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「もっと簡単な言葉で言って」
 なまえは自分の頬をくすぐる絹糸を無視して、巌窟王のくちびるにそう訴えかけた。
 熱情を灯した瞳がなまえの双眸に食らいついている。「何故だ」燃えるような眼光を以て巌窟王は問うた。彼の息は、既に軽く荒げられている。なまえが黙ってさえいれば、今すぐにでもその震える唇に噛み付いていたことだろう。
 彼はくちびるの間から赤い舌をちろりと出して、己の乾いた薄皮を舐める。己の興奮を強引に抑え込むような舌舐めずりだった。なまえの背に回っている腕は微かに震え、気を抜けばすぐにでも彼女の身体を引き裂いてしまえそうなほどだった。
 なまえは軽く彼の胸を押して、そこに会話を挟むための隙間をつくった。男の胸が、じり、と闇に焼ける音がする。彼女の手は温かいとは言いにくいものだったが、彼の胸はなまえの掌による低温を受けて、ゆっくりと焦げついていく。
「エドモンの言ってること、難しくてよく分からない」
 その焦げ付いた皮膚を抉る辛辣なことばに、巌窟王は眉をぴくりとさせた。
 なまえの意見は尤もなものだ。彼は己の思考をそのまま舌の上に乗せて吐き出すので、なまえは彼の言い分をうまく飲み込むことが出来ない。
 彼には自身の言葉を噛み砕くための牙こそあるものの、相手のために咀嚼するということをしなかった。生の思考を口から吐いて、誰にも嚥下されないなどということはざらだった。そしてなまえも、彼の言葉を嚥下出来ない者の一人である。その生の思考の、一番外側の皮を舐めるくらいが限度で、内に詰まった彼の本心を味わったことなど今の一度も無かった。
 なまえにとってその事実は堪え難いものだった。せめて一度でいいからきちんと彼の思いをすべて噛み潰し、飲み下して、反芻しながら自分の中に溶かし込んでしまいたい。なまえはその気持ちを全力でぶつけるために、此度彼の部屋へと足を運んだようなものだった。巌窟王の胸裏に渦巻く叙情を、余すところなく受け止めたいと願ったのだ。
 五分と満たぬ会話の中でそのいじらしい望みを汲み取った巌窟王は、こうしてなまえを組み敷き、肌を重ねようとしている。だのに、なまえは彼の胸を押して、自分たちの間に距離をつくった。
 巌窟王には到底理解が及ばなかった。沈黙を貫けば口も利けぬと揶揄される。唇を開けば相手を困惑させるだけだ。饒舌でいようが寡黙でいようが、結局、何も伝わらない。相手のためにどちらを選んだとしても、得られるものは何一つ見当たらない。
 巌窟王は己の思考を口の中へと掻き集めた。少しだけ噛み、一般教養を持つ者がそれなりに噛みしめれられる程度の柔らかさを与えてやる。
 熱い吐息が、なまえの肩にかかる。
「おまえの程度に合わせているだけの余裕が、今の俺にあるとでも?」
 彼は、火種の燻る劣情ごと、なまえをきつく抱き寄せた。その白い肩口に顔を埋め、肌の匂いを吸い上げる。彼の肺がなまえの香りでいっぱいになった頃、くぐもった声が巌窟王の鼓膜に触れる。
「エドモンさん、」
 苦しい、と続くであろう言葉は、巌窟王の胸によって押し潰されてしまった。要らぬ二文字を耳に受け、彼の激情は焙りたてられる。しっかりと言葉を噛み砕けていなかったことに対する応酬のようなそれに、巌窟王は燻った胸をなまえに押し当てる。
 シィ、と彼は歯を剥いた。己が歯の噛み合わせを確かめながら、尋常ではない力でなまえの肉体を締め上げる。激しい抱擁などではない、腕の中の者を痛めつけるだけのそれだった。
 なまえは肺に残っていた息を吐き出さずにはいられなくなった。お互いの肋の骨が軋みあがるほど、彼はなまえの身体を締め付ける。憎しみのこもる肉の腕が、その小さな身体を巻き上げている。
 巌窟王は、なまえに敬称を付けて名を呼ばれることを好まなかった。まだカルデアに召喚されて間もない頃、彼女にそう呼ばれていたことを想起して、どうにも胸が熱くなってしまう。これほどまでに身体の距離を詰めておいて、再度、心の距離を提示されてしまうのは、巌窟王にとって納得いかないものだった。
 二人の時間を共有する際は、特に。最後の二文字が胸に沁みる。
「エド、モン、エドモ、ン……」
 細切れになった彼の名前が、熱を帯びた空気に触れる。掠れた声は巌窟王の鼓膜を舐め上げ、そして腕に込められた力を徐々に解いていった。大きな掌は小さな背を軽く叩き、嗜めるような手つきで背筋をなぞる。
「ごめん、」
「あまり煽るな、歯止めが効かなくなる」巌窟王は目を細め、唇に笑みを乗せながらなまえに身を擦り寄せる。「それでも良いと云うのならば、別だ」微熱のともる肌が衣に擦れる。なまえの肩を跳ねさせる低い声が、鼻にかかって掠れている。
 その意地の悪い声色に、なまえは己の身体の奥に潜む欲望の輪郭をつつかれてしまった。自らそこを開かれに来たと云うのに、今更撤退など許される筈もない。
 なまえは息を二度吸った。上気した頬や潤んだ瞳を隠そうともせず、「エドモンさん、」と彼の黄金色の目を見つめて言う。粘膜のふちを飾る白銀の睫毛が震えた。
 また、なまえの身体が彼の腕によって締め上げられる。「エドモンさ、ん、ん……!」悲痛な声の裏に滲む微かな喜びの色に、巌窟王は喉を鳴らした。
 なまえが彼の身体を押し退けるようなことは無かった。自ら巌窟王の胴に腕を回し、彼の身体に心共々潰されながら、外套の背に皺を刻み込む。
――エドモンさん。
 彼のことをそう呼べば、強い力で抱き締めてもらうことが出来る。なまえはそう覚えてしまった。
「エドモ、ンさん、エドモンさ、」
 彼の名を呼ぶたびに、なまえの肋が軋んだ。その内側に隠されているものを暴こうとして、巌窟王は必死になまえの外枠を潰そうとする。なまえが根を上げて、その口から己の名だけを弾き出すのを今か今かと待っていた。
 本当は、己の名の後に付く無駄な二文字を消し飛ばすのを、惜しいとも思っていたのかもしれない。適度に緩められる腕の力がその証拠だった。締めて、緩めて、また締めて。それを繰り返すことで多幸感らしきものを得て、巌窟王は目を細める。
 骨の軋む感覚を心地良く感じているのは、何もなまえだけではないのだ。彼女の見えぬところで、あまりの興奮に歯を食いしばり、微笑を噛み潰している男が居る。女の肌の匂いで肺を埋め、服の中に肉情の灯火を揺らめかせている男が。
「俺を――煽ったな、」
 その男は燃え盛る炎に身を焦がし、なまえの肩口に牙を突き立てた。「う、」彼の名を奏でるための唇は何の意味も孕まぬ音をつくりだし、間も無く堰き止められる。
 女の皮を突いた歯が、肉に到達することはなかった。歪な形の赤い月が、なまえの右肩に二つ刻まれている。
「エドモン、」
「遅い」
 その黄金の瞳で、湿った首筋についた己の歯の形を見遣る。巌窟王は喉を震わせながら、物足りなそうに鼻から息を抜いた。「フ、」口角を上げて、うすい水の膜が張られたふたつの眼を見据える。
 畝る絹糸がなまえの頬を撫でる。熱のこもる息をお互いに吹きかけ合い、共に興奮を練り上げてゆく。絡みつき、捻れ合った末に、ぶつりと切れるものであれば良い。それが張ちきれる直前まで、お互いを繋ぎ止め合えるのであれば。

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