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 オレの一番古い記憶の中には既に、なまえという女の子が居たのだと思う。時々ソニアの隣にいる、表情の変わらない不思議な女の子、それがなまえだった。
 ブラッシータウンに構えているポケモン研究所の二階で、マグノリア博士と――なまえの祖母である、少しきつい顔をした――翻訳家のモクランさんが静かに対談をしていて、オレたちは庭で遊んでいることが殆どだった。
 ソニアはなまえのことを双子の姉妹のように溺愛していた。モクランさんが研究所を訪れるときは決まってなまえがいたので、オレもソニアもホップも、モクランさんとなまえの来訪を心待ちにしていることが多かった。
 ワイルドエリアからも外れた偏屈な地形。それこそ、迷い込まねば到達することの無い場所だ。辿り着くまでの足場も悪く、人もポケモンもそれほど多くを寄せ付けない。前後の見通しの悪い、つづら折りになった狭い峡谷の奥地だ。そこに、小川を挟んで、ぽつんと一軒家が建っている。
 オレがジムチャレンジに挑むと意気込んで散々道に迷った挙句、疲労困憊の末に辿り着いた場所がそこだった。だから、家の中から見知った顔の女の子がゆっくりと近寄って来たとき、オレは安心してその場で座り込んでしまった。だって、その女の子って、なまえだぞ。なまえがそこにいたんだ。少し引いたような顔で、オレに近寄ってきたんだ。あまり思い出したくはない、けれどもオレの記憶に色濃く残っている、鮮やかな景色がそれだ。
 なまえはオレを家へと招き入れてくれたが、モクランさんは終始苦い顔をしていたのをよく憶えている。
 あまり口を利いたことはないが、察するに、子どもが嫌いなのだと思う。十歳になりたてのオレはとにかく煩かったし、本当に忙しなかった。モクランさんが一番嫌う人種を体現したような男が、恐らくオレだったのだ。
 そんな男が、自分の孫娘に近寄ろうとしているのが、耐えられなかったのだろう。
 当時のモクランさんはオレのことを邪魔者扱いしていたと云っても過言ではなかったと思う。家を知ったからと遊びにくれば嫌な顔をされたし、土産のほとんどを無表情で受け取られたこともよく憶えている。同居しているサーナイトも、オレのことを程よく嫌っていた。よく庭にいたロズレイドも、木の上のアーマーガアも、小川に身を横たえるアシレーヌも、なまえが傍に来て宥めない限りオレをあの家から遠ざけようとしていた。
 なまえは、そんなオレを毛嫌いすることなく。好きなときに来て、好きなときに帰ればいい。たまにワイルドエリアからここに迷い込んで来たトレーナーを休ませていくことがあるから、ダンデもそうするといい。そう言って茶菓子を出しては、オレのジムチャレンジ中の話を黙って聞いてくれていた。
 道に迷って野宿をした、キャンプでヒトツキを仲間にした、一つ目のジムを突破した。木の実をヨクバリスに取られた。ワイルドエリアに出現するポケモンが天候によって変わった。預かり屋にオス同士を預けてしまった。ポケモンの特性を失念して負けそうになった。相棒のリザードンが、ジムリーダーの切札であるポケモンを倒した。
 オレが興奮しながらそれらの話をしているとき、なまえは少し楽しそうに、可愛らしく相槌を打つのだ。ポケモンバトルはしないと聞いていたが、ポケモンに対する知識はあり、的確なアドバイスをくれたこともあった。翻訳の仕事で培ったものだと聞いたときは、彼女のことを少し知ることができて本当に嬉しくなった。今思えばとんでもなく迷惑な行為だったのだろうが、それくらい、オレは無自覚ながら彼女に夢中だった。なまえのことが大好きだった。突破したジムリーダーの戦術を褒めているのを聞いて、それに嫉妬の感情を抱くくらいには、彼女にオレのことを見ていて欲しくて仕方がなかった。
 チャンピオンの座を獲得しても、どんなに強いトレーナーと戦っても、オレのなまえへの欲求は無尽蔵に増えていくばかりだった。オレの中にある欲望の杯が満たされて、そこに注がれたものが溢れても、あの日満たされる筈だった、とくべつな杯の中身はからっぽのままだ。
 満たされたいという欲求ばかりが募っていく。満たされたい。そこだけが満たされない。願わくば、杯の口から溢れ返るほどに。このからっぽの胸の奥に目掛けて、直接、注ぎ込んでほしい。
 オレがちょうど十一の歳になる頃、乾いた杯の底が少しだけ濡れる瞬間があった。
 布団の上で横になって、明日の予定を確認しているときだった。なんだか下半身がじくりと痛んで、咄嗟に股座を押さえてしまったことをよく憶えている。
 思春期真っ盛りだったオレは、なまえに会いたいという気持ちが性欲と混ざり合っていく現実にひどく困惑した。これはいけないことなんだ。よくないことなんだ。幼い理性がそう訴えても、膨れ上がる性欲はどうにもならず、オレを翻弄させるばかりだった。
 ある日、ふと、なまえにそこを触られる想像をすると、より強い性感を得られることに気がついた。彼女の輪郭を想像しながら自分に触れていると、不思議と背筋がぞくぞくとして、気持ちが良かったのだ。それに、彼女のことを考えている時間が減らずに済むのも嬉しかった。
 好きだった。なまえのことが大好きだった。こんなに好きなのに、なまえはオレの傍に居てくれない。頭の中でしか会えない。自分から会いにも来ない。こんなに好きなのに。

(こんなに好きなのに、)

 なまえはオレの言うことを信じてはくれなかった。あの日の続き、もしかしたらあったかもしれないまぼろしを暗い瞼の裏に描いて、火照る身体を鎮めようとする。枕に顔の半分を埋めながら、荒い息を寝具に染み込ませる。どくどくと脈動する自分のそれをゆっくり撫でて、いつ出てしまってもいいように、性器の先端にティッシュを多めに敷いておく。
 そうして、身体の中に溜め込んだ熱を放出するために、己を撫でて、扱いて、頭の中をなまえでいっぱいにする。
 
(なまえ、)(好きだ、)(オレはきみのことが、好きだ)(すきだ、大好きなんだ、)

 わたしも、って言ってくれ。わたしもダンデのことがすきって、こいびとになろうって言ってくれ。それか、オレがこいびとになろうって言うから、うんって言ってくれ。キスをして、抱き合って、一緒に笑ってくれ。
 それができないなら、腕を掴んで引き寄せて、好きって言うまで離さない。好きって言ったらやめてやる、言わないならやめない。
 夢想の中ですら、なまえは一度もオレに好きとは言ってくれなかった。彼女は頭の中ですら、オレの告白を受けてはくれないのだ。もどかしかった。苛立ちさえあった。何を言っても口を開こうとしないなまえの虚像が憎かった。だから、熱のにじむ暗闇の中で何度もなまえの身体に触れて、なにをしたらどんな反応をするか、何を言えばどんな答えをくれるのかを考えた。推測は結果へと辿り着く一番の近道であったから、オレはそうすることが正しいと思い込んでいたのだ。
 月日が経ち、さまざまな知見が深まる中、なまえの虚像に対するオレの行動は段々と過激になっていった。強引にキスをして震える舌を捕らえたこともあったし、服を脱がせてその肌を辱めることもあった。嫌がるなまえの中に自分を埋めたり、身に溜まるを欲を吐き出したりもした。
 自分の妄想の内容が、一般的にはよくないとされるものになりつつあると云うことも理解していた。でも、やめられなかった。だって、空想の中のなまえは、オレがされて嬉しいことをなんでもしてくれるのだ。ある一部の語句を口にすることを除けば、それこそ、どんなことでも。
 オレはなまえに好きと言われたことがなかったから、少しだけ嫌がったような、けれども満更でもないそぶりをする彼女を想像して、己を慰めた。形だけの抵抗をするなまえに無理やり自分を擦りつける感覚がたまらなく心地よかった。自分の先端から出る白濁を、なまえの中に直接、強引に注ぎ込む。なまえを支配している。掴んで、触って、手垢をつけて、オレのものに、している。自分の中の空っぽの部分が、満たされていくような感じさえした。「なまえはオレのこと、好きか?」と小さく聞くと、彼女は目を潤ませて、軽く首を縦に振る。そのときだけ、なまえはオレを肯定してくれる。オレの気持ちを認めてくれる。オレを許してくれる。杯がいっぱいになって、あふれる、夢を見る。
 オレはなまえが好きだから、大好きだから、愛しているから、そこでやめる。オレもだって言って、頭を撫でて、キスをして、自己嫌悪と罪悪感に揉まれながら後処理をする。ティッシュから漏れた精液を拭いて、ため息を吐いて、情けない気持ちを肺に入れながら眠りにつくのだ。彼女の口からは聞いたこともない言葉の色を思い描きながら、自分が寝息を立てるのを待っている。
 待ちながらも、意識が落ちることはそんなに多くなかった。こんなに好きなのに。そんな安っぽい感情が、成熟した身体を以てして許される筈がない。オレの耳にそう囁いた本能は火を噴き、身体は燃えて熱を持つ。そこにもう一度触れてしまったら、またオレは彼女を穢してしまう。分かっているのに、分かっているから、止められないのか。
 開く口元を押さえながら、己を弄る。

「なまえ、ッ、う、あ、……っ、あ、」

 なかにだすぞ、なまえ。いいのか。すきっていったらやめてやる。すきって言え。すきって、言ってくれ。なまえ。オレのことが好きだって、言ったら、こんなことやめるから、オレのことを好きだって、一回だけでもいいから言ってくれ。好きなんだ、大切にしたいのに。こんなことさせないでくれ。なまえ、出すぞ、なまえ、好きだ、大好きだ、なまえ。好きって言ってくれ、オレと恋人になってくれ、オレの、お嫁さんになってくれ。大好きなんだ。ずっとオレと一緒にいてくれ。オレから離れていかないでくれ、好きって言え、なまえ、一緒になろうって、わたしもずっと好きだったって言ってくれ、お願いだ。言わないならやめない、ずっとやめない、明日も、明後日も、きみがオレのことを好きって言うまで、オレのことを許してくれるまで、ずっとやめない。

「……なまえ、っ、う、う……っ、なまえ、」

 じくじくと痛む胸が膿を溢れさせて、肺を圧迫する。
 やめたく、ない。この瞬間だけは、なまえをずっとオレのものにできるんだ。首にかじりついて、腰を振って、中に出して、震えるなまえの身体を抱き締めながら、深く息を吐ける。
 やめたいのに、やめたくない。そうやって、また今日も罪悪感のかたまりをティッシュにくるんで捨てる。明日起きたら、ごみ箱の中に落ちている丸めた紙屑の数だけ、消えてなくなってしまいたいと思うのだろう。
 口の端から垂れそうになった唾液を唇の内側で掻きあつめ、ごくりと呑み込んだ。「なまえ、すきだ、」居ない相手の名を呼ぶことにはすっかり慣れてしまった。慣れたくなかった、こんな虚しいことしかできない舌なんかなくなってしまえばいい。噛めない舌を揉んで、瞼をきつく閉じる。なまえの中に唯一残っているオレの虚像だけは、輝かしいものであって欲しいと願う。
 こんなことをして自分を慰めているオレを見ないでくれ、きみを頭の中で犯して悦を得ているオレを、決して見ないで欲しい。もし、知られてしまったら。ぞくりとする。目を細める。やめよう。今日はもう、やめにしよう。
 オレをこんなふうにしたのは、紛れもなくきみなのに。きみは、オレから目を逸らしてばかりだ。きみが横で眠るときは、こちらを一目見てから瞼を閉じて欲しいと、そう、願う。

 これだけ年月を重ねても、きみへ対する気持ちは何一つ変わっていない。年に一度は顔を合わせるし、連絡も取り合ってはいるけれど、その度にきみはオレの胸に深い傷を残していく。その傷を癒すためにこんなことをして、到底、許される訳がない。けれど。
 受け入れてくれない苛立ちより、届かない悲しみのほうが強いのは。オレにとってきみという存在が、本当に必要であるという証明に、ならないだろうか。

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