事な人だ。人として好きな人だ。そうじゃなかったらこんな居候みたいなことはさせないし、この部屋の一室を明け渡したりなんかしない。
 ただ、わたしがキバナくんにしていることは、キバナくんじゃない人にもしようと思えばいくらでもできる事柄なのだ。
 彼は、わたしの少し特別なだけ。本当の特別じゃない。だって、わたしの特別な人というのは、わたしの家族以外にあり得ないからだ。

「わたしが、したくないの。キバナくんを傷つけたくないんだよ。キバナくんが傷ついてもいいとかじゃなくて、わたしがキバナくんを傷つけたくないんだよ」
「あ、う……」
「わたしは今でも、キバナくんのことを大切に思ってるよ。それじゃだめなの?」
「うう……」

 大粒の涙が、キバナくんの目元に浮いた。「なんで、」わたしの胸に顔を擦り付けながら、「だめじゃないけど、だめ、なんです」よく分からないことを言う。

「付き合ったら考えが変わると思ってた、とかさ、キバナくんは言わないと思うけど、他の人にだって言われたくないの」
「じゃあ付き合ってるって他の人に言いません、バレないように努力します」
「キバナくん有名人だから、隠し通すのも無理だよ。今だって、結構ひやひやしてるんだよ」
「それなら、結婚しちゃえばいいじゃないですか。早々にみんなに言えば、後ろめたくないでしょう?」
「わたしは冷やかされるのが凄くいやなの。キバナくんの気持ちを知ってるからこそ、それに応えてあげないなんてって他の人の意見を聞くのですら、本当に、いやなんだよ」

 なんだか、もう、彼の面倒を見るのもおかしいような気がしてきた。彼と恋人同士になって、変ないざこざに巻き込まれるのはいやだ。わたしの人生に亀裂を入れるのが彼であって欲しくない。
 キバナくんは、わたしがきみの人生に亀裂をいれることになってしまっても構わないと言うんだろう。
 わたしは、きみのそういうところがあんまり好きではない。

「キバナくん、もう、きみと一緒に住むのは無理みたいだね」

 そうっと彼の頭を撫でる。抱き着いてきた子どもをあやす人間のような、そんな気分だった。
 わたしが親になることなど、万が一にもあり得ないのだろうけれど。
 それに、こんなに大きな子どもは、きっとわたしの手には余ってしまう。きっと幸せにはしてあげられない。わたしではキバナくんを幸せにしてあげられない。わたしが、してあげたいと思えないから。

「もっと、わたしよりも良い人を探したほうがいいよ」

 キバナくんの表情は見えなかった。ただ、わたしの背中に回った手が、服に皺がつくほどに握りしめられているのを感じた。その手は震えていて、あまり良い返事はもらえないだろうということが分かった。
 とりあえず水を飲ませよう。きちんと頭を冷やしてもらってから、これからのわたしたちの話をしてあげたほうが良いと思うから。
 明日の献立のことを考えながら、静かに深呼吸をした。

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