見るも無残に荒れ果てた、ドンレミの街並みを眺める。そこには恩も未練もなく、溜まりに溜まった憎悪が大樹となって、私の指先に焔の花を咲かせる。私を祀り上げ、魔女として断罪した豚どもを灰に還すためならば、この身が消し炭になるまで私は燃え続けるのだろう。
家屋をねぶる炎のきらめき、光に負けじと肌を焦がす熱の中で、胸に灯るものがある。
――あの日、私の眼前に降り立った、大天使ミカエルも。
聖大致命女のカタリナも。殉教者のマルガリタも。
涙が零れ落ちるほどに美しかった。私はその場で、三つの輝きに魂を貫かれたのよ。使命感よりも強烈な激情が私を襲った。日常の一部、家に向かう道の途中での出来事。なんの変哲も無いその一瞬が、私の人生を塗り替えた。
――私は、神の声を聞いたのよ。
火を撒く。炎を纏う。その中心にくべられるのは、馬鹿げた司祭でも愚かな民衆でもなく、私自身に他ならない。
夥しい数の竜の影が連なり、街の上空を覆う。晴れ渡っていた筈の空が、瞬く間に黒に染まる。瓦礫の街は燃え盛る炎に揺らめいて、陽炎の揺蕩う赤色へと変貌する。
家屋の残骸なんて土塊も同然だった。壁を軽く蹴り飛ばせば私一人分が通れるだけの隙間が確保出来る。足音の鳴るほうへ目を配らせれば、白いブーツが視界の端から消えた。「……、ちょこまかと。まるでネズミね」さしずめ、私はそれを追いかける黒猫といったところ。不思議と、苛立ちは無かった。
火の燃え移ったばかりの倉庫に逃げ込むなんて。あの子、相当頭が回っていないみたい。そこで二人して蒸し焼きになるのもいいかも、なんて馬鹿げたことを考えながら、また突き当たった壁に向かって旗を振り翳す。
逃げ惑っているのか、どこかへ誘導されているのか。どちらでもよかった。彼女を追いかけるのが楽しい――本当に、心躍る気分。
裾の少し焦げた短いスカートを早足で追いかける。すぐに捕まえてしまっては勿体ないから。少しくらい遊んだっていいじゃない。昼間だと言うのに薄暗い路地裏に飛び込むなんて、ネズミにはお似合いだわ。
私は、そのネズミが欲しくてたまらないのだけれど。
「ジャンヌ!」
背を向けたまま、あの子は私の名前を呼んだ。牢獄に迷い込んだ白い羽根は、風に乗って私の心を激しく揺さぶった。手を伸ばせどそれには届かない。けれど、今ならば。
手を伸ばせば届く気がする。この私が掴みたいものが、掴みたかったものが、今ならば。
「ジャンヌッ! ジャンヌ・ダルク――」
彼女は叫んだ。私の名前を、掠れる程に甘い声で雄々しくがなった。
霊核が震える。全身に駆け巡る血が私の体内を這いずり回って奮い立てる。神の声を聞いた日と同じ昂りが、脳髄の奥まで深々と突き刺さる。
なのに。それなのに。
「――オルタ!」
彼女が紡いだ名は、何か邪魔なものを携えて、私の耳をつんざいた。
「…………はぁ?」
疑念。微小の吃驚。それが何なのかを直感的に感じ取る。
憎悪の感情はすかさず溢れ出た。舞い散った悋気を糧にして燃えた。燃え広がった。だってそれは、私自身を意味する名前ではないのだから。
ジャンヌ・ダルクと、そう言ったくせに。
「……ジャンヌ・ダルクは、私でしょう?」
光の先に赴き、ぼやいても、彼女が私に向かって来ることはない。眼球の奥に差し込む太陽の煌き。どれだけそれが眩しくとも、私は瞼を閉じなかった。いや、閉じられなかったのだ。
あの子が飛び込んだ先にいた者は、私と同じくらいの長さの白い髪を持つ女だった。燃え滓の滲んだ石畳の上に立ちはだかる、一人の少女と、一騎のサーヴァント。私が求めて止まない人と、私にとって不必要であるもの。
重圧感のある鎧、破れた外套、黒い額当て、長大な旗。そして、全てを蔑み恨もうとする、固く尖った月色の瞳。
それは、まるで私だった。私そのものであった。
真のジャンヌ・ダルクとは、私のことで間違いない筈なのに。
「……ねえ。ジャンヌ・ダルクは、私でしょう? そう言いなさいよ」
「あら、マスターと契約を交わしたのは、この私、
うたかたの夢が、燃ゆるのを見た。
それは灰になるべくして燃えているのではない。光に触れて、溶けて、輝いている。
眼球が溶ける。網膜が焼け爛れる。あれが、あれこそが、私の求めて止まない――光。
――私は、神の声を聞いたのよ。
あの声音を聞いたのは、私である筈なのに。
神の声を聞いた記録はあっても、記憶ばかりは得られなかった。それは私が、愚民と狂信者と未来の語り部たちによって練り上げられたものだから。
私は。ジャンヌ・ダルクは。
あの神聖な光をもういちど見たかった――だろう。
あのジャンヌ・ダルクは、今一度この世に降り立ちたかった――だろう。
あの馬鹿な田舎娘にも、寄り添いたいと思う人くらいは居た――だろう。
一人の男の幻想が私だとしても。悪趣味な妄想が器を得て形になったそれだとしても。私は、神の声を、聞いたのよ。
あの子の声を、この鼓膜は掴んだの。
『あなたが、ジャンヌ――』
魂を焼かれた。そのたった一声が、私の心臓を焦がした。他に理由なんか必要ない。だって、あの子は、私の隣に立つに、相応しい者なのよ。
炎が揺らめいて、燃える。背後にあった建物は瞬く間に業火に焼かれた。旗の石突を地に振り下ろし、竜の図柄を背負う。
「ねえ、なまえ。私のマスターになりなさいよ」
「ハア? なまえは私のマスターよ。アンタねえ、名前が同じだからって――」
剣を引き抜き、喚く女の足元に火柱を打ち立てる。なまえを抱えて飛び退いた復讐者は、舌打ちをしながら私と同じ旗を掲げた。
「私のマスターに手を出そうとするなんて良い度胸じゃない。いいわ、遊んであげる。私が正真正銘の、ジャンヌ・ダルク・オルタであることを――証明してあげるわ!」
私と同じ形の口から放たれる威勢の良い口上を聞いて、なぜだか、胸の奥で暴れていた波が静まり返ったのを感じた。憎たらしい下品な笑顔。薄寒くて反吐が出る。それなのに。
やはり、心のどこかで。私は、この女になりたいと望んでいるのだ。私は、ジャンヌ・ダルク・オルタになりたいんだ。なまえの横で旗を振り、剣を振るう、お前になりたいのだ。
私とお前は同じ反転したものである筈なのに、どうして私だけが、なまえを横に置くことが出来ないのだろう。
家屋が焼け崩れる音を聞く。飛竜がこぞって広場を荒らす。何もかも破壊して、めちゃくちゃにして、最後に私がこの場に立っていたのなら。
剣の切っ先で宙を掻く。赤い炎は辺りを瞬時に取り囲み、細く吹いた風が旗を大きく翻した。「私のマスターになれ、なまえ!」ワイバーンの群れが、一際大きく嘶いて見せた。