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 恐ろしいまでに優しい夢を見た。
 冷たくなったわたしの手を、彼は壊れものに触れるような手付きで撫でて、並べた指先を掬い上げる。
 彼が少しでもそこに力を込めれば、わたしの指先はいとも簡単に砕かれる。きっと、元に戻らないくらい、骨も、肉も、神経も、めちゃめちゃに破壊されてしまう。
 彼はとても力の強い人だから。わたしひとりを殺すのに、視線のひとつもあれば足りてしまう、そんな人だから。
 わたしの命を奪う前に、指先の自由を奪って、わたしを心身共に拘束することだってできる。わたしは殺されないために、死なないためになんでもする。もう片側の手まで粉々にされたくない一心で、彼の言うことを聞くんだろう。
 一瞬で、それくらいの覚悟をさせられる。彼は恐ろしいほどに強い戦士だから。口でだって勝てっこない。口を出した途端、横に引き裂かれて終わりだ。引き裂かれるのは唇か首か腹か。決定権は常に彼の手の中にある。
 脳裏に巡る、何通りもの死の結末。それらから導き出されたわたしの恐怖心は、すぐに指先へ、腕へ、肩へ、そして全身へと表れた。かたかたと震える血行の悪い指先。赤みのない、青白い肌。
 まるで、血を。生気そのものを、吸い取られているみたいだった。
 彼の赤色の目に睨まれると、もう、どうしようもなくなってしまう。絶望に近い恐怖を覚えて、凍えながら、延命するためには何をすれば良いのかばかりを考えてしまう。
 その瞳には殺意のひとつも込められていない筈なのに、数秒後には自分の心臓は地に投げ出されていて、意識は海へと還されている。そんな未来を想像してしまう。生の喜びの一環である苦しみを、与えられる暇もなく。
 あり得てしまう。彼の前で、あり得ないことなんか何一つ無い。何事も、どんな些細なことでも。すべては死に直結する。例え彼を心の底から賞賛し、崇拝したとしても。お目溢しは万に一つもありえない。
 彼はそういう英霊だ。
 わたしが骨に染みる寒さに耐えかねて瞳を閉じたころ、指の背に、ふわりと落ちた熱を感じた。柔らかくて、温かい、雪融けみたいなこのぬくもりは、一体どこからやってきたのだろう。
 それが知りたくて、ゆっくりと瞼を押し上げた。
 彼が、わたしを見ている。わたしを。その赤いひとみで。
 血色の悪いわたしの指の背に、くちづけを落としながら。


「……夢、」
 夢を見た、ような、気がした。何度瞬きをしても、目の前に広がるのは無機質な机と、シワのついた白衣に包まれた自分の腕だけだった。
 仮眠、していたんだっけ。何時間くらいだろう。机の端に追いやられている時計の針に無理やり焦点を合わせてみる。
 まっすぐに伸びた時計の長針は二の数字を指していた。おそらく、一時間程度は寝ていたのだと思う。
 一時間。
 そのたった一時間の間に、なにか、胸がどきどきするような、恐ろしくなるほどに優しい夢を見た気がする。
 そっと、手のひらを握りしめてみる。枕の代わりに腕を犠牲にしていたから、若干痺れが残っていた。
 でも、その痺れの中に、自身の体温以外の熱を感じる。
「……なんだろう」
 うれしいような、悲しいような。寂しい、と言ったほうが正しいのかもしれない。何かを名残惜しいと思う気持ちが、胸のどこかで泳いでいた。
 夢の内容は、詳しく覚えていないけれど。右手の指の背が、じんわりと温かいのは何故だろう。


――どおん、と、遠くのほうで爆発音がした。
 さっきみたいな、ような気がする、とか、そういう曖昧なものではなく、確かに。先ほどまで見ていた夢の続きでもない、現実で、それは起こっていた。
 何枚もの分厚い壁を越えて、わたしの鼓膜を震わせる、爆ぜるような音。こもった悲鳴と、怒号と、耳を劈く低い雄叫び。地鳴りを引き連れ、大気を揺らす。雲の遥か上、蒼天へと突き立てられた獣の咆哮。
 それは、わたしの推測通りであれば、彼――バーサーカー、クー・フーリン・オルタさんの、帰還を知らせるものだった。
 目覚ましのために淹れたコーヒーを半分以上残して急いで部屋を出る。中央管理室まで、走れば五分とかからない。
 呼ばれているみたいだった。走っている間に何度も壁を反響して聞こえてくる咆哮、そのなかにわたしを呼ぶ言葉なんかひとつもない筈なのに、どこにいる、早く来いと、呼ばれている気がしてならなかった。
 気のせいであってほしかった。そんなわけないと自分に何度も言い聞かせた。なのに、音の方向へ引き寄せられる。居ても立っても居られなくなる。わたしは彼のマスターでもなんでもないのに。呼ばれている、確証なんてどこにもないのに。
 とにかく早く、一分でも一秒でも早く、彼の元に駆けつけなければいけない。それだけは確かだった。焦燥が足を縺れさせて、わたしを床に落としかける。
「わっ、たっ、」
 もし、中央管理室での爆音が、本当にクー・フーリンさんによるものだったら。
「……ん¨んッ!」
 顔を上げて、無理やり脚を前に出す。転ばない、わたしは転ばない!
 不規則な足音に乗せて、重心の均衡を必死に回復しようとする。どうにかバランスを立て直し、また駆け出した。
 間に合って! 何に。解らない。でも! 見えない糸がわたしの心を荒々しく手繰り寄せる。早く行かなくちゃ。一体誰のために。解らない、解らなくても。誰かのために、わたしは駆け付けないといけないんだ。

――あー、びっくりした……。
 わたしの決意の背後でロビンさんのような声がしたけれど、振り向くことはなかった。誰もいない廊下を走っていたのだから、ロビンさんの声がするわけない。目立つ緑色のマントも見当たらなかったし、きっと幻聴か何かだ。
 もし、皐月の王で姿を消していただけならごめんなさい。心の中で、オレンジ色の前髪に隠れた翠にこっそり謝って、さっきよりもずっと大きく、足を前に出した。


 レイシフトルームに急いで身を滑らせると、金属が焼け焦げたような異臭が鼻をくすぐった。扉の近くにいたダ・ヴィンチちゃんが、困り果てたようすで頭を掻いている。
 ダ・ヴィンチちゃんの目線の先には、床から伸びた鎖に拘束されている、血塗れのクー・フーリンさんがいた。
 下半身を覆う甲冑から突き出ている無数の棘は、そのところどころが欠け、折れ曲がっていた。尾には無数の亀裂が入り、崩壊寸前の音を鳴らしている。いつも背にはためかせている外套は裂け、千切れて、傷だらけになった背中を晒してしまっていた。彼の腹が赤いのは、あの複雑な紋様の見間違いなんかじゃない。真っ赤な鮮血が零れ落ち、床の上を濡らしている。
 傷だらけの彼を縛り付けている鎖は、クー・フーリンさんの自由になろうという意志を頑なに拒んでいる。暴れれば暴れるほど、その肉体に鎖が食い込んでいく。金の鎖が血を受けて赤黒に染まる。鈍い、骨の軋む音が嫌に耳に残った。
 あまりの情景に、喉から声が押し出される。「……あの!」ダ・ヴィンチちゃんの綺麗な青い瞳と目が合った。
「おや、なまえちゃん。今日はオフの日じゃ……」
「すごく大きな音がして……あの、なんで、クー・フーリンさん、」
「あれねぇ……」ダ・ヴィンチちゃんは体をこちらに向けながら、ばつが悪そうに目線を逸らした。
 ぎりぎりぎり、と鎖同士が激しく擦れ合う音がする。クー・フーリンさんが、自分に巻き付いた鎖を引き千切らんと、渾身の力で両腕を開こうとしているからだ。ふうふうと息を荒げながら、時折大きく吼える。それでも鎖は外れない。彼が身動ぐたびに全身から血が噴き出して、鎖の間を赤がすり抜けて行く。
「クー・フーリン・オルタがね……帰還したのはいいものの、霊体化寸前なんだ。こっちの魔力供給にも応じなくてね」
「まさか、もう魔力供給に回せるだけの、カルデアの電力が……」
「いいや? 電力に関してはさほど問題ないんだけど。彼が、補給自体を拒絶する」
 呆れたよぉ。と、大した問題でもなさそうな声で、ダ・ヴィンチちゃんは眉をしかめた。
「彼の……“戦闘続行”を望む強い意志のせいだろうか。肉体の維持魔力すら、もうあんまり残ってないだろうに」
「なら、どうすれば……」
「多少強引だけど、ああやって動きを止めているうちに、強制的に魔力を流し込むしか方法はない」
 ダ・ヴィンチちゃんがゆるく杖を振るうと、杖の先に取り付けられている星型多面体が鈍く光った。そこに魔力を貯めて、クー・フーリンさんに注ぐつもりなのだと言う。
「困っちゃうなー。なーんかねぇ、彼、いっつもここの魔力は不味い不味いって……」
 ダ・ヴィンチちゃんが苦労話の頭を語り始めた瞬間、ガギン、と、嫌な音がした。
 金属が破壊されたような音だった。まるで鎖が引き千切られたかのような、何が自由を手にしたかのような。
 そんな、音。
「あ、ヤバイ。ちょっと! もっと鎖の量増やして!」
「いや……なんというか! 僕もここの魔力はあんまり……!」
「同調してどうするッ!?」
 クー・フーリンさんを床に縛り付けていたのは、鎖を操る長い翠髪のサーヴァント、エルキドゥさんだった。一瞬、クー・フーリンさんの拘束が解けたように見えたけど、天井から降り注ぐ新たな鎖によって、再度自由を奪われてしまう。首に、肩に、腕に、胴に、脚に。数多の鎖が絡みつく。獣を地に縛り付け、暴走を無効化するように。網に捕らわれた獣だって、麻酔銃を打ち込まれて眠らせられるのに、彼にはそれすら許されていない。
 クー・フーリン・オルタはクラススキルである『神性』を持っているから、『天の鎖』を以ってすれば、ある程度行動を制限することができる。ダ・ヴィンチちゃんがさらりと説明してくれたけれど、今のクー・フーリンさんは、言われた通りならば霊体化寸前の、大変危険な状態なのだ。そんな満身創痍の身体なのに、神を律する天の鎖を一瞬だろうと引き千切ってしまえるほどの力が残っているなんて。彼の持つルーン魔術の爆発力に、身が凍えた。
「マスターさんは? 令呪を以ってしても、クー・フーリンさんを止められないのですか?」
「なにやら令呪は先ほどのレイシフト先で使い切ったそうだ。リツカは今部屋で休養中だから、なんとしても今のうちにコトを済ませておきたいんだけど……」
 素直に言うことを聞かない相手に、そう長い時間を費やす暇もない。
 そこで、はっと息を飲んだ。ひやひやとした表情を浮かべるダ・ヴィンチちゃんは、本来ならばわたしと呑気に喋っている場合ではないはずなのに、それをおくびにも出さず丁寧に対応してくれている。貴重な時間を無駄にさせてしまった。今更そんなことに気がついて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「すみません、わたしに何かできることは……」
「ん? いいよぉ、そのままで! 君が来てから、彼の様子が変わってね。少し大人しいんだ。無作為な攻撃も無いし」
 その言葉に、エッ、と声が跳ねた。
「準備が終わり次第ブチ込むぞ〜! 魔力を!」
「なるべく早くしてほしい!」
「腐っても天の鎖だろう? もう少しの辛抱だ、我慢したまえ!」
 心臓がばくばくと音を立てて、わたしの胸を弄んでいる。
 わたしが来てから、クー・フーリンさんは大人しくなった。偶然なんだろうか。それとも、故意なのか。そればかりが気になってしまって、ダ・ヴィンチちゃんとエルキドゥさんの会話は、わたしにはほとんど聞こえていなかった。
 わたしの思い過ごしなら良い、でも、もし、彼が。一般人であるわたしの身を案じて、あの激しい痛みの中でも暴れることを控えてくれたというならば、それは、
「……おい」
 変な感じだけど、とても。嬉しい、とは、恐らく違うのだろうけど。
 胸が、苦しくなる。
「来い。……早く、来い!」
 ひび割れた咆哮が、鼓膜の存在を忘れていたわたしの耳を劈いた。意識が赤と黒の塊に向けられる。
 全身に鎖を巻き付けられ、身動き一つ取れないはずのクー・フーリンさんが、わたしに向かって腕を伸ばそうとする。瞼なんてどこかに置いてきてしまったのではないかというほど、大きく目を剥いて、狂気に満ちた形相で、わたしを、見る。
「来い!!」
 神経を直接引っ掻かれるような、嫌な金属音が響く。鎖同士の小さな隙間を縫って現れた、禍々しくそそり立つ魔獣の爪。紅海の魔獣・クリードを彷彿とさせる、明確な殺意の塊が周囲に向かって伸ばされている。床に飛んだ血飛沫が、斑点模様を描いた。
 その迫力に怖気付いたわたしの前に、胸の前で腕を交差したダ・ヴィンチちゃんが軽い足取りで割り込んでくる。
「ダメー! なまえちゃんに近寄るの禁止ー! 今更何しようっての!」
「……魔力供給を、受け入れる。但し、そいつを介してだ。それなら、いいだろう」
 想定外の返答に、その場にいたクー・フーリンさん以外の全員の動きが停止した。わたしと、ダ・ヴィンチちゃんと、エルキドゥさんの三人しかいないけれど。
 魔力供給。聞き間違いでなければ、クー・フーリンさんは、わたしとの魔力供給を要求している。
「はぁ〜? ダメに決まっている……と言いたいところだが、なまえちゃんがOKならOKとしよう。君たち前から仲良さそうだったし大丈夫でしょ」
「なんですかそれ!?」
「問題解決が目前に迫っている! 乗るしかない! このビッグウェーブに! あと電力の節約にもなるし!」
「取って付けたような理由!」
 魔力供給って、本来はマスターである魔術師と、そのサーヴァントがするものなんじゃないですか!? そう反論してはみたものの、『魔力の補充にはさまざまなルートがあるから、ひとつの手段に固執するのは良くない』とダ・ヴィンチちゃんにすっぱり切り捨てられてしまった。期待に煌めく瞳が刺さる。
「でもわたし一般人ですよ! 魔力なんかひとっかけらも!」
「君は当カルデアの職員だ。魔力も無い、魔術回路の一本も無い本当の一般人が、こんなところに入り込めるわけがないだろう? 君は少なからず、魔術師の一人としても採用されているんだよ。……マスター適性は、どうやら無かったようだけど」
 最後の最後で、痛いところを突いてくる。
 ダ・ヴィンチちゃんの言い分は理解できるけれど、生まれてこのかた魔術の特訓だって一度もやったことはないし、わたしの家系に魔術師は誰一人としていないはずだ。
 どこまで行っても、わたしは一般人と何一つ変わらない。なのに、突然サーヴァントへの魔力供給をしろだなんて、無理にもほどがある。
「でも……」
「おい」
 口ごもり、俯くわたしの背中に、クー・フーリンさんの怒りを含んだような声が唐突にぶつけられた。大量の鎖の擦れる音に混じって、バシリと彼の武装の尾が床に叩きつけられる音がした。
 相当お怒りなのか、振り向く隙すら与えられず、右腕を掴まれる。
「行くぞ」
 冷厳で、無慈悲な声色だった。凄まじい腕力に引っ張られて、悲鳴なんか出す余裕もなかった。
 手を引かれながら、首だけを無理やり捻ると、ダ・ヴィンチちゃんが満面の笑みでわたしに手を振ってくれていて、エルキドゥさんに至っては、少しばかりむくれながら服の裾についた塵を払っていた。
 わたしが後方に気を回していることに気づいたクー・フーリンさんに、グンと腕を引かれる。肘の関節が抜けるかと思った。
 怒りを乗せた尾が、勢いよくレイシフトルームの床に叩きつけられた。


 散々廊下を引きずり回されたあと、わたしは見知らぬ一室に乱暴に放り込まれた。遠心力に勝つこともできず、下手くそなステップを踏みつつベッドに膝をぶつけ、そのままシーツの海に落ちる。
「うわ、っ!」
 そんなに古い備品でも無いはずなのに、ベッドのばねはぎしりと大きな音を立てて軋んだ。
 シーツはところどころ裂けていて、ヘッドボードには何かで引っかいたような傷跡がいくつもあった。壁にも、そして床にも、爪痕のような傷が何本も深く刻み込まれている。
 ここがクー・フーリンさんの部屋であることはすぐに理解できた。部屋の各所に付けられた傷は、恐らくクー・フーリンさんの禍々しい武装が引っかかってついてしまったもの。
 その部屋には、無駄なものなんか何一つなかった。というよりも、生活感のかけらもない無機質な空間、と云ったほうが正しいかもしれない。
 猛獣が暴れたような形跡以外は、至って普通の、備品以外は何も無い質素な部屋だ。
「う……」
 上体を起こすだけでも、ベッドが大袈裟に悲鳴を上げる。クー・フーリンさんの体重に、ベッドのスプリングが耐えられなかったのだろうか。
「あの、あの! わたし、パスの、繋ぎ方? とかも、よくわからな、く、て」
 後ろを振り向くと、視界が途端に暗くなった。
 クー・フーリンさんの逞ましい肉体が目の前に広がっている。生傷と鮮血に塗れた、痛々しい姿。どこもかしこも赤くて、血生臭さが鼻にツンと来た。
 そうっと、錆び付いた首を動かして顔をあげてみる。見るからに機嫌の悪そうな表情をしたクー・フーリンさんが、わたしを冷たい瞳で見下ろしていた。
「あの、」
「魔力供給」
 彼はそれだけ呟いて、わたしの肩を殴りつけるように押した。捻っていた腰にさらに捻りが加わる。「痛い!」ギイ、とベッドが一段と激しく悲鳴を上げた。
 クー・フーリンさんはわたしに馬乗りになって、脚の間に身体をねじ込んでくる。武装から伸びる異形の爪先がわたしの衣服に突き立てられて、無駄な行動を制される。抵抗すれば、たちまちそれらは衣服を貫いてわたしの脚や腕を引き裂くだろう。彼にそういった故意が一ミリもなくとも、甲冑のほうは解らない。
 でも、わたしが今動けないのは、危険を察知したからじゃない。ただ、怖くて、目の前の彼が何よりも恐ろしくて、指先一つ自分の意思で動かせないだけだ。
「……何をしている。早く魔力を流せ」
「だ、だから、わからないんです、できないって言ってるじゃないですか……!」
 脚、今少しでも動かしたら、膝の裏辺りに当たっている、その鋭い先端が、わたしの皮膚を貫いてくる。身体を丸めようとしても、彼の太い腕が邪魔してうまく脚を寄せられない。
 肌を切り裂かれるのが恐ろしくて、気が気じゃなかった。痛いのは嫌だ。辛くて苦しいのは嫌だ。
 クー・フーリンさんは、怯えて震えているわたしを再度睨みつけると、すぐさま呆れたように唇の一文字を解いた。ふう、と溜息の一つもつけて。
「……まさか本当に、経路パスの通し方も知らんとはな」
「っ……、すみませんね、一流の魔術師とかじゃ、なくて……!」
「二流だろうが三流だろうが関係ない。魔術師の身体を通した魔力なら何だっていい。ここの電力以外であればな」
「そんなの、ただの食わず嫌いじゃないですか! それに、わたしは魔術師でもなんでもないんです!」
 散々な言われように、自分の今の立場も忘れてついカッとなってしまった。「電力で解決するなら、それでいいじゃないですか!」文句が喉の奥から湧き出てくる。しかし、わたしの言い分は正論であると確信があったからこそ口から出た。後先など一時たりとも考えずに。
 咄嗟に出たわたしの言葉に対して、クー・フーリンさんが瞬時に目の色を変えた。ゆっくりと前傾してくる彼に、ぐんぐんと距離を詰められる。銀色の耳飾りが揺れて、胸元に垂らしている後ろ髪がわたしの胸のあたりに落ちた。びりびりと音を立てて、魔装の爪に白衣の裾を喰われる。ぼたぼたと彼の胸から垂れる大量の血液に、血の気が引いた。もう、傷口を塞ぐだけの魔力も残っていないということなのか。
「電力から変換された魔力は、従来の聖杯から供給される魔力よりも著しく質が悪い。他のサーヴァントは知らんが、少なくとも俺はそう感じる。ここの魔力は不味い。とにかく不味い。寒気がするほどにな。俺のようなサーヴァントは莫大な魔力を消費する。毎回毎回、大量の泥水を啜りたくはない」
「でも、それでも、魔力無しに、肉体の維持はできないじゃないですか」
「だから、テメエから補給する。俺は今すぐ、性急に。魔力が欲しい」
 赤色の瞳が煌々と輝いた。べろりと舌舐めずりをして、クー・フーリンさんは目をほそめる。たったそれだけの表情なのに、不思議と顔面に熱を感じて、咄嗟に両頬を押さえたくなった。
「でも! わたしの魔力が美味しい? って保証も、どこにもないし、」
「今から確かめる」
 にやついた顔のクー・フーリンさんで、視界がいっぱいになる。
 ぎい、とベッドが軋む。
 整った顔立ちが迫ってきて、同時に足元にひやりとしたものが当たる。意識は足回りへ。足首に痛みが走った。視線が逸れる。
「余所見をするな」集中しろ。何処に、というわたしの質問は潰された。
 地を這うような、冷徹な声だった。意識を絡め取られる。目線も、紅い瞳に奪い去られる。そのまま髪を乱雑に掴まれて、反射的に首を反らした。
 瞬間、ふわりと唇に柔らかいものが当てられる。
「ん、んん……!!」
 粘膜接触。体液交換。魔力供給。魂食い。
 サーヴァントに魔力を与え、存在の維持・強化をするための方法がいくつも脳裏をよぎる。この行為はその中のうちの一つというだけだ。人間同士が行う愛情表現のキスと、意味を混同してはいけない。あくまで手段の一つ。
 あ、あ、でも、だからって。
 舌まで入ってくるなんて、予想外だった。
「ぅ、ぁあ、ッ……!?」
「……ふ…………、っ」
 固く閉じていた唇を強引に割って、肉厚な舌が滑り込んでくる。ぬるりとした感覚が唇の裏側を撫でた。肩が跳ねる。視界の外で、彼の掌がわたしの腕をゆっくりと這っていた。
 熱い舌先が、怖気付いたわたしの舌をゆっくりと舐め上げる。初めての感覚に身体が強張った。わたしの中で舌というものは、自分の意思で対象物を舐めて味わうものだった。だから、こうやって他の誰かの意思で、舐められたり、味わったりとされるようなことは、「ん、っ……ん……!」未知の体験だった。
「う¨、うっ……! うう、っ……!」
 呼吸が、できない。くるしい。厚い胸板に、こちらの胸を圧迫されている。
 肩を押し退けようとしても、恐怖に身体を掴まれて動けない。動けたところで、彼の肩周りにびっしりと生えた赤い棘が、彼に触れることを許さない。強靱な肉体に上から押さえつけられて、呼吸も制限され、身動き一つとることもできない。抵抗すると云った選択肢そのものを捩じ伏せられてしまう。
 くちゅ、くちゅ、と粘ついた音が鼓膜に響く。荒げられたお互いの息が、お互いの頬を何度も撫でる。全身に熱が溜まっていく。おかしな気持ちになる。こんなの、こんなのはただの、魔力供給のためだけの行為なのに。絶対、違うのに。
 クー・フーリンさんは、乱暴にわたしの口腔を荒らして、時折嘲るようにフンと鼻を鳴らす。そのときだけ、優しく舌先を突かれるのが、やり返してみろと煽られているみたいで、なんだか、すこし、ムッとした。
 弄ばれている。唇を押し付けられて、舌を捻じ込まれて、有るかもわからないわたしの魔力をこそぎ取っていく。身体の芯が変に熱く感じるのは、きっとそれのせいなのだろう。
 唸っても、首を捻って逃げようとしても、追いつかれてしまう。喉で鳴こうが喚こうが無駄で、上げようとした叫び声すら奪われてしまう。
 捕食、みたいで。「ぅう、う」逃げても追われて、捕まって、何もかもを毟り取られる。ああ、殺される。このあと泣いて命乞いをする時間だって与えられないかもしれない、そんな恐怖で頭がいっぱいになった。あり得ない話ではないのだ。彼を目の前にすると、本当に。
 上唇を甘噛みされたあと、徐ろにずるりと舌を引き抜かれた。赤い舌がクー・フーリンさんの口の中に戻っていく。やっと、終わった。
「はぁっ、は……っ、……は、ッ……、もう、いいですか、っ?」
 必死に呼吸を整える。走ってもいないのに全力疾走した直後みたいに肩で息をして、情けなく全身の力を抜く。半開きの口で、一生懸命肺に酸素を取り込んだ。
 クー・フーリンさんはというと、生気の抜けたような虚ろな瞳でわたしの首の辺りを見つめている。唇は固く閉ざされていて、何も語ろうとしない。いつまで経っても返事がないことになんだか腹が立って、眉間に皺を寄せる。
「ちょっと、何か言ってくださいよ」
「悪くない」
「は、」
「相性か。質が良い、とは違う。問題ない、が正しい」
 彼の言うことは漠然としていて、よくわからなかったけれど。かなり失礼なことを言われている、ということだけは直感で解った。「問題ないって」「ああ。問題ない」話が噛み合っていない。言い返してやろうと躍起になって頭を上げると、唐突に唇を舐め上げられた。
「なかなか、良い」
 そう言って、ニタリと笑う。
 息が詰まる。褒められているのか、単純な評価なのか。親指の腹で頬を撫でられる。嫌な予感がして、首を横に振った。
「差し支えは無さそうだ」
「……そんな、これからもやるみたいな言い方」
「そのつもりだが」
 嫌な予感は的中した。魔力供給がこの一回で終わるとは流石に思っていなかったけど、こんなことを毎回しないといけないなんて、羞恥と憂鬱のせめぎあいで胸が苦しくなる。
 見れば、お腹の傷も、そこかしこに付けられていた切傷も、いくつか消えて無くなっている。というよりも、はじめから傷なんてなかったかのように、綺麗に皮膚が再生されていた。古傷のような痕は、治療の途中だろうか。
 元から彼は、己のルーン魔術をすべて自身の肉体強化に使っているそうだから、そのぶんの魔力を回せば瞬く間に傷が治るなんて当たり前のことなのだけれど。改めて間近で見ると、吃驚する。そして、それはわたしの魔力を使って行われたことなのだと思うと、なんだか途端に気恥ずかしくなった。
「……お力になれるのなら、精一杯頑張ります、」
「ほう、急にしおらしくなったな」
 これは、人類の未来にも関わることだから。魔力の供給がうまくいかなくて、マスターである藤丸さんが英霊の力を百パーセント引き出せなかったから戦いに負けた、なんて、あってはならないことだから。
 それに、ほんの少しだけど、藤丸さんのお役に立てるかもしれない。藤丸さんにかかっている負担を、少しだけだけど、減らせるかもしれない。
「――だが、足りん。質は問題ないが、量が圧倒的に少ない、少なすぎる」
 彼は音を立てて首の骨を鳴らす。肩の向こうで、刺々しい尾の先が楽しそうに八の字を描いて揺れていた。ヒビや傷は、もう見当たらない。
「それは、」
「寄越せ、もっと。注げ、満たせ。お前の魔力をすべて、俺に捧げろ」
 頤を掬い上げられる。開かれた唇の奥に覗く、肉厚で、ざらりとした真っ赤な舌。ねじ込まれた瞬間に受けるあの感触を、わたしは知っている。だからこんなにも頬が熱い。
 彼がわたしを見ている。わたしを。その赤いひとみで。
 血色の良くなったわたしの頬に、そして唇に、柔らかな熱を落とし込んだ。

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