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 歯が当たるのが怖い、と告白したことがある。勿論、その話を振ったときの彼は、知ったことかとでも言いたげな顔をしていたけれど、その日からキスをする際、彼の鋭い歯が当たる回数は減ったように思う。
「おまえが怖いと言ったんだろう」
「言いましたけど、まさか気をつけてくれるなんて思ってなくて」
「……ならばあれは、」
 拒絶か。クー・フーリンさんは眉間を深い皺で飾りながらわたしに問う。そんなことはない、と返答しても、彼の表情が解れることはなかった。
 魔力供給の方法がキスだけではないことも、本来ならば触れ合う必要だってないことも知っている。なのにわたしが彼に粘膜接触での魔力提供を怠らないのは、それでなければだめだと彼が駄々をこねるからだ。
 カルデアから供給される魔力はダメで、わたしから吸い上げる魔力はそれなりに良いらしい。それでも、合格点ではなく及第点なのだろうからどう喜んで良いかも分からない。
 喜ぶべきなのかも、その評価に対して向上心を抱き今よりも質の良い魔力を提供出来るよう努めるべきなのかも、そのときのわたしには分からなかった。そして今も。
 なんとなく、そう、なんとなくやっているだけだ。なんとなく、そっちのほうが良い気がしたから。自分の意思も特になく、ただ流されるままに言われたことをこなしているだけ。
「歯が当たるのが怖いから、キ……魔力供給をやめたいって話ではないです」
「ならば何だ」
 神秘の一つも知らぬ一般家庭で育ったわたしが、せめて魔術のまの字でも知ろうと躍起になっているのは、彼の霊基を維持するために必要な魔力を出来得る限り彼の肉体に注ぐためだ。彼によれば、わたしの身体を通した魔力が、いちばん“美味い”のだと云う。一番というのも、電力からなる魔力よりはマシ、くらいの感覚で、きっと本当の意味での一番ではないのだと思う。
 わたしは謂わば、魔力濾過器のようなものだ。だから、魔力の受け渡しの方法に口を出す権利なんか無い。わたしは、この身体でマナを濾して、彼に魔力を差し出すためだけに彼の傍にいる。
 それは決して彼に対する献身などではない。カルデアという機関、そして存続するべき世界に対する献身であり、「なまえ」彼もまた、人理を救済する目的でカルデアに手繰り寄せられた使い魔の一つである。悪く言ってしまえば彼らは兵器であり道具であり、目の前にいるクー・フーリンさんも、「なまえ」殺戮兵器として扱われることを望んでいる英霊の一つ。
 わたしは、その兵器の手入れを任されただけに過ぎない。
「なまえ」
 低音がわたしの鼓膜を嬲っていた。恐らくそれは三度目の呼びかけだった。返事を怠ったことによる叱責を想像して、悔悛の念から息を詰める。ひゅうと喉が鳴る。冷たい赤の瞳がわたしを見つめている。返事、返事をしなければ。
「なんですか」
「訓練は順調か」
「……あまり」
「そうか」
 彼は口の端を少しだけ緩める。成長の遅さを笑われている気がして、下唇をこっそり噛み締めた。
――人には向き不向きがあるからね。
 皆、口を揃えて言う。ダ・ヴィンチちゃんも、エレナさんも、パラケルススさんも、魔術や錬金術に精通した人たちは皆、困ったような、呆れたような顔でそう言うのだ。いいや、分かっている。分かっているから、悔しい。
「才能、無いのかもしれません」
「だろうな」
 慰みの言葉を期待していたわけではないけれど、面と向かって言われると流石に傷つく。
 魔術師としての見込みがなかったから、物心つく前に魔術の道から逸れたのかもしれない。それは決して残念なことではなくて、寧ろ幸運なことだと。才能の無いものが魔術師の家系から間引かれることは必ずしも正しいこととは云えないかもしれないけれど、魔術師になる道から逸れたからこそわたしは科学者としてここにいる。
 でも、結局わたしがこのカルデアでやろうとしていることは、魔術師のそれと同じことで。それに対して引け目を感じたところで、割り振られた役割が違うのだからどうしようもない。演算が得意だと云うならそれだけしていれば良いものを。吐かれた記憶もない罵倒で自己嫌悪に浸るのも得意だ。
 そういうわけだから、早々に彼に切り捨てられるものだとばかり思っていた。だって彼が欲しがっているのは大量の、そして質の良い魔力であるわけだから、マナを行使できる量が少ない私では役立たずも良いところ。そして私自身が生むことのできる小魔力こそ、殆ど無いに等しい。
「無駄な力を身に着ける必要はない」
「どうしてですか」
「邪魔なだけだ。例えおまえが高度な魔術や呪術を行使出来るようになったとして、それに何の意味がある」
「……? 選択肢があるに越したことはないのでは? 私がそれなりの魔術師、もしくは錬金術師になったとしたら」
「あり得ん」
「クー・フーリンさんのお役に立てますよ」
 それに、カルデアへの更なる貢献が見込める。カルデアの電力を受け付けない彼の問題も解消することが出来て、マスターさんの代理として私が動けるようになれば。ダ・ヴィンチちゃんの悩みの種を潰すことが出来るし、マスターさんの負担を減らすことだって出来る。
 彼は少しだけ目を見開いて、ほんの数ミリだけ唇を動かした。しかし、一向に言葉は出てこない。反論されてしまうような気がして、先に口を開く。
「わたしが魔術師になって、自分の意志で魔術の一つも行使できるようになったら、いつか、」
 そんな理想的な未来を胸に描いたとき、何か大きくて黒いものが、わたしの鼻先を掠めた。
 口元に何かがぶつかった。鼻から下が熱で覆われる。強い力で頬を圧迫され、わたしはそこでやっと、彼に口を塞がれたことを理解した。発言権すらもぎ取られ、悲鳴が喉のまんなか辺りで押し留められる。
 わたしの愚かな口を覆ったのは、紛れもなく彼の右手だ。
 赤、赤が近寄ってくる。それは白い肌に映える鮮血の色をしていて、酸化していない生の血液と同じ赤だった。上瞼を彩るのもそれだ。そして彼の瞳の色も。
「おまえは魔術師ではない」
 彼のくちびるが、事実のみを紡ぐ。演算でもしていろ、と続くのだろうか。推測と懸念で胸が苦しくなる。
「おまえは結果的に俺の役に立っているに過ぎない。役割を求めるな。それは俺がおまえに与えるものだ。おまえが見出すものではない」
 細くなった赤の双眸は死棘のように鋭くて、視線だけでわたしの心臓を捕らえてしまう。左胸が痛苦に濡れる。心臓が破れているのかもしれない。
 鼓動が胸の裏を何度も叩いた。ばくばくとうるさい心臓は、まだわたしの身体の中にあるようだった。恐らく傷一つ付いてはいない筈なのに、痛い、痛くて、咄嗟に振り上げた腕すら彼には届かなかった。
 呼吸すら忘れてしまっていたようで、彼がわたしの口から手を離した途端咳き込んでしまった。口呼吸の癖がついていた訳でも無いのに、わたしの呼吸はそのとき確かに止められていた。
 わたしは彼が怖いから、彼に従うのだろうか。誰の役に立ちたいとかいう願望はすべて幻想で、ただ、目の前の恐怖から逃げたいから、目的をすり替えて過ごしているだけなのかもしれない。なんとなく、そう、なんとなく。
「おまえに魔術は不要だ。そうだろう」
「でも、あったほうが、無いよりかは……」
「成功する見込みのない訓練をダラダラと続けるな。己に与えられた役割を理解した上で行動しろ」
 なんとなく、やった気になりたいから、そうしているだけだった。きっとそれがわたしのやるべきことなんだと思い込んで、やらなくてもいいようなことをやって、やった気になって、達成感を得たいだけだ。
 此度わたしに与えられた役割とは、彼に魔力を捧げること。わたしの身体を通した魔力で彼の身体を満たすこと。それだけだ。
 彼がわたしを抱き寄せる。先ほどまでこの口を覆っていた手のひらが、わたしの腰をやさしく掴んだ。
 開かなきゃ、閉じているらしい魔術回路を、開かなくては。
「……気張るな。そのままでいい。おまえは、そのままでいい」
 ぐいと引き寄せられて、わたしは彼の胸の中へと落ちた。
 そのままでいいと言われても、蛇口が閉まったままでは水は出ない。わたしは自身の蛇口の捻り方がわからないから、こんなに苦労しているのに。努力することをやめてしまったら、それこそ怠慢だ。
 ずるり、と、身体の中で、何かが解けた感覚がした。「う、」どろりとした熱が身体中を這いまわって、わたしの背を弓なりにさせる。「う、あ」痛い、痛いけど、なにか知ってはならない感覚がわたしの背後に迫ってきていて。
「あ、ああ、」
「なまえ」
 後頭部を掴まれて、喉を反らされる。わたしの視界に入ったのはひどく優しい赤色で、わたしはそれに縋ることがどうしてもできなくて、瞼を閉じる。
 この、感覚を。ほかの魔術師の人たちは、自分でコントロールすることができるんだろうか。こんなに苦しいのに、自分の意志でそれを行うことができるだなんて、忍耐力がずば抜けていない限りできっこない。
 あつい、くるしい。そしてこれからまた、わたしの呼吸は潰される。
 クー・フーリンさんと一緒にいるときだけ、閉じていた魔術回路が開くだなんて、なんだか、わたしの身体が彼という受け皿を喜んでいるみたいで、少し気恥ずかしい。行き場を失った魔力が身体の中でぐるぐると渦巻いている。本来ならばここで詠唱なんかを初めて、何かしらの魔術を――。
「あ」
 ぱちりと瞼を開ける。痺れた腕をむりやり動かして、揃えた指の束で彼の口を阻んだ。指の腹に唸り声がぶつかる。
 比喩じゃない、今、世界が見違えるほど輝いた!
「いま、いまなら、なにか、魔術が使えるかも! クー・フーリンさん、ちょっとだけ時間を、」
 後頭部に回っていた手が、わたしの手をむんずと掴んだ。べりっと引きはがされて、また赤い瞳が近づいてくる。
「うるせえ」
 それだけ言うと、彼は乱暴にわたしの唇に噛み付いた。
 わたしの提案は彼の前に立ち塞がる脆弱なエネミーのように切り捨てられてしまう。本当に、今なら、ガンドのひとつも弾き出せそうだったのに。
 肉厚な舌が、わたしの唾液を掬い上げるために降りてくる。歯は、当たらなかった。

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