一旦街に戻っていたウィルとモーゼスが再び静の大地を訪れ、全員揃って食事を取った時には既に夜の帳も降りたそんな頃だった。
相変わらずセネルは食事自体もあまり取ろうとしなかったが(おそらく精神的な部分もあるだろうが)全く食べないと言うことはフェニモールだけでなくクロエやウィル達も許さず、半分は何とか食べたものの、それにしても前衛で戦う身としてはかなり少ない量で、回復していない体に何人かの眉間に皺が寄ってしまう。
口では本人も大丈夫だの平気だの言っていたが、誰の目にも全く大丈夫のようには見えず、かと言って状況が状況なだけに、落ち込んでいるセネルに対して何と声を掛けていいのか分からないと言うのが、正直な心境だった。

いつだって、水の民達の為に必死に動いていた、セネルだったから。
救世主と言う言い方は好きじゃないとクロエは思ったが、橋渡し役だと言うのならセネル以上の適任者は居ないと思っていた。
その気持ちも伝わる筈だ。
伝わったって、おかしくない筈だ。


だからこそ、クロエは現状に戸惑いが隠せなかった。
誰よりも水の民のことを考えていたセネルだけが、聖爪術を受け取ることが出来なかったこと。
クロエの想いだって滄我には届いたのだ。
セネルの想いが、届かない筈がない。
静の滄我が、そういうことをする存在のようには、クロエには思えなかった。
…だとするなら、ば。






「すまない、フェニモール。クーリッジは…」



深夜、と言うにはまだそこまで時間も経っていないだろうが、体を休めるにはそろそろもう寝た方がいいようなそんな時間に、クロエは姿の見えないセネルの居場所を知らないかと、フェニモールに対してこう口を開いていた。
そっと姿を消したりなどは通用しないよう、一人だけ隔離するように天幕まで付けたその寝床にずっと付き添っていたのはフェニモールで、今もまた、空っぽになったベッドの側で溜め息を吐いた辺り、どうにもクロエが訪れる前にセネルが何かしら無茶な注文をしたらしい。
クロエを視界に入れて、疲れたようにフェニモールはがっくりと肩を落とした。
わざとらしく少々大袈裟にそんなことをしたのは、何だかんだと言って結局は頼み事を全て聞いてしまっていることに、フェニモール自身が呆れてしまったのだろう。
困ったように笑みを浮かべたフェニモールの手には、作りかけの氷嚢があった。
夜になると熱がぶり返していることは、全員が知っている事実であり、これには思わずクロエも眉を顰めてしまう。あんまり酷い状態ならばフェニモールも見逃さないと知っているから、そんなに発熱しているわけではないと、思いはするが。



「ああ、ちょうど良かった、クロエさん。お兄さんなら少しの間一人で考えたいことがあると言って、海岸の方へ行かれたんです」
「そうなのか。ありがとう、フェニモール。だがちょうど良かったとは?」
「お兄さんまだちょっと体の調子が整っていないようなので、20分経ったら戻ってくることを約束に許可したんですが…そろそろ30分くらいになるんですよね。出て行ってから」



にこりとも笑わず、無表情のままと言うのが更に恐ろしく感じて仕方なかったのだが、淡々とした口調でフェニモールはそう言った。
思わずクロエもぞっと背筋が粟立った程なのだが、指摘するような度胸とここで死にたくはなかったので、とりあえず黙って先を促すことしか出来そうになかった。



「体を冷やすといけないので、そろそろ連れ戻して来てくれませんか?私が行くとぶん殴っちゃいそうなんで、よろしくお願いします」



最後の最後でにこっと笑って言ったフェニモールの言葉に、クロエは「これはもう既に我慢の限界まで来ているんだな、フェニモール…」と思いながらも即座に頷き、海岸へと向かうべく踵を返した。余談だが血の気はがっつり引いていた。
自分も一旦腹を立ててしまうと質の悪いキレ方をするとは思っていたが、どうにもフェニモールとは種類が違うらしく、あんな風に怒ることは…きっと出来ないだろうなと思いつつ、海岸へと急ぐ。
多少話し込むつもりで訪れたと言うのに、これは早く連れ戻さないと何をされるか分かったものではないとクロエは思ったが、多分無理だろうなと、そんな予感もしていた。
漣を耳にしつつ、足を向けるその先に、銀の髪が暗がりの中でもきちんと見える。
消え入りそうな背中だと思ったら、余計に中途半端な所で終わりたくはないと思った。


話をしたい。
それだけを思ってクロエはその姿を探していたのだから、これは後で揃ってフェニモールに怒られるかと諦め、意を決して、側にまで寄った。

…多分これから言うことは、生半可な覚悟で口にすれば、お互いに傷つく恐れのある、それだ。






「こんな所に居たんだな、クーリッジ。フェニモールが心配していたぞ。まだ、充分に休むことが出来ていないのだろう?」



静かに波打つ海を見つめているようで、実際は俯いて何も見ることが出来ていないだろうとは分かってはいるものの、浜辺に座り込んでいるセネルに、クロエはこう声を掛けた。
当然気配など全く隠してもいなかったからゆっくりと振り返ったセネルは誰が声を掛けたのか、その言葉を聞く前から薄々察していて、「クロエか…」と呟いた名前は正解だが、その声色はあんまりにも覇気がない。
落ち込んでいると分かるその顔色の悪さと雰囲気に、クロエはほんのすぐ隣まで歩み寄って、止まった。
見上げてくるその蒼色の瞳が、せめて虚ろでなければもう少し選択肢があったようにも思えるが、そういうわけにもいかないらしい。



「…何を考え込んでいたんだ?なんて聞くには分かりきったことだから、私は聞かない。シャーリィのこと、そして聖爪術のことを考えていたんだろう?クーリッジ」
「……いくら俺でも、それ以外のことを考えていたら、よっぽどバカなんだろうな」
「バカにも種類があるから一慨には言えないけれどな。20分で戻ってくると約束したのに、30分経っても戻って来ないとフェニモールが怒っていたぞ」
「それは…」
「まあ、その点に関しては私も怒られるとしよう。連れ戻してくれと頼まれたと言うのに、こうして話し込んでいるんだ。同罪だろう?」



笑みを浮かべてクロエはそう言ったのだが、それでもセネルは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にして、そうして暗い表情のままだった。
すぐに俯いてしまうその姿にクロエもこれは重症だな、なんてちらりとは思ったものの、この雰囲気を変えたいとは言え、そこを口にしたりはしない。
相変わらず浜辺に座り込んだままのセネルの隣で、クロエはどうしたものかとほんの少しばかり、考えた。
同じように座ってもいいのだが、本格的に座り込んで話し込んだりなどした時点で、フェニモールから怒られるでは済まないとそんな考えが過ってしまえば、流石に座り込もうと言う気になれはしない。



「クーリッジだけが聖爪術を受け取れなかった理由を、ウィルやノーマ達もいろいろと考えているよ。あまり考えられない理由から様々あるが…一番挙げられるのはクーリッジの体が力を受け取るには回復しきれていない、と言う理由だな。私としてもなかなかに否定出来ない理由だなとは思う」
「……どうせ俺は無茶ばかりしているからな」
「自覚があるなら少しは改めろ。まあ、もっとも、私はそればっかりが理由だとは、思っていないけれどな」
「………」
「勿論、ならクーリッジが静の滄我に認められなかったのか、と言うのは違うと否定させて頂こう。私はな、クーリッジ。静の滄我がお前を認めなかったのではなく、お前が静の滄我を拒絶したと、そう思うんだ。この地の滄我は確かな意志を持った人間を拒絶しようと言う意志があるようには思えない。それなら、クーリッジの方が、滄我を拒絶したのではないか、なんてな。…心当たりはないか?クーリッジ」



疑問形で投げ掛けながらも、クロエとしてはそれが正しいとほぼ確信していることだった。
静の大地に存在する、水の民達を、彼らを導く滄我を止めて欲しいと願う静の滄我は、この地に訪れた自分達を拒もうとしていない。
同じ願いを抱いている存在に、力を与えようと動いたのは滄我の方だった。
それなら、力を得られなかったと言うのなら、問題は滄我にではなく、セネルの方にあると考えた方が無難だろう。

事実セネルは、そのクロエの言葉を聞きたくないとばかりに、顔を背けていた。
「クーリッジ」ともう一度クロエが名を呼べば、座り込んでいた体勢から立ち上がりはしたものの、クロエを見ようとは、しない。


目を合わすことが、出来ていない。




「……心当たりなら、確かに、俺にはある」
「! それなら…っ!」
「自分勝手で、情けなくて、惨めで、最低な…理由だ。クロエが言うように、俺の方が滄我を拒絶したんだろう。口では何とでも言いながら、結局俺は自分のことしか、考えていなかった。聖爪術を手にする資格は俺にはない。俺なんかが手に出来るような力ではないんだと…そう思っていた方が、ずっと、楽だったからな」
「それはどういうことだ?クーリッジ。シャーリィ達を、水の民のことを一番に考えていたのは、お前だったと思うし、資格がないだなんてそんな…」



そんなことはある筈がない、と。
振り向こうとしないその背に、クロエは続けてそう言おうとしたのだが、その前にセネルの方が首を横へ振っていた。
どういうことだと、思わず見つめてしまう。
セネルが俯いていることは、分かった。
痛みに耐えるように、言葉を探していることも。
無理矢理腕を掴んで振り向かせるだとか、そういう方法は、取れそうにもなくて。



「クロエには…俺がクルザンド人だってことを、話してなかったよな」



背を向けたまま、静かにセネルがそう言った。
確かにクロエはセネル自身の口からその話を聞いてはいなかったが、しかしその事実はヴァーツラフの口から暴露されていたことであり、厳密には知らないと言うわけではない。
けれど生まれの問題は当人にどうにか出来る話でもないので、その話を聞いた他の誰もセネルに確認することも問い質すこともしなかったから、クロエはあの時ヴァーツラフの口から語られたことは聞かなかったことにしたのだ。
だから、今のセネルの言葉には、無言で返した。
それだけではないと、思ったから。
その続きを、今は聞くべきだと、そう思ったから。
だ、が。



「―――クルザンド王統国ヴァーツラフ軍所属、特務隊員セネル・クーリッジ」
「!!」
「それが俺の、クルザンド王統国での立場だった」



自分自身のことを話すと言うことは、その身を削るのと同じことだった。
誰にも言いたくなどなく、自分の中に秘したまま、持っていきたかったもの。

けれどそれは、口を噤んでいるよりも断罪を受け入れる方が楽になることの一つになってしまった。

救いも赦しも、望んでいない。
自分自身の業を背負い切れなくなって、身勝手にも終わりが欲しかった。


頭を垂れるから、どうか、この首を刎ねてくれ、と。





「スパイだったんだよ、俺は。シャーリィ達に近付いたのも、全部閣下の命令だったんだ」







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