SSS | ナノ


 アルジュナの唇が、女の耳元に寄り添った。薄い唇が、少しばかり赤くなった耳殻に静かに触れた。
 ふう、と軽い吐息を吹きかけられて、女は左耳のこそばゆさに堪らず身動ぐ。それを見て、アルジュナは小さく口角を上げた。
 二人は恋人同士のようにも見えた。お互いの距離は近く、肌の触れ合うさまを見るに、険悪な仲では無さそうだった。しかし、女の表情はあからさまに曇っており、仕草もどこかぎこちない。男の行動に、困惑しているようにも思えた。
 アルジュナは仰向けのなまえに覆い被さって、戯れつく猫のように頭をすり寄せている。ちょうど彼の頭部には、三角形の突起が二つ。三角錐の一面が、ぼんやりと青白く光っている。

「なまえ……」

 甘い吐息は女の肌を撫でると、そこを少しだけ湿らせた。
 目に痛いほどの青い外套が、静かに宙に溶ける。軽装になったアルジュナはなまえの手のひらを指先で絡めとり、湿った声で何かを囁いた。密事を想起させる一連の流れに、二つの体温が上がる。
 なまえの鼓膜はアルジュナの囁きを聞き取れなかったようで、控えめながらも先程の言葉の復唱を訴えた。アルジュナは伏せ目がちになって、次こそしっかりと彼女に聴こえるように発声する。

「セックス、……」

 耳を疑う間もなく、アルジュナが詰め寄る。形の良いくちびるが、言葉を紡ぎ出す。

「セックスが、したいのです」

 甘えた声色で、ゆっくりと、相手が聞き漏らさないように。丁寧に、ぽつりと囁いてみせた。
 なまえの鼓膜が濡れた。その一瞬でなまえはぞくりとして、ただでさえ狭い肩を竦める。
 アルジュナの尾がゆらりと波を描く。熱をはらんだ瞳がなまえの肌を舐め、白い皮膚をちりちりと炙った。熱のこもる二人の間に、吐息が抜けていく。「……、したい……」アルジュナは何度もそれを口にして、己の願望をなまえの首に擦り付けた。
 それは甘える猫のようで、獲物を痛ぶろうとする獰猛な虎のようで、具材に下処理を施そうとする調理師のようでもあった。
 いずれにしろ、なまえの退路は絶たれているし、彼自身も、彼女が要求を飲んでくれると期待していてそれを言っている。成功する見立てがあって、揺さぶりをかけているだけだ。

「……、だめですか」

 アルジュナの身体は既に熱を持ち、昂っていた。なまえの解けた手のひらの真ん中を指の腹で優しく愛撫して、合意の言葉を待っている。
 今すぐにでも手酷く抱いてやったら、この女はどんな顔をするのだろう。
 アルジュナは静かにそう思って、少しだけ目を丸くした。自分という世の機構の一部であったものが、実に人らしい思考を持つようになった。異聞帯において神の権能を振り翳したアルジュナが、このカルデアで人並みの欲を持って存在する。おかしなことではない。人とは影響されるものだ。彼がサーヴァントであったとしても、人物とは環境によって随分と変容する。それは彼が、神であって、王であって、人であったことを意味する。
 妙な女に惹かれたものだ、と緩やかに尾を揺らして、アルジュナは少しだけ笑った。
 腹の奥で生まれた人の欲に従って、なまえとさらに距離を詰めようとする。「昨日と」ふと、なまえが口を開いた。

「……?」
「昨日と、全然違う……」

 アルジュナは、再び目を丸くした。

「髪の色も……肌の色も違う」
「……ええ、先日、再臨を重ねました。これは三つ目の姿です」
「話し方も違う」
「精神的にも多少変化がありました」

 なまえはアルジュナの頭をまじまじと見つめ、その角の光を眺めている。「疑っていますか。私はアルジュナ。アルジュナ・オルタ。昨日あなたに触れたときと同じ霊基、同じ霊核を持っています」腰をしならせ、まるでなまえに己の姿を見せつけるかのように、慈しむ視線を降ろした。「驚かせてしまってすみません。霊基再臨の報告を、失念していました」そして、そっと彼女の頬に頭を擦り寄せる。
 長い尾が揺れて、先端までが丁寧に、ゆるやかに宙を撫でる。

「……、なまえ、」

 再臨によって短くなった髪が、なまえの頬を柔らかくくすぐった。
 なまえは、何も言わない。アルジュナのどの言葉にも、なんの仕草にも、行動にも、反応しない。
 思い悩む表情をしている訳でもなく、ただぼうっと、白い天井を見つめている。アルジュナは戸惑い、狼狽したような顔をして、目に少しばかり動揺の色を映した。「……前の、前のアルジュナさんは、教えにきてくれたのに」それを見たなまえは、独り言のように零して、アルジュナから視線を逸らす。
 アルジュナは、今度こそ困惑した。何か、思うところがあるのか。それに気づいても、彼女が何に心を痛めているのか分からない。落ち込んでいるのかも、悲しんでいるのかも分からない。彼女の言葉からは何も汲み取れはしなかったが、言わんとしていることは察したようだった。

「……クエストに駆り出されてしまって、挨拶が遅れました。すみません」
「こんなに、見た目が変わったのに」
「そうですね、以前より……随分と、変わったように思います」

 なまえは目を伏せた。アルジュナは少し肝が冷えて、軽く唇を開いてしまう。そこから漏れた吐息が、冷たい空気を撫でる。
 彼女がこんなに無反応なことは珍しく、アルジュナの行動にすら無関心なことは初めてだった。アルジュナはなまえが見るからに無気力であることを不思議に思ったが、居た堪れなさのほうが僅かに優っていた。我儘を押し付けすぎたかと反省の念を瞼に込める。
 アルジュナは完全に上体を起こして、なまえに馬乗りになった。彼女の表情を、今一度きちんと良く見ておくべきだと思ったからだ。
 視界の先には、無表情とは言い難い、憂いを帯びた顔。

「もっと早く、教えてくれてもよかったのに……」

 首を傾けながら、なまえは静かに言った。
 アルジュナの身体も、思考も、呼吸も、すべてが止まる。開かれた瞼、眼球が乾いたころ、やっと彼は頭を下げて、なまえの肩に目元を隠した。
 彼の身体が、少しずつ熱くなっていく。何故だかは彼自身にも分からなかったが、どうにも、胸の奥に火花を感じている。

「すみません。……仕方のないことですが、一番最初に私の姿を見るのは、マスターになってしまうので」

 そこまで言って、はっと気付いた。
 彼女は、アルジュナの再臨した姿を、いち早く見たかっただけなのではないか。
 自分のところにすぐさま駆けつけてくれると、信じていたのではないか。

「…………ああ……、」

 アルジュナはなまえのいじらしい言葉に胸を震わせた。衣擦れの音が鳴ったのは、彼が彼女をたまらず抱きしめたからだ。
 腕の中の温もりの愛おしさに、アルジュナの心に火がついた。青い炎は揺れて、肉体に燃え移り、アルジュナの肌を焦がす。一度遠くに放り出したはずの熱が、一度の風で業火となった。

「アーチャーのアルジュナさんかと思って、焦りました……」

 なまえはただ、目の前のアルジュナが、普段接しているアルジュナ・オルタではなく、別の霊基のものではないかと懸念していたまでだ。
 今の姿がたまたま、アーチャーであるアルジュナの身姿と似ていたというだけ。よく見れば明らかに別の霊基であると判別できるが、霊衣によってサーヴァントが服飾や髪型を変更することもあり、彼女はそれによって過ちを犯すことを恐れていた。
 目の前の男は、彼女の認識するアルジュナで間違いない。然し、自分の記憶している姿と大幅に違う。性交渉を持ちかけられた瞬間に全てを察したなまえだったが、その直前まで、彼女は目の前の人物がどちらなのか判断がつかなかった。我が物顔で彼女の部屋に入室し、寝具に己を引き倒すアルジュナが、果たしてどちらのアルジュナなのか、本当に分からなかった。
 熱い眼差しと、少しばかり低い体温、そして、彼が彼女に甘える際に放つ声のトーン。そのときばかりは、アルジュナの声に苦味が無い。
 気だるげな瞳でなまえを見つめる姿は、彼にとっての愛情表現でもあるし、求愛行動でもあるし、心を許している証拠でもある。

「セックスはしません」
「……っ、」

 想定していなかった唐突な拒絶の言葉に、アルジュナは目を皿のようにして、すぐに眉を下げた。

「もう仮眠の時間なので」
「…………、すこしだけ」
「眠いので」
「なまえ、」

 おやすみなさい、となまえは言った。あまりにも早い入眠に、アルジュナは今度こそ置いて行かれてしまう。
 アルジュナは暫くなまえの頬を触ったり、キスを落としてみせたりしたが、なまえが瞼を開けることはなかった。代わりに拳や掌が飛んできたので、潔くやめた。残念そうに息を吹くアルジュナだったが、瞳には憂い以外の色が見える。

「…………」

 もっと早く、教えてくれてもよかったのに。
 その言葉がアルジュナの脳内で何度も甦る。先日の間に、この姿をなまえに見せに行ってやれば良かった。そうしたら、なまえは己の報告を喜んでくれてたかもしれないし、角の形の長さの変化に着目していたかもしれないし、第三再臨で随分と変わった服飾の違いに驚いてくれたかもしれない。
 アルジュナはそれを、素直に喜んだ。長い睫毛が震えていたのは、そのためだ。
 口元を緩め、なまえの横に転がる。アルジュナは自分の尾をなまえの足に軽く絡め、軽く聞こえてくる呼吸の音を数えながら、瞼を下ろした。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -