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 それから二週間経っても、オレの心が晴れることはなかった。
 人前では完璧な笑顔を作った。それくらいは簡単だった。だって実際にポケモンバトルは面白いし、人と戦略の話をするのも好きだった。細かい手続きや書類に目を通したり、取材や写真撮影をしたりするのは嫌だったけれど、ローズ委員長の気遣いと手配もあってなんとかこなすことができた。
 そうして、疲れを癒すためにロンド・ロゼの一室に帰ってきて、ベッドに倒れ込むと、一日のことを思い返しながら、唐突に、頭の中が濁流に呑み込まれてめちゃくちゃになる。
 
(なまえに電話したい。声が聞きたい。会いたい)(少しでいいから声が聞きたい、)(文字よりも。声が、いい)

 思考の端に押し込んでいた欲求が、わっと襲い掛かってくる。
 四六時中なまえのことを考えているなんてことはない。ただ、ところどころの思考の隙間に、なまえがいることは確かだ。丸一日なまえのことなど考えない日だってある、けれども、やはりどこかで、なまえのことを思い出すのだ。ずきりと胸が痛むのは、いやな記憶に心を蝕まれている証拠なのだから、今後の自分に必要な部分だけを抽出して心を養わなければならないのに、それができない。
 今なまえに電話をしたら、どんな感じになるのだろうか。あの日の告白のことを聞かれたりはしないか。過去を蒸し返されるのが怖くて、その後の展開のことを問われるかもしれないのが恐ろしくて、手に取ってしまった端末を握りしめる。
 あれからのその後の展開なんか、何もない。そろそろ行く、と隠しきれない動揺を無理矢理誤魔化して、狼狽えている相棒の背に乗り、飛び立った。眩しくもないのに帽子を深く被り直して、相棒の首に縋り付いた。

(……なんで、)(なんで、どうして、)

 鈍感ななまえは、オレの心をめちゃくちゃに掻き回してくれたことに気づいてすらいないだろう。普通に、チャンピオン打破の報告をして去って行っただけと思っているに違いない。
 本当に、鈍感なのか。
 オレの気持ちに気づいていて、わざとあんな態度をとったんじゃないのか。なまえのことを考える。今までのこと。普段の態度。表情。その時の声色。雰囲気。

(……そんな訳がない)(けれど、)

 もし、本当に、オレの気持ちに気づいていたら。
 可能性が無いなんてことは無いんだ。意を決して、発信履歴からなまえの名前を探し出し、文字に触れる。
 彼女の中でダンデという男は、もう、恐らく。このガラルのリーグチャンピオンでしかないのだろう。
 人々の頂点に立つ者はいつだって間違えない。常に正しい判断力を持ち、皆を導く。そういうものだ。例えるならばそれは聖人や殉教者であり、そして国を統べる者であるならば、王と呼ばれる。
 オレは、ただのダンデでありたかっただけなのに。
 瞼を伏せる。黒い視界は滲まない。世界は滲まないから美しいと誰かが言った。

「もしもし」

 暗闇の中、右耳に当てた端末から、なまえの声が飛び出てきた。
 ぶわ、と全身から汗が噴き出て、目を皿のようにする。
 落ち着け、これは、なまえからすれば、当然のことなんだ。ただ、ダンデからの電話に出ただけ。それだけ。

(オレから、現チャンピオンから電話が来て、嬉しそうにもしないのか)

 ぎり、と歯を食いしばる。こんなにもオレの胸を掻き乱してくるくせに、彼女はオレに対してなんの感情も抱いてはいなかった。頻繁に連絡を取り合っても、声が聞きたいと電話を繋いでも、彼女にとっては、何でもないことなのだ。言うなれば、誰とでもすることで、特別でもなんでもない、普通のこと。
 オレが特別であることが、彼女にとっての普通であれば良いと望むのは、贅沢なことなのか。驕り昂っていると罵られても構わない。なまえがオレの肩書きに興味があるのであれば、それはそれで、願ってもいないことだ。

「も、しもし、」
「ダンデ。どうしたの、また道に迷ったの」
「いや……その、先週の……そうだ。オレが優勝したから、家で。お祝いがあっただろ。それに、来てくれなかったから……呼んだのに。何か、あったのかと思って」

 表情も、声色も。変わりにくい人だとは思っていた。常に遠くを眺めているようなあの表情は、ポケモンのマホイップを彷彿とさせた。
 彼女に対しては、渾身の挑発だって通用しない。するりと躱されて、何もされていないとでも言った顔で、こちらを見つめるのだ。そして徐に手を伸ばしてきたかと思うと、オレの心臓を優しく握りつぶして、また、何も知らない顔をする。「おばあちゃんの仕事手伝ってて、忙しかったの。ほら、ダンデ、たくさんニュースになってるから……それの、翻訳を……あの、行けなくて、ごめんなさい」申し訳なさそうな顔のなまえが目に浮かぶ。声の色も、少し、沈んでいる。
 この微かな声色の差異に気づけるのはオレだけだ。オレだけが、なまえの感情表現における微弱な変化を読み取ることができる。

「メッセージでもいいから、一言連絡が欲しかったぞ」
「うん、でも、みんな楽しんでるだろうから、迷惑かと思って」

 迷惑かどうかを気にされるよりも、きみから一言、なんでもいいから伝えて欲しかった。オレはリーグで優勝したことを、誰よりも先にきみに伝えたかった、それと同じように、きみからも真っ先に、祝いの連絡が欲しかった。
 唇を噛み締めて、身体を強ばらせる。悔しさの味がする。

「そういえば、告白、うまくいったの?」

 急に耳に届いた言葉にオレは驚いて、ビクンと身体を飛び上がらせてしまった。ベッドが軋む、この音も拾われてしまっているのだろうか。不安を胸に抱いて、そっとベッドの端に座り込んだ。震える声を隠しながら、うまく舌を転がす。「いいや、」うまくはいかなかった。きみがオレの言葉を信じてくれなかったから。きみが、勘違いをしたから。

「そう……」
「…………っ、」

 オレはその相槌の声色を聞いたとき、頭の奥が煮えたぎるように熱く燃えたのを感じた。どろ、と瞼の裏側から涙が溢れていく。あまりの熱さに目玉が溶け出したのかと錯覚する。涙を垂らしては頬に跡がつく、即座に深く俯き、床の上にぼたぼたと透明なそれを零した。
 本当に、彼女は、オレのことを何とも思っていない。胸の裏がずきずきと痛む。何を勘違いしていたんだろう。オレは、きっとなまえもオレと同じ気持ちなのだと思っていた。なまえからしたら、オレという男は、ほかの人よりも少し強いトレーナーでしかないのかもしれない。なまえは最初から、オレなどに興味はなかったのだ。彼女の家を休憩所としてよく使う、迷惑甚だしい人間。たくさんそこに通えば気を引けると思っていたオレが確かに居て、なまえはそれを、本当に、気にも留めていなかった。
 オレはもうジムチャレンジャーでもなく、ポケモントレーナーでもない。ワイルドエリアでの野宿が嫌だからと嘘を吐いて、彼女の家に通う必要も、ない。「その、次、呼んだときは、是非来てくれ」「うん、ごめんね」きみが謝ってくれたところで、オレの心は満たされない。「そろそろ、寝るよ。夜中にごめん。おやすみ、なまえ」声量は一定か。震えていないか。きちんと発声できているだろうか。これが正解なのだろうか。分からない。

「うん。またね、チャンピオン」

 ああ、と返事をして、通話終了の枠に触れる。
 胸元を掴む。顔を歪める。下を向いて、暗がりの中、滲んでいく床の上を眺めながら嗚咽を漏らす。
 きみにだけは、そう呼んで欲しくなかったのに。
 オレと親密な関係である人たちは、オレのことをダンデとして扱ってくれる。母さんも。父さんも。ホップも。ソニアも。マグノリア博士だって。
 彼女の、なまえの中で。オレは、もう。ハロンタウンのダンデではないのだ。その事実が喉の奥深くに突き刺さって、暫くして、喉は引き裂かれた。

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