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(GOGO二号さんの設定)
(真名バレ回避のため「新宿のアサシン」と書きましたが、正確には新宿シナリオに登場するアサシンくんではありません、ごめんなさい)
(真名バレはありません)
(タイトル通りの、アサシンくんの髪に関する話です。そのあたりに関わる話が苦手な方はご注意ください)




 そろり。右手で己のうなじあたりを撫でる。手甲の冷ややかな感触が、戦闘を終えたばかりの火照った肌を刺した。曖昧だった意識が明瞭なものになっていく。
 首は、繋がっていた。当たり前だ。この俺があんな雑魚どもに首を掻き切られるようなヘマをする筈がない。しかし、確実に、今までそこにあったものが無くなっている。手の甲に乗る筈の、あの重みが無いのだ。どこにも。
 頭が、軽い。脳まで持っていかれたか。まさか。もし頭蓋から脳が溢れていたのだとしたら、その場で詰め直さない訳がない。
 そうだ、俺は。
「え、あ、アサ、シンさん、」
 目をひん剥いたなまえが、肩を竦めながら俺のことを見ている。俺の後ろに何か居るのか。振り向いてみたが、誰も居なかった。「え、え、うそ」狼狽した声を漏らすなまえは、その場で意味もなく手を振ったり足踏みをしてみたりして、何やら忙しそうだった。


 俺がレイシフトから帰ってくると、何やら所定の位置になまえは居なかった。代わりに、いつも交代でやってくる男が、なまえが普段使っている端末を操作していた。
『なまえなら向こうだよ。奥のほう』
 その男は俺の顔を見るなり、聞いてもいない情報を吐き出した。そして何かに気づいたのか、やけに楽しそうな声で俺の風貌を褒めたあと、管制室の隅のほうを指差して、『よろしくね』などと軽い口調で宣った。どーも、と愛想良く笑って返事をしてはみたものの、内心は穏やかではなかった。
 何なまえのこと名前で呼んじゃってんの。意味わかんねぇ。仲良しアピールのつもり? なんで何も言ってないのに俺がなまえのこと探してるって思ったワケ、っていうか別に探してたとかじゃねぇし、居ないなら居ないでそれで良かったんだ。なのにわざわざ顔合わせに行かなきゃなんねぇような感じにしやがって、これで俺がなまえに会わなかったらあとで話拗れて面倒臭くなるだろうが、なんだアイツ、ああムカつく。あんなのに高評価貰っても嬉しくもなんともねぇっての、なまえもあんなヤツと組まされて大変だな、あんな人に合わせてへらへら笑ってるだけの何の役にも立たなそうなモヤシ野郎、あ、おねえさんだ。
 言われた通りの方向へお行儀良く歩いていると、管制室の端のほうで別の端末を操作しているなまえの姿を見つけた。あの男が居た位置からは、大体百二十歩ほど離れている。電気の節約のためか、周囲は酷く薄暗い。なまえは壁に埋まっているモニターに触れ、身体の正面を薄緑色の光で濡らしている。
 その、薄暗い中にぼんやりと落ちる濃い影が、俺の奏でる足音を殺していく。息を潜めて、空気と溶け合う瞬間を肌で感じる。闇に紛れる。陰そのものと同化する。次に俺が息を吹き返すのは、なまえが俺の存在を肌で感じたときだ。静かに両腕を伸ばして、指を開く。向かう先は、声を司る道。
「んー……」
 なまえが頭を左右に振る。凝り固まった首の骨が鳴る。それからぐいと背伸びをして、「ん?」振り返って、目が合う。「あ、」声が漏れる。目が、合う。
「……い¨、……ッ! んー! んー……!」
「いやあのな、俺だから、落ち着けって、俺だよホラ、俺」
「んぇんぇんぇ」
「オレオレ詐欺とかじゃねぇから」
 叫び声を上げられる前に、間一髪でなまえの口を塞いだ。右手の指の束が、なまえの口元を覆っている。「んんんぅうん!」アサシンさん、だろうか。指の間に埋まった声は未だに音量が壊れていそうで、手を離すのが怖くなる。
 俺は一を数えた人差し指の背を自分の唇に当て、「しー……」と歯の隙間から息を吹く。耳に神経を集中させ、そっと目を細めた。今ここで、なまえの悲鳴が誰かの耳に入るのはまずい、特に、人に合わせてへらへら笑ってるだけのクソの役にも立たなそうなモヤシ野郎の耳にだけは、決して入れたくないものだ。
 右手をそっと離す。「……アサシンさん」「ん、なーに」「ま、また、後ろから何か……しようとしてませんでした?」「まさかァ!」俺は両手を広げておどけてみせた。とびっきりの笑顔をつけて。おっと、こんな暗がりの中騒いでは、人を呼び寄せてしまう。
「……アサシンさん?」
「なぁに?」
「……本当にアサシンさんですか?」
「そうだけど? 何?」
 首を傾げて、逆光で顔一面を暗くしたなまえにじろじろと見つめられる。薄い色の蛍光緑に照らされた俺の顔を眺め、怪訝そうな顔を向けている。
「……あ」
 なまえが、何かに気づく。目が合う。光を失った目だ。この世の理を知り、今まで信じていたものすべてに裏切られたような目だ。なまえの口元がゆるみ、間抜けな顔が現れる。
 俺は思わず噴き出した。「何その顔」笑ってみせる。
 いつもある筈のものが、無いと言いたいのだろう。周囲の暗澹に髪を溶かされたことで、その輪郭は分からなくなっていた。まぁ、それなりに、無くしたぶんの収穫はあったという訳だ。


 自身の後頭部を撫でる。指の隙間から生える、短な毛先。
 ぐらぐらとした焦点の合わぬ瞳で、なまえは俺を見ている。え、え、と困惑した声を漏らしながら、無意味に首の位置を調整している。俺の頭の後ろにあった筈の、長髪の行方を突き止めようとしているのだろう。
「い、イメチェン? ですか?」
「んー、そんなところかねぇ」
「そんなにばっさり、あ、レイシフト先で、敵に……?」
 隠そうとしていたことを、いの一番に当ててきやがる。気分で髪型を変えた、くらいに留めておけば気兼ねなく話を進められると云うのに、余計な真実を混ぜ込もうとする。誤魔化すのはまだ良いが、嘘まで吐いては格好がつかない。
「そーそー、ちょーっと油断してねぇ。ほんの少しね。まァ、俺の髪切り飛ばした騎士様にはキッチリ落とし前つけさせたけど。そんなことよりさ、どぉ? 似合う?」
 うなじを掻き上げて、挑発的な視線を送る。それほど襟足が残っている訳でもない。後髪だけをそのままどこかに置いて来たような、そのくらいのものだ。
「えっ、短っ……ジャックちゃんより短いのでは? サンソンさん、いや小太郎さんくらい……?」
「似合うかって聞いてんだけど」眉間に皺を寄せる。
「え、あ、すごくお似合いですよ!」
 そう、俺はその言葉が聞きたかった!
 息を吸う。肺に多幸感が溜まる。薄く笑い、「そうだろ?」と、吐き出した言葉に自信だけを詰めた。
「マスターも最初は心配ばっかしてたけど、似合うってめちゃくちゃ褒めてくれたよ。切られた直後は流石にざんばらだったから、自分なりにさっと整えたんだけど」
 思ったより短くなっちった。少し前の言い分とは打って変わって、舌の上に軽々と嘘を乗せた。なあに、嘘も方便と言う。
 俺はなまえの驚く顔が見たくて、その反応が見たくて、必要以上にこの黒を切り落としたのだ。どうせ髪ならまた生えてくる。早急に必要ならば、カルデアより供給されている魔力を少し余分に貰えば良い。そもそも、似合わないと云う選択肢など初めから存在し得ないのだ。
 なまえは俺の首元あたりを入念に眺めている。「何?」と聞いてみれば、恥ずかしそうに頬をかいた。
「お背中、丸見えになってしまいますね」
「……見る?」
 え、となまえが声を跳ね上げた。俺は返事も待たずにくるりと振り返る。目線だけはなまえの居るほうに流したまま、紋身の広がる背中を見せつけた。
「ひゃ……」
 なまえは顔の前に手をやり、びくりと肩を震わせる。その瞳には好奇心と、ほんの少しの含羞があるように見えた。見てはいけないものを見るような目で、俺の背を眺める。
 なまえの視線が、俺に釘付けになっている。当然だ。俺の背に彫られた鮮やかな色彩に、余すところなく目を這わせることが出来るのだ。この身体を見た者は、その誰もが声を失い、魅入られてしまう。目を見張り、感嘆の溜息を吐くのも無理はない。
 二枚の鼓膜が、なまえの口から漏れる吐息を掴む。見られている。俺の入れ墨を、見る、と意識した上で、なまえは俺に彫られた色鮮やかな紋様を見ている。“そういった”目で見られることには慣れているし、寧ろ好奇の目を向けられるのは喜ばしいことだった。忠誠を誓った主へのささやかな貢献にも成り得るのだ、自尊心を抱かぬほうが礼儀に欠けるというもの。
 記憶の底に染みる情景を想起する。この身を突き刺す無数の視線。勝負相手など初めから眼中に無かった。『見事!』群衆より飛び出した一人の賞賛の声は瞬く間に周囲へと広がり、俺はその中央で誇りを胸に、我が主へと微笑みを向けるのだ。
 何千何万という瞳がこの身体を目にしたことだろう。皮が溶けるほどこの肌を視線で嬲られた。例え血を垂らすことになろうともこの身を包む皮に墨を入れ、その痛みを耐えた暁には、筆舌に尽くし難いほどの喜びをこの手に掴むことが出来る。我が矜持を示さんと、墨で己を彩る行為。はて、痛みなどあっただろうか。書き記されていないことに関しては、この俺にも分からない。
 しかし、先程から、妙なのだ。なにやら、身体が熱を持っている。戦闘によって掻き立てられたそれならすでに冷めたものだと思っていたのだが、確かに身体が、熱いのだ。
 肌の層に微熱が溜まる。なまえの視線が俺の背中に打ち立てられている。黒の墨で彫られた字、その十三画をゆっくりと目でなぞるような。ぞくりとする。悪寒とは違う。まるで腹の底から這い上がって来る、肉情にも似たそれ――。
 ああ、俺は、あの視線に。背の紋身を舐められている。
「どぉ?」
 静寂に耐えきれなくなって、俺は咄嗟に口を開いた。羞恥心か。何に対して。肌など普段より晒している、そもそも己の肉体を表に晒すことに恥を感じるほうがおかしいのだ。
 逸る気持ちはあった。なまえはその唇で、どんな言葉を使って俺の身体を褒め称えてくれるのだろうか。華やぐ心を胸に、反応を待つ。
「凄く、すごく……」
「すごくぅ?」
「……すみません、あの、こんなこと言うのもあれなんですけど……」
 ぼそぼそと、こぼす。なまえの表情が、俺が一番見たくなかったものへと近づいていく。嫌いな根菜でも食べたような顔だ。何だ、何が、アンタにそんな表情をつくらせている。
 俺の思いを知ってか知らずか、その細い指の束で、なまえは申し訳なさそうに顔を押さえた。哀調を帯びた眼はそのままに。そして、掌の内側で、「入れ墨、赤くなってて、痛そうだなって……」と、弱々しい声を吐き出した。痛そう、だと。
 この女は、広範囲に描かれた入れ墨を賞賛する訳でもなく、ただ、痛そうだ、と、それだけを。
 なんだそれ。
 確かに、肌が疼く感覚はある。墨の輪郭を赤がなぞっていることもあるだろう。だが、そうではない。そうじゃないだろ! 一体どこを、何を見たつもりだ。湧いた憤りを必死に抑える。俺は、ただ、あの一言が欲しかっただけなのに。これでは子どもの癇癪と何も変わらない。その不自然に泳いでいる目はなんだ。
「髪、やっぱりすごく短くなって……入れ墨も、全部、見えちゃいますね」
「……髪、伸ばしたほうが良いかね? あー、別にぃ、背中隠すために髪伸ばしてる訳じゃねぇけどさ」
「戦闘に支障がないのであれば、どちらでも構わないと、思いますが……」
 片眉が跳ねる。その場で勢い良く振り返ったが、後髪が宙を振り払う感覚は無かった。余りの身軽さに勢いがつき過ぎたことを肌で感じる。びく、となまえの肩が震えた。
 どちらでも構わないだと。ふざけやがって。
 距離を詰める。顔を寄せる。充血しかけた強膜とぼやけた虹彩の周りが、なまえの眼精疲労を物語っていた。舌でも突っ込んでやれば明瞭な視界のもと俺の紋身が拝めるだろう。
 揺れる瞳を見つめ、喉仏を下げる。
「俺はあんたの意見を訊いてる」
 冷静に。冷淡に。冷酷に。感情は最小限に絞って、目で物を言う。
 なまえが息を飲む。その口元に当てられている二枚の手が何より邪魔だった。
「長髪の俺と、短髪の俺、」指の背に鼻先が触れるほど顔を近づけ、「どっちが良い?」ひっそりと、白い手の甲に向かって、そう囁く。
「ねぇ」
 どっちでも良いじゃないんだよ。どちらかを選べと言っているんだ。あんたは髪の長い俺と、髪の短い俺、どちらが好みだい。そう訊いてやれば良かったのだが、生憎、そのときの俺は少し臆病になってしまっていた。レイシフト先に置いてきた髪束の中に、今振りかざすべき自信が紛れ込んでいたのかもしれない。
 なまえは、顔に落ちた影の中で眉尻を下げる。
「……わたしは、いつもの髪の長い、アサシンさんのほうが、見慣れているので……そっちのほうが、良いかなと思います」
「なんだそりゃ。理由が面白くない」
「面白くない!?」
「納得出来ない。見慣れてるのが良いんなら、短髪の俺にも慣れれば良いんじゃねぇの?」
「う……」
 良い刺激になるかと思い、レイシフト先での事故を利用してみたものの、一番反応を期待していた相手にこうも微妙な出方をされては、面白くもなんともない。マスターや他のサーヴァントからも、否定的なコメントはひとつも出てこなかった。暫くそのままでいたらどうだ、とも。だから、わざわざ手を入れて、毛先の長さまで調整したと云うのに。
「ええと……」
 なまえの片手が、俺の鎖骨に触れた。軽く押されたが俺の身体が動くことはなく、ただ肌を撫でられるだけに終わる。焦ったなまえに今度は両手で強く押し退けられて、咄嗟に姿勢を直した。
「……何、ヤなの?」
 その爪で、胸の奥まで引っ掻かれた気がした。怒りとも悲しみともとれぬ感情が湧く。
 なまえは腕を伸ばしたまま、緊張したようすで俺を見上げた。なんだ、そんなに俺が近寄るのが嫌なのか。
「い、いつも隠れてるところが丸見えなので……ドキドキしてしまう! じゃないですか、だから、アサシンさんの髪は、長いほうが良いと思います……」
「…………はあ!?」
 言葉を咀嚼して、頬が熱くなる。張り上げた声は暗闇の中によく響いた。声を抑えなければならないことなど、頭から抜け落ちていた。
「あんたよくそんな……自分からスケべですって公言してるようなもんだろ」
「は!?」
「俺の身体に興奮するから、隠してくれって言ってるんでしょぉ?」
 口元に笑みが浮かぶ。即座に違うと否定されたが、そんな反応をされてしまっては肯定と受け取る以外に無い。「長髪か短髪かの話だったと思うのですが」「おねえさんは、俺の身体に興奮しちゃういけないどすけべ職員なので、せめて髪伸ばして背中だけでも隠してほしいって話だろ?」「……後ろのほうしか合ってないです」俺から目線を逸らして、足元のあたりを眺めている。そういう生娘みたいな反応に、俺の心臓は悉く跳ね上げられてしまう。
 横髪の隙間から覗く耳を見て、俺は唇を噛み締めた。もしその耳殻が赤く染まっていることを視認出来たのならば、気がすむまで煽ってやれたと云うのに。逆光の影に隠れてしまっているのと、モニターの明かり程度の光量では、肌の色を判別するのは難しい。
 何も事実のみが正義ではない。ならば多少証拠が不十分でも、鎌をかけるくらいならば許されるか。
「照れてんのォ?」
 腰を曲げて、暗がりになっている顔を覗き込む。近寄らねば表情が見えないのだから仕方ない。ぐい、と距離を詰めると、なにやら、不貞腐れているのか。唇をへの字に曲げて、目線を真横に流している。「う、」それはどんな意味を持つ唸り声なのか。心を乱される。
 なまえの左手が、俺の肩を押した。再度背筋を伸ばされて、少しだけ気落ちする。
 さっとこちらを向いたなまえは、口元に手を当てて気恥ずかしそうな眼で俺を見る。どきりとした矢先、すぐにその瞳は瞼によって隠される。
「自分がかっこいいの自覚して、そんなサービスみたいに肌とかうなじとか見せるのは、いけませんよ、すけべですよ、もう、この、見せたがり!」
 後半になるにつれて声の音量を上げていったなまえは、最後の最後で感情を爆発させた。そして、俺の横を抜けて、「きゅうけい!」と叫びながら俺の歩いてきた暗がりの道を走って行く。
 追いかけっこか。かくれんぼか。この俺に足で勝とうなど。振り向けば、だんだんとなまえの背中が小さくなっていくのが見えた。
 追いつくだけなら簡単だ。捕まえるのも。なのに、俺はなまえの背が闇に紛れていくようすを、眺めていることしか出来なくなってしまった。「……かっこいい、」なまえの吐き出した言葉の破片を呟く。足が竦む。普段あんなこと言わねぇくせに。
 たった一言に心を荒らされて、頭を掻いた。指先に短くなった毛が触れる。その言葉を一番に期待していたのは己で間違いない。なのに。畜生。ばくばくと心臓が脈打つ。
 そろり。右手で己のうなじあたりを撫でる。手甲の冷ややかな感触が、なまえの視線に熱された肌を刺した。後髪が有るのと無いのでは、確かに身体の重心が狂って戦闘に支障が出るかもしれない。今だって咄嗟に足が出なかった、これでは武術を嗜む者としてどうなのだ。それに、心まで狂わされるのはいただけない。「……くそ」褒めそやされるのには慣れているし、嫌いではない。主への期待に応えられるのならばそれが一番だ。
 なのに、これはなんだ。普段より有ったものが無くなっただけで、あんなに取り乱すものなのか。俺は女ではないので、女の心は分からない。
 ふと、うなじに指を滑らせる。手の甲に後髪が当たる感触は無い。あんなに喚かれるくらいならば、元に戻したほうが賢明か。暫くこのまま様子を見るのも悪くはないのだが、ああして逃げ出されるくらいならば……。
 手の甲と、反対のほうに意識を向ける。
 そうか、今まで見えなかったものが、見えるようになったから!
「……どすけべじゃん」
 ひとりごちる。何かおかしいと思ったら。
 そうだ、この身体を照らす光には、薄くではあるが色が付いている。赤みのさした肌など、近づいてよく目を凝らさない限り分かる訳がない。なまえの耳を見た時点で気づくべきだった。彼女が見ていたものとは、俺の背中ではなく。胴と頭を赤い縄で繋いでいる、その部位だ。
 よりによって、うなじで興奮するとか。何にでも欲情する若い男でもあるまいし。注視すべき部位はそこではないのだが、まあ、おねえさん相手なら、悪い気は、しない。
 なまえの背中を追いかけようとして、あの男の顔がふと脳裏を過ぎった。今追いかければ、確実にまたあの男と顔を合わせることになるだろう。変に勘ぐられるのは面倒だ。いや、疑われたら疑われたで、もっと大胆に出てしまえば良いか。
 短くなった後髪に指を絡め、まぼろしに向かって宙を梳かす。指の隙間から現れた長い黒糸を、流れに沿って腰のほうまでずるりと垂らした。そのまま肩のあたりで束を纏め、パキンと軽い金属音を鳴らして髪留めを形成する。ほら、これで満足か。彼女の言うことを聞いたら聞いたで、今度は服を着ろと宣うのだろう。
 今まで見えていたところが、見えなくなったとしたならば。逃げ出されることもなくなるか。支給品にあった、あの緑色の洋服を着てみるのも悪くない。
 次はどんな出で立ちで、なまえの眼前に現れてやろう。あの初々しい反応が俺の心を踊らせる。踊らされている、とは、思いたくはない。
 なまえの向かった先とは真逆のほうへ足を進める。来たときは無かった真っ黒な尾を引いて、俺は薄暗い通路に落ちる闇の中へと身を潜めた。遠くのほうで聞き覚えのある話し声がする。ああ、これが、後髪を引かれる思いと云うものか。

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