SSS | ナノ


#I don’t give a damn what you think.系列の話



 オレの中でなまえさんという人はまるで冷たい流水のようなひとであったから、何度も手のひらから滑り落ちていく感覚を覚えさせられたし、手の皮がふやける前に諦めなければ次はないだろうということも予測出来た。水を抱きしめるというのは本当に虚しいもので、例えそれが熱湯であっても変わることはない。
 熱い風呂の中で、なにもないところを掻き抱いている。いや、ただ、関節を曲げて軽く自分を抱えているだけだ。四十度の水面に顔を付けて、息を吐く。大きな水泡が頬を撫でる。鼻の頭を、顎を、目元を。額を撫でる。
 苦しい――ざっと顔を上げて、肩で息をする。「いやだ、」ガキの十八番を口にして、急いで湯船から飛び出した。

「別れたくない、」

 張った湯を撒き散らし、身体もまともに拭かずに紺のガウンに袖を通す。溢れ出た焦燥感が、足音、ドアを開く音、スマホを掴む音を大きくする。

「なまえさん、なまえさん、なまえさん、」

 発信履歴一覧の一番上にあるなまえさんの名前をなぞる、軽く触る、発信、無機質なコール音はオレの心臓を跳ね回らせ、精神の波を大きく揺らめかせる。
 いやだ、別れたくない。全身の毛穴から汗がどっと噴き出した。口元を押さえて嗚咽を飲む。別れたくない。別れたくない。何がいけなかったんだ。何か彼女の気に触ることをしてしまったか。せっかく彼女の恋人になれたのに、などという未練がましい想いより、彼女に嫌われてしまったかもしれない、その可能性が濃く深くなっていく感覚が何より恐ろしく、怖かった。
 電話をかけた相手が出ないだけでこんなにも心臓が痛くなったのは初めてだ。頭のてっぺんから血の気が引いていくのを感じる。今のオレはとんでもなく情けない顔をしているのだろう。洗面所も風呂場も開けっぱなし、床も水浸しのままで、動悸と息切れで顔を青くしているさまは、第三者からから見ればまるで病人のすがたそのものだ。
 四回目のコール音の後、彼女と電話が繋がった。「もしもし、」左耳から大好きな人の声が聞こえる。オレは想像しうる最悪の事態から免れたい思いでいっぱいで、「あぁ、」となんの意味もなさない音を出して、彼女を動揺させた。オレのコールに応えてくれたことが、何よりも奇跡のようだったからだ。

「なに、キバナくん……また酔ったの?」
「なまえさん、」
「なに?」
「別れたくない、」

 ソファの前で膝をついて、クッションに雪崩れ込む。それを見たノーマルフォルムのロトムが心配して、オレの傍に寄ってきてくれた。指の背でロトムの頬を撫でようとすると、触るなと言わんばかりに避けられて、また目頭が熱くなる。
 そこからのオレのセリフと言えば、まるで譫言だ。
 別れたくない。何度もそう呟いて、オレはなまえさんを困らせた。「え?」「別れたくない、」「うん……」「別れたくない、なまえさん、いやだ……、別れないでくれよ……」声には涙が乗っていて、唇は震えてしまっていた。「……お水飲んだら?」「酔ってない」「酔ってるよ、それは」「別れないで」「わかったよ」二つ返事みたいなその一言を聞いて、オレは本当に安心して、嬉しくて、また泣きそうになった。
 ソファとクッションに水が滴って、多量の涙が沁みたみたいにぐっしょりと濡れていく。悲しくはない筈なのに涙が止まらない。ロトムは変な顔をしている。

「急にどうしたの」

 そう聞くなまえさんに、ただ別れたくなくて、と説明にもならない返答をする。
 すると、なまえさんは疑問符を込めて鼻を鳴らした。かわいい。オレも同じように鼻を鳴らしてみたら、目先のロトムが凄い顔をしていた。
 電話越しだから向こうの表情はもちろんわからない。けれど、なまえさんは少し恥ずかしそうに、口ごもりながら言う。

「わたし、キバナくんに別れてなんて、一言も言ってないよ……」

 オレにはその言葉が一瞬理解出来なくて、ほあ、とかいう間抜けな声を出してしまった。「ねぼけてるの?」疑心に満ちた問いが脳髄に突き刺さる。
 ねぼけてる? そうかも、風呂入る前までウトウトしてて、なまえさんから電話がかかってきて起きて、なまえさんに別れてって何時に無く大きな声で叫ばれて。
 それでショックで目覚めて、頭を起こすために急いで湯船を張って。何かおかしい、けれども、当時のオレはそんなことを気にしていられるほど冷静ではなかったのだ。
 ということは、ぜんぶ、オレの、勘違い。

「……ねぼけてたかも。ごめんなまえさん、急に……」

 あまりの出来事に、気が動転していた。恥ずかしいところを見られてしまった、と意気消沈するも、それを塗り替える渾身の一撃を食らう。

「わたしは、その、キバナくんと、そんな急に別れるつもり、ないよ……」

 今この場になまえさんが居たのだとしたら、オレは彼女の身体を力いっぱい抱き締めていただろう。「じゃあね、切るよ、またね」照れているのか、なまえさんは急いで通話を切って、オレが今家に一人でいる現実を痛感させにきた。
 そんなことをされたらもう、今すぐにでも会いたくて仕方がなくなるに決まっている。
 流石にこの時間に押しかけるのは良くないとロトムに諭され踏み止まったが、それからのオレは暫く嬉しい気持ちで胸がいっぱいだった。
 なまえさんは、オレと別れるつもりはないって、そう言ったんだ。一日だけ恋人になってくれなんて食い下がったオレが馬鹿みたいだ、なまえさんはやっと、オレのことを男として認めてくれたんだ、好きになってくれたんだ!
 そうであると思いたい。まだ、そうであってくれと願っている。
 スマホの着信履歴を見ても、ここ数時間前の欄になまえさんの名前は一切見当たらなかった。そのことに安堵を覚えつつも、やはり、少しだけ残念に思ってしまう。なまえさんから連絡が欲しいと望むことは、まだ贅沢なものなのかもしれないな。スマホに指先を滑らせて、今度こそ、画面を暗に染めた。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -