彼女が生まれたその時のことを、同じ村に住んでいた同胞達は奇跡だと喜び、『メルネス様』だとそう崇め、まだ何も知らない赤子にどうか我々を救ってくださいと願っていた。
それがワルターの暮らしていた村でのいつもの、光景だった。


『メルネス様』
『メルネス様』
『どうか我らをお救いください』
『どうかこの積年の苦しみから、我らを解放してください』
『メルネス様』

『メルネス様』


自分達よりもよっぽど幼い少女に膝を着いて頭を垂れて祈るように手を組んで、幾人もの大人達が縋りつく。
滑稽な光景だとはワルターも思わなかったが、異様な光景だとは認識していた。
姉が悲しそうに目を伏せて、それからとびっきりの笑顔で少女の名を呼ぶことも、同胞達が少女を『メルネス様』と言う呼称以外で呼ぶことを好ましく思っていないことも、全てがきっとおかしいと、そう言うことだったろう。
メルネスの親衛隊長として支えられるような男になれと何度も言い聞かされて育ったワルターは、村長の決めたことに逆らうと言う発想がまず浮かばなかったし、けれど確かにおかしいとは、思っていた筈なのだ。
村の中では誰も、彼女の名前を呼ばない。
唯一呼ぶのは彼女の姉だけで、皆が彼女には救いしか求めていなかった。
甘えたい盛りの幼い少女に、自らの苦しみから逃れようと、縋ることしか、しなかった。



『こっちだよ、シャーリィ!』
『おいで、シャーリィ』


だから、本当は、どこかできっと分かっていたのかもしれなかった。
幼い少女を『メルネス様』と呼ぶのではなく、その母から父から名付けられた彼女自身の名前を呼ぶ人間が増えたことに、一体誰が救われたのか、分からない程愚かな人間ではなかったから、余計に。
陸の民だと聞いた。
いや、聞かずともその姿を見ればすぐに分かった。
騙している、あれは罠だ、きっとこの里を襲うつもりなんだ、情報を流すに決まっている、迷子なんて、そんなあの穢らわしい陸の民共の常套句をなぜ信じた!
周りの大人達の言葉に重ねて、ワルターもまた思い付くだけ言葉をぶつけた。
間違っても『メルネス様』の側に居させていい筈がないと認めることは出来なかった。

期待されていたから、と言うのもある。
メルネス親衛隊長としての任を背負っていたから、メルネスである彼女を守らなければとそう思っていたから、陸の民を近付けてはいけないと、確かにそう思っていたから。



『ワルターさん』


己の任務は、メルネスを、彼女を護ることだ。
幼い頃からずっと言い聞かされていて、だからこそ、今になって目を瞑り続けてきた事実に、痛みを覚える。
それは矛盾だ。
考えなくてもいいことだ。
彼女の役目だ。
言い聞かせればいい。見なければいい。
共に過ごしたから、今更こんな事実が痛みを伴うのならば、その思い出だって記憶だってわざと、忘れてしまえばいい。

それだけの、話じゃなかったのか。



(『大沈下』を引き起こせば、陸さえなくなれば、ようやく忌々しい陸の民が死に絶え、平穏を手にすることが出来る。)

(―――『メルネス』の命と、引き換えに。)


(彼女に全てを押し付けて、手に入れる…望んでいた、安寧。)



知っていた筈の事実を思う度に、どうしてか手が震えた。
みっともない、あり得ないぐらいの、醜態。
自分は、メルネス親衛隊長だ。
それは誇りだ。
己の役目だ。
そうやって何度も言い聞かせている言葉を、どうして自分自身が、信じることが出来ないのだろう。



『ワルター』



何を犠牲に求めていた世界を得るのか。
結論など出ていた筈の、問いだと言うのに。
どうして今更、こんなにも迷う必要があるのだろうか。










「間もなく、同胞達が全て光跡翼へと集まります。我々の望む世界が、ようやく訪れることになる…」



全てを水の底へと沈めることの出来る装置を前にして感慨深げにそう言ったマウリッツの言葉に、そこでようやくハッと我に返ったワルターの目に映ったのは水の民達を眺めながらにこりと笑みを浮かべている、メルネスの姿だった。
水の民達はメルネスにとっては、滄我にとっては我が子とも言える存在だから、この先に用意されていると信じて疑わない平穏を前に喜んでいる同胞達を見て、心穏やかにああして、微笑むことが出来ているのだろう。
四千年以上もの積み重なった怒り、憎しみ、恨みはそう簡単に消えたりなどしないと言うのに、表面上だけはああして慈悲深く笑みを浮かべることが出来ていると言うのは、どこにその狂気を隠しているのだろうと、ワルターにとってはいっそ不気味ですらもあった(こんな風に考えてしまう自分の方が、異端だとは分かっているのだけれど)。

姉に名を呼ばれ、あの男に名を呼ばれ。
自分自身の名を呼んでくれる相手に、縋るのでも押し付けるでもなく共に過ごしてくれる相手に対して浮かべていた、あの笑顔が離れてくれない。


このままでは碌に使命など果たせないことをワルターは自覚しつつあったが、それでも今目の前に見える水の民達と同じように、喜ぶ気には全くなれそうになかった。
自分は護りたかったのは、本当に『彼女』だっただろうか。



「結論は出たか、ワルター。随分と顔色は優れていないが、決断の時は迫っているぞ?」



口元に笑みを浮かべたまま、立ち尽くしているワルターに対してマウリッツには聞こえないように、メルネスがそう口にした。
眉間に皺を寄せてワルターが振り向くも、大して気にもせずメルネスは装置を背に出入り口へと目を向ける。
「そろそろだな」と話したのはメルネスでもなければマウリッツでもなく、集まっていた水の民の内の誰かの言葉だったが、その言葉を耳にした瞬間、ワルターの表情は更に強張ってしまっていた。

気付いていないわけではないからこそ、メルネスは笑みを絶やさない。

そんなメルネスの姿を横目に、結論が出ていないなど予想出来ていたことだろうに、とワルターはあとほんの少しのところで口にし掛けたが、どうにか堪えて呑み込むしかなかった。
本来なら考える余地のない選択に、結論を出さなければならない。
時間はもうないのだ。

限られているのなら、早く、決めてしまわなければならないのに。



「言った筈だ、ワルター。我はどちらの道を選ぼうと構わぬ。業は共に背負おう、と」
「…………」
「気に病むことはない。時間もまだ、多少はあるだろう。それなりに、道は在る」
「? それは一体…」



妙な言い回しをしたメルネスの言葉に、これには怪訝そうにワルターも顔を顰めて聞いたのだが、続く言葉に愕然と目を見開くことしか出来なかった。




「光跡翼に侵入した者が居る。陸の民が1、2、3…今更一体誰か、とは聞かずとも分かることだろう?のう、メルネス親衛隊長」



世界を静かで美しい、大いなる海で今一度覆い尽くす為の犠牲を、贄を。
分かりやすい天秤だ。


何を捧げるのか。
何を切り捨てるのか。

その命を、どうするのか。




「さあ選ぶがよい、ワルター」




粛清の時はほら、もうそこまで訪れているのだから。






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