〔1〕
 それは最初から切り捨てた筈の、選択肢だった。
 抱くべきではない気持ちを得てしまったのは一体いつのことだったろうと考えたところで意味は無く、虚しさを覚えたところで余計に惨めになるだけで、どうにせよ、報われないことだけは確かな決定事項だろう。
 その先に望む答えが得られないのなら、必要もないと早々に諦めてしまった選択だった。
 埋めて、蓋をして、そうして一生出て来ることのないよう閉じ込めた筈の選択肢が、一体何の弾みか、再び目の前に突き付けられてしまっただけ。
 悔いの残さぬようにと与えられた、さいごの―――


「いつまで寝てるつもりなんだよ!この馬鹿ユーリ!!」
「うがっ?!」
 陽の当たる窓際の列、一番後ろから数えて二番目の席。
 惰眠を貪るには適した環境だとばかりに堂々と突っ伏して眠っていたユーリのその後頭部に、容赦のない教科書による打撃が与えられたのは、四限目の講義が終わって二十分は経った時のことだった。
 講義の終了の合図にチャイムの鳴らない大学内で、アラーム代わりになるものを予め用意していなかったことが悪かったのか、はたまた同じ講義を受けていた相手を放置して居眠りをしていたことが悪かったのか…まあ普通に考えて明らかに後者の理由が後頭部に一撃喰らった主な原因になるのだが、それにしてもあまりの痛みに、悶絶してしまうぐらいは許してくれてもいいだろうと訴えたい。
 表紙でもなければダメージのデカい角を躊躇なく選択したその相手に、ユーリは涙目ではあるもののまずは鋭く睨み付けた。あまり迫力もなければ効果もないことは、自覚もあるので触れないでもらいたい。
「―――っ、ちっとは加減しろよマジで痛いだろうがこの馬鹿力!つーかいきなり何しやがんだ!ルーク!」
 キッと睨み付けて言った、その先。
 毛先に従って金色にグラデーションの掛かる珍しい朱色の髪を後ろで一つに纏めて高く結い上げ、腰に手を当てて機嫌の悪そうに口を尖らせている少女の姿が、そこに在る。ユーリと二つほど歳の離れている彼女は、何の因果か同じ学部学科の同じコースを選んだ、もう随分と長い付き合いになる幼馴染だった。
「四限終わったらクレープ食べに行くぞって朝から無意味に張り切ってたのはどこのどいつだっつーのバーカ!授業の途中で思いっきり寝やがって!俺だってヘンケン先生のぶっちゃけわけ分からん話を聞いてるぐらいだったら家に帰って寝たかったわ!ユーリのバーカバーカ!」
「あ?お前もあのわけわからんおっさんの授業取ってたんじゃなかったのか?途中抜けはまずいだろ」
「もう一回その後頭部を角でど突くぞ女顔。一年生が三年生対象の講義取れるわけないっつーの!」
「は?じゃあなんでお前これ受けてたんだよ」
 強制的に起こされたものの寝起きの状態には変わりなく、喧嘩腰の相手に純粋に疑問だったとは言えそんな呑気なことを聞いてしまったのが悪かったのか、一瞬押し黙ったルークにおや?と思って首を傾げるより早く、脳天に教科書による一撃を喰らったのだから、とりあえず目の前に星が瞬いていた。
 結構と言うのか、割りとかなりしっかりと痛い。
 ビキリと額に青筋を浮かべてまで怒っているようにも見えたのは気のせいだと思いたいが、穏やかに微笑んでぶん殴られていた場合はそれはそれでなかなかの恐怖体験だったので、やっぱり気のせいでなくていいです。
「先に帰るなっつって無理やり一緒に受けさせたのはお前の方だろーがボケ!わざわざこの俺が全く関係のない講義内容をノートに取っておいてやったんだからな!いつまでも寝惚けてんじゃなくてまず感謝しろっつーの!」
「三年になった時の為の予習出来て良かったんじゃね?」
「よし、分かった。シュレッダー行きで」
「俺が悪かったのでどうかそのノートを貸してください神様仏様ルーク様」
「バカにされてる気しかしねぇ。もう一回」
「ごめんなさい、貸してくださいお願いします」
「なら、今日のクレープ代は、ユーリの奢りってことで」
 先程までの機嫌の悪さはどこへ行ったのやら。
 にやりと笑ってカバンからノートを取り出して渡して来たルークのその表情に、「このやろう最初からこのつもりだったのかクソガキめ」とユーリは思ったが、どちらが悪いのかと言えば講義中に居眠りをしてしまったユーリが悪いので、一度溜め息を吐いたものの何か反論をすることはしなかった。本当にクレープを奢ってもらえるのだと約束すれば途端に機嫌の良くなるルークを前に、単純な奴だと思いつつもこういうとこが可愛いんだな、と頭の中にはそんな思考が過る。
 そして過ったそのすぐ後に、ユーリは思わず「ん?」と眉間に皺を寄せて動作が停止してしまっていた。
 何か、いま、凄まじく自分らしくない思考回路が働いてしまったような。
「おい、どーしたんだよ。さっさと行くんじゃねーの?」
 武器として使用していた教科書と机の上に出しっ放しにしていたペンケースをカバンに入れ、教室から出ようと前方の扉へと向かっていたルークが、不思議そうに首を傾げてそう言ったのを、ユーリの耳もきちんと拾ってはいたのだ。
 夕暮れ色に染まる教室に、二人だけ。
 ほんの少しだけ動けなくなったのは、不意に自分達の関係性について違和感を覚えたせいだ。
 ――自分達の関係は、幼馴染で、あっていたか?
「ユーリ?」
 机の上に置き去りにされたままの勉強道具を仕舞おうともせず、座ったままちっとも動こうとしないユーリを、心配そうにルークがそう呼んだ。教室から出る寸前のところにまで足を進めていたと言うのに、こういう時だけすぐに戻って来るのだから、結構可愛い性格してんだよなぁ…と思ってしまうのは現実逃避である。
「本当に大丈夫か?お前。さっきから何かおかしいぞ?どうかしたのか?」
「……心配してもらってるとこ悪いが、その響きだとなんか俺の頭を心配されてるように聞こえて嫌だわ」
「糖分しか詰まってないお前の頭なら、最初から手遅れだって知ってるから今更誰も心配しねぇっつーの」
「……流石に怒るぞこれは」
「はあ?怒りたいのはこっちの方だバカ!何か気になることでもあんなら、さっさと言えっつーの!お前はいっつも一人で抱え込むんだから、早い段階の内に言いやがれってんだ」
 心配していた気持ちなんて一体どこへ消えたのやら。
 これ以上しょうもないことで人を待たせるな、とばかりに腕を組んで不満そうに言ったルークに、「その言葉はそっくりそのままお前に返したいんだけどな、特に後半を」とユーリは言いたかったりもしたのだが、余計なその一言でこれ以上ルークの機嫌を損ねても状況は悪化するばかりだったので、ここは大人しく言わないでおくことにした。もう少し分かりやすい気に掛け方をしてくれないものか…と、そんなことを考えているとバレた時にはそれはそれで臍を曲げられるような気もしないこともないが、口にさえ出さなければ構いやしまい。
 話を逸らすにせよどう誤魔化すにせよ、とりあえずは帰る準備をしなければ、とユーリは一先ず片付けをし席を立った。
 やっぱり話すつもりなんて全くなかったんだろ、とばかりに睨み付けて来るその瞳に多少申し訳ない気持ちはあるものの、実際に口にしてしまった方がなかなかに失礼だろうと思って話題を変えようとしたのだ、が。
「……いや、授業後に一緒に帰って途中でクレープ屋に行ったりとか、まるでデートみたいだな、なんて」
 冗談のつもりで言ったその瞬間、「バカなこと言うな!」と怒り出すでもなく、「こいつ何言ってんだ?」とばかりに妙なものを見る目でルークがこちらを見たのだから、これはこれでなんだかとっても心が抉られるような気がしないこともなかった。
 何が予想外と言えば、可哀相なものを見るように、と称してもあまり変わらないと言うことでもあるし、「ふざけたこと言ってんじゃねぇ!俺はもう帰る!」と癇癪を起こさなかったことでもあるのだが、何よりも予想外だったのは、この後に続いた言葉だ。
「…お前ほんっとに大丈夫か?付き合ってる相手の顔を忘れるとか、怒れてくるより病院に連れてった方がいいかって不安になんだけど」
 全く想像もしていなかったその言葉に、流石にどんなに言いたかったろうと「マジで?」とはユーリも言えそうになかった。
 付き合っている、とは、なんだ。
 あれか、この場合もしかしなくとも自分と目の前に見える相手とのことか。あり得ないと言ったらぶん殴られるヤツだとは分かるけれど、素直な気持ちを述べるなら、あり得ないと言うのか信じられないと正直言いたい。
 実際に口から出掛けた言葉は、「マジで?」と「嘘だろ?」の碌でもない二択だ。
 寝起きの頭にしてもこれは思考回路が吹っ飛ぶ事実の公開だった。ちょっと意味がワカラナイ。
 ただ、どんなリアクションをするべきかその正解が分からなくとも、「そんな覚えなんて全くないんだけど」とは言った瞬間ぶん殴られるでは済まない一言だとは、差流石に察した。それよりは「そうだったっけ?」と返しておいた方がまだ、どうにかなる反応だろう。よくよく考えたら「嘘だろ?」もなかなかに女心を踏み躙る一言だが、口に出していないだけまだセーフである。
 本気で身に覚えのないことなのだが、どうやら自分は、ルークと付き合っているらしい。
 ……いや、だからと言って何が困るでもなければ、不愉快とかでもなんでもなく、むしろ自分の中でストンと落ち着く事実なのだから、これでいいのだけれども。
「たっく、寝起きで頭がボケてるにしてもいい加減にしろよ、ユーリ。ほら、クレープ屋に行くんだろ?置いてくぞー」
 あんまりのユーリのボケっぷりに、呆れたのか先に教室の扉を出て行ってしまってから、ほんの少しだけ声を張って、ルークがそう言った。
 本当に置いて行く気もない癖に、と聞こえないように小さく笑って、ユーリもその後を追い駆ける。
 そうだ、そう言えば彼女のこういうところが好きで、自分達は付き合い始めたばかりだったじゃないかと、寝惚けていたにせよ失礼過ぎる勘違いをしてしまったことに、今日は少し高めのクレープでも奢ってやるかとユーリは密かに侘びとしてそう決めた。
 名を呼ばれる度に、何か違うとは、思ったのだけれど。
 寝起きだったから、頭が上手く働いてくれなかったのだろう。
 外へ出てしまえば、まあいいかとそう思ってしまったのだから、その程度のことだったのだ。
 気にするようなことでも、なかったのだろう。
 多分。

〔2〕
 一日目・晴れ
 最悪のタイミングと言うのか微妙なところであいつが目を覚ました。どうにも覚えてなさそうで腹が立つ…よりも少し不安にもなる。多分、大丈夫だとは思うけど。
 帰りに寄ったクレープ屋で、イチゴ・バナナ・チョコシロップに生クリームだとかカスタードクリーム入りのボリューム満点なクレープを注文。食べる頃には人をからかって面白がっているいつものあいつだった。あいつはどこに行っても甘い物を食べ過ぎだと思った。
 ……なんかこれ、あいつの観察日記みたいになる気が凄いする。おかしい。日記を書くのはもう癖みたいなものだったから、ここへ来てからも付けようと思ってたのに、やっぱりあいつと付き合うと書くことがそればっかりになってしまうのかもしれない。屋敷に居た頃だってそうだった。ちょっとだけ、懐かしい。
 決めた。今日からこれは、あいつの観察日記にしよう。
 日付書いたけど後で直しておかなくちゃ。三日坊主にはならない自信はある。だって、ずっと日記自体は書いていたんだから。
 今日はあいつが誕生した日。
 なんて、そんなような歌があった気がするけど、誰が教えてくれたんだっけ?詳しくは覚えてない。思い出せないけど、まあそれなら今日は、月曜日でいいや。

〔3〕
「いや、やっぱりおかしいだろ。どこをどう考えてもなんか違う!」
 ドンッ!と。
 机の上に乗っている雑誌・飲み物・その他諸々に対して一切の配慮も何もなく拳で一度叩いてまで言ったその訴えに、当然のことながら返って来る答えもなければ隣人に届くこともなかった、一人暮らしの寂しい室内でのことだった。
 とっくに日は昇っている。
 どころか既に時間を見てしまえば正午過ぎを指しており、いくら講義がないからと言ってダメ人間な暮らし過ぎるだろう、と自己嫌悪に陥りそうな時刻なのだが、それもまあとりあえずはいいだろう。
 昨日はあのまま一緒に帰り途中でクレープを食べ、家まで送って行ったその後に一人、自室で軽い夕飯を作って食べて風呂に入ってあっさり寝たのだが、一晩置いたからこそ、ユーリは自分を取り巻く環境に違和感だらけで起きてすぐに頭を抱える羽目になったのだ。
 なんと言うべきなのか、自分とルークが付き合っていることに対して、と言うよりも、そもそもいろんなところがふわっふわっしていた。
 自分の名前は言える。
 生年月日と血液型ぐらいもまあ、言えて普通ぐらいのプロフィールだろう。
 しかしそれ以降がなんだかとってもふわっとしていたのだ。抽象的な言い方しか言えないのもまたなんとも言えない情けない話であるのだが、元々そんなに語彙もないのだから、勘弁してくれと無意味な弁解もしてしまうのは、頭が上手く働いてない証明だと言うことで。
「別にいいんだよ付き合ってんのか付き合ってないのかとかそーいう男女関係?惚れた腫れたの話は好きにやってろって話だし、実際に付き合うのなら俺なりに真剣に向かい合うし放置とかしたいわけじゃない。ただ、なんか違うんだよなんかおかしいんだよ。あいつが不満とかそういうのじゃなくて…あー…意味わかんねぇー…」
 一人、部屋の中でぶつぶつと捲し立てることの虚しさと言ったら余計に追い打ちが掛かって凹みそうなことではあるのだが、それにしてもどうしてもユーリの中で納得出来そうにないことなのだから、背に腹は代えられなかった。ここまで好き勝手に言ったこの段階で、首を傾げた箇所は一体いくつあるのだと言えば、そんなことは一回や二回の話ではない。
 幼馴染で大学まで一緒な友人と、つい最近付き合うことになりました。と、この一文だけで違和感はあり過ぎて頭を掻き毟りたくもなったのだ。
 彼女の名前は、ルーク・フォン・ファブレ
 恋人と言う関係を持つことに不満があるわけではないのだが―――幼馴染は、彼女だっただろうか?
「………とりあえず飯でも買って来るか。ゼミは4限だし、時間もまだあるだろ」
 ぐるぐる頭の中に回る思考と、どうしてそんなに幼馴染が誰か、と言うことが気になるのかと言う思考とが、その内喧嘩でも起こして頭痛と言う形にでもなられたら堪ったものではなかったので、一先ず気分転換にとユーリは適当な恰好に着替え、財布をズボンのポケットに入れて玄関へと向かうことにした。
 大学に通うようになってから、親元を離れて暮らし始めたこのアパートは割りと気に入っていて、近所付き合いもそれなりに上手く行っている方だと思っている。
 右隣が確かフェニモールと言う音大生の女の子が住んでいて、同じ大学のステラと言う先輩をよく招いている姿を何度か目撃したこともあった。
 左隣は、ルドガーと言う一つ下の大学生だっただろうか。あちらも兄のユリウスがよく顔を出しに来ていて、何人かいろいろ集まって賑やかそうにしているのを、レポート徹夜明けの全く頭の働いていない状態で聞いた覚えはある。…何のレポートを仕上げていたのかは、まるで覚えてはいないのだが。
「おや、こんにちは。今から学校かい?」
 玄関を開けて家を出た。ちょうどその時に声を掛けて来たのは、どうやら今日もまた弟を訪ねに来ていたらしい、兄のユリウスだった。ユーリよりもいくつか年上のこの男は海外出張が多いだとかで、この一年は碌に家に帰ることが出来ないからちょうどいい機会だと一人暮らしを始めてみたんだ、とルドガーが話してくれたことは、なんとなく覚えている。…そして「兄さんが帰って来ない家にずっと居るのは、ちょっとね」と物の見事に弟の方からもブラコン炸裂してくれたのは、同時に苦い思い出ではあったが。
「こんにちはー、学校じゃなくて今からちょっと買い出しな感じっす。冷蔵庫に何にもなかったんで」
「はは、それは大変だね。そう言えばルドガーが今日は二丁目のスーパーで卵安売りしてるって話していたよ。一時からのタイムセールだとかで、ちょうどいい時間になるんじゃないかな?」
「おっ、マジっすか。ありがとございまーす。そんじゃ、そっち行かせてもらいますわ」
「激戦区らしいから、お気を付けて」
「勝って帰ってきまーす」
 軽く頭を下げて隣を通り過ぎれば、笑顔と小さく手を振ることで見送ってくれるのだから、「扱いがルドガーと変わってなくないか?」とアパートから多少離れた位置まで来てユーリはそう思ったが、年齢的には弟の方とは一つしか変わらなかったので気にしないことにした。
 打った斬った思考回路を放置したばかりで、会話をするにはかなりマシな人と出会えたのだ。別にそこまで幸先は悪い方ではないのだろう。
 ついでに二丁目のスーパーの情報まで手に入ったのだから、それならとユーリはお言葉に甘えてそちらの方へ向かうことに決めた。問題は、そのスーパーに辿り着くまでに、そこそこ距離があると言うことか。
 また思考が拗れるには十分過ぎる程の距離だった。
 せめて雲一つない程の快晴ならば少しは気分も上向きになったかもしれないが、雪でも降るんじゃないかと思うぐらいの、生憎の曇り空だった。
(……ルークと付き合ってる、とはねぇ……)
 流石に部屋で喚いた時と同じように外で叫べる筈もなく、首元に巻いたマフラーに顔を埋めながら、ユーリは心の中でそう呟くように言った。
 付き合っている。
 つまり自分とあいつは彼氏彼女の関係であり、交際相手であり、想い合っているとまあ、そういうことなのだろう。昨日見たルークは相変わらず女らしい恰好は嫌いなのだとスカートを穿いていたりはしていなかったが、どちらかと言えばダボッとしたシルエットの服装を好む癖に、あの細い脚の線がよく分かるピッチリとしたズボンを穿いていたような気がした。後半に掛けて軽くぶっ飛んだ為に、あまり覚えていないのだが。
 バレたら軽蔑されるでは済まされないだろうけど、どうしても男だから視線が向いてしまう箇所はどうしても有り、素直に言ってしまうのならルークはスタイル抜群の出るとこ出て締まるとこ締まったとんでもないお嬢様だった。結構ユーリ好みの体だったのだ。
 青年ばっかりズルい!と非難でも上がりそう、な。
「…………今の、誰だ?」
 そこまで考えた時に、ふと、頭の中に過る情けない声があったのだが、それが誰のものか、までが思い出せず、ユーリは思わず足を止めてしまっていた。
 よく聞いた覚えのある筈の、声だ。
 全く知らない声ではない。
 思い出そうと思えばそこまで深く考え込まずとも思い出せる筈の相手であったのに、ちっともその顔も名前も出て来なかった。
 こういうところが、どうにも昨日からおかしいのだ。
 ルークと付き合っているだとか、そこはまあ是非とも!と歓迎出来るようなことでもあるのだからまあ別にいいと言うことにして(本当は全くよくないだろうけど)。
 記憶の中に、まるで靄でも掛かったように思い出せない部分があるのは、あまりよろしくない。
 どちらかと言えば不快さを伴った、違和感だ。
「―――ふぎゃっ!」
 そんな風に考え事をしながら歩いていたことが間違いだったのか、あと少しで目的のスーパーに到着するその途中の公園に差し掛かった時のことだった。
 突然聞こえるにしては、ぶっさいくな声だなぁ…と、そんなことを思うよりも前に、自分の足元に妙な感覚があったのは、どうにも気のせいだとかそういうことではないらしい。恐る恐ると確かめることすら本音を言えば嫌だったが、このまま無視をすることも出来そうにない衝撃だったので、ユーリはそっと少しずつ少しずつ視線を足元へと下げて行った。
 ほんの少し下げた程度では、何も見えやしない。
 まあそれも当然のことではあるだろう。ほんの少し見下ろしてすぐの位置に相手が居るのなら、先程の足元に当たった妙な感覚の説明が付かないのだから。
 これはまずいと頭を抱えてダッシュで逃げ出したくもなったのは、足元にぶつかって来たのが自分よりもずっと小さい、子どもだったからだ。
 腰までは届いているだろう深い紅色の髪と、緑色の瞳。
 どこか見覚えのある特徴的な色彩を持つ…男の子か女の子か判別し辛いが、おそらく推定男の子はぶつかった拍子に転んでしまったようで、膝小僧を擦り剥き出血していたのだから、これにはユーリも心底不味いと思い顔を引き攣らせてしまっていた。唯一泣いてはいないことだけが救いかもしれないが、これぐらいの子どもは転んだと言うことにまず唖然としてしまって、そのあと時間差で泣き出すことも多い為、とてもじゃないが楽観視など出来そうにもない。
 これはやらかした。
「お、おい…大丈夫か?坊主」
 人間、咄嗟の状況判断をしくじると、当たり前のことしか口から出やしないんだな、と。一先ず子どもを立ち上がらせなければと手を差し出しつつユーリはそんなことを思ったが、今更訂正出来る筈もなく、そしてとてもじゃないが子ども状態は全く大丈夫ではなかった。
 軽く膝限定で流血沙汰である。
 ダラダラと血を流しているその膝ではこれで我に返った時には泣きじゃくられ、下手をすれば親に泣き付かれることも覚悟しなくてはな、と軽く現実逃避が入った。
 その次の瞬間のことだった。
「―――っどこを見て歩いているんだ貴様は!前方不注意などいい歳した男がやることじゃねぇだろ!きちんと前見て歩きやがれ!」
 主張としては、転んで膝を擦り剥いてダラダラと血を流している男の子の方こそが何一つ間違っていなかったのだが、如何せん小学校に上がったばかりの子どもにしては、凄まじく口が悪かった。年齢的に考えれば未だにたどたどしかろうと無理もなければ微笑ましくも思うと言うのに、目の前の子どもは流暢な言葉遣いでこの口の悪さなのだから、余計に何とも言えない気持ちにもなる。
 転ばせてしまって悪いとは確かにユーリも思ったのだが、口が悪い+目付きも悪いこの子どもに対し、抱いた感想は一つだった。
 あ、このガキちっとも可愛くない。
「いやー、悪いな、坊主。お兄さん足が長いからさー、ちっこいお前さんが見えなかったんだわー。いやー、すまんすまん」
「謝罪する気もないのに口先だけの言葉など要らん!聞いていて不愉快だ!口にするんじゃねぇよ!」
「そうだな、きちんと前見て歩いてなかったお兄さんが悪いよな。坊主の言う通りだ。間違っちゃいねぇよ。だけどまあ、ちょーっとお前さんは年上の人間に対する口の利き方ってのを教わって無さ過ぎるんじゃないか?」
「あ?」
「その目付きの悪さもアウトだろ。どこのヤクザだお前は」
「は?ちょっ、放せ貴様!俺に触れるな!」
「あー、良かった水飲み場が近くにあったー。洗い流しますねー」
「へ?は?おい、ふざけるなよ貴様はなっ、痛い痛い痛い痛い痛い!!」
 我慢の限界とはまたちょっと問題が違うのだが、あまりの口の悪さとその目付きの悪さに、ユーリは思わず強制的に公園の水飲み場へ移動。そして血だらけ+砂利付きの傷口に、容赦なく水道の水をぶち撒けた。
 強制連行後の躊躇ない水掛けしかも真冬。
 今度こそ涙目になって鼻まで啜り始めた子どもを腕に抱え、ユーリはハンカチで水気を拭き取りながらこれはやってしまったぞともう何度目かの後悔だった。
 正直かなり腹が立った故の暴挙だと言う自覚はある。
 考えなさ過ぎる行動に自分でも呆れたが、こんな真冬にどうして子どもが半ズボンでもないのに膝から流血しているのかが分かったその理由に思い当たって、子どもを抱きかかえたまま血の気が引いた。
 水を掛けた時に、裾を捲ってやった覚えはない。
 転んだ拍子に破れたのかー…と気付いてしまえばこれにはユーリも途方に暮れてしまいたくもなったのだ。
 ああ、裁縫道具は家にあっただろうか。
「…すまん、悪かったな坊主。いろいろと謝らなくちゃならないことはあるが、とりあえず泣き止んでくださいお願いします」
 一回り以上は歳の離れている子どもを相手に、なんだかとってもおかしな言葉を遣っている自覚はあったが、全面的にユーリが悪かったのでここは低姿勢は貫いておくべきだと判断した。
 膝の部分に穴を空けてしまった子どもはグズグズと未だに鼻を鳴らしているのが罪悪感とチクチクと刺激するのだが、どう足掻こうとそれでズボンの穴が塞がるわけでもなかった。
「うるせぇ、別に感情的になって泣いてるわけじゃない。傷口に何の告知無しに水掛けられたら普通に泣くだろ。生理的な反応で涙が出ただけだ。勝手なこと言うな」
 なんと言うか、普通に子どもが強がって「泣いてなんかない!」と言われるよりも倍増しで憎たらしく感じる反論だった。
 くそ、ちっとも可愛くない。
 こんな反応を返されるぐらいならば、泣き喚かれた方がずっとマシだった。…わけではないな。言葉の通じない段階の子どもが相手になると、投げ遣りになって逃げ出したくなるぐらいには、どうすればいいのか分からなくなるのだから。
「あー…それは勝手に勘違いしてごめんな?坊主」
「坊主じゃない。貴様に坊主呼ばわりされるのは腹立たしい。ふざけるな」
 こっちはお前の下に見るようなニュアンスでの「貴様」呼びに腹立たしいわボケ!
 などとはぶつかって転ばせた挙句に怪我までさせてしまった小学生相手に言える筈もなく、顔が引き攣りそうになったのもどうにか堪えてユーリはとりあえずティッシュを手渡した。この性格ならばこちらが手を出した方が逆効果だとは思うのだが、その鼻水は洒落にならないので自分でどうにかしてくれと押し付けることぐらいは、どうか許して貰いたい。
 子ども特有のぷにぷにとした柔らかい頬を指先でつついてやれば嫌そうに顔を顰めるだろうが、腕に抱きかかえられている現状には然程文句も言わない(と言うかおそらく怪我をした膝が痛むのでそれどころではない)ので、どうやら人見知りだとかではないようだった。
 気も相当に、強い方らしい。
「そうは言われてもお兄さんはお前さんの名前知らないからなー、坊主以外になんて呼べば良いんだ?お坊ちゃんとでも呼べば満足ですかね?」
 あ、しまった。この言い方じゃ「不審者に名乗る名前なんてねぇ!」と怒鳴られるかもしれないな、とすぐにユーリも思ったが今更口から出た言葉が撤回出来るわけもなく、幼い子ども故の独特なあの高い声を覚悟したのだが、しかし返って来たのは凄まじく不愉快そうに眉間に皺を寄せた子どもの顰め面だった。紅色の前髪を上げているから当然額も丸見えで、よく目立つなー、とそんなことを思ったのは、軽い現実逃避である。
「……貴様のような男に名乗る名などねぇ!と言いたいところだが…仕方ねぇ。不満だけど言う」
「……それはそれで俺も困る言葉なんだけどな。そんなに不満なら普通は言わないぞ?小学校で教わらなかったのか?知らない人に簡単に自分のことを教えちゃいけませんって」
 腕に抱きかかえていることは無かったことにして、口を尖らせている子どもにそう言えば、「最悪なことに貴様は知らない人じゃない」とそう返されたのだから、驚いたのはユーリの方だった。
 何をどう思い出そうと小学生頃の親戚も知り合いも居らず、「いや、俺からしたら知らないガキなんだけど」としか返せないのだからどうしたらいいのか分からない。
 改めてその姿をまじまじと見てみても、やっぱり知らない子どもは知らない子どものままだった。
「俺は貴様に用は無いが、貴様の知り合いに用がある。会わなくちゃいけない相手は貴様ではない。ので、さっさと放せ!それか会わせろ!」
「おい結構無茶苦茶な言い分を押し通そうとしてる自覚はあるかクソガキめ。怪我をさせたのは悪かった。が、その言い分を聞けるほど俺は不審なガキに優しくはねーぞ?訳を話せ」
「テメェ冗談じゃなくて本当に覚えてないのか?!ちっ、使えやしねぇ男だ!ならもう時間の無駄だ!とっとと放しやがれ!」
 気に食わなくて腕の中で暴れるにせよ、そろそろユーリの堪忍袋の緒が切れるには十分過ぎる程の、あまりにも見過ごせない子どもの口の悪さだった。
 最初の出会い方から考えるならば圧倒的にユーリの方が悪く、ズボンが破れる程転ばせてしまったことはこの子どもには非は無いだろうけれどそれではいそうですかと済ませていい問題ではない。
 短気と言う程ユーリもそこまで短気な人間ではなかったが、普段ブツリとキレる時は無表情もしくは明らかにこれは怒っていると分かるキレ方をするにも関わらず、この時ばかりは笑顔を浮かべた上でキレていた。
 自分でも大人気ないとは思うからこそ今まで明確に言葉にはしていなかったが、今この瞬間それは確定した。
 このガキとは絶対に馬が合うことなんてない。
 理不尽だとは思うが、気に食わないと真っ先に浮かんでいたことはそれだ。可愛くない。
「おいおい、ほんっと随分と口の悪い坊主だなー?お前は親から目上の人間に対する口の利き方ってもんを教わらなかったのかー?」
「あ?テメェだってそう変わんね…っ痛い痛い!イテェよ何しやがる!」
「教育的指導だぞ☆」
「ざけんなとにかく放せ!痛い!貴様に構ってる暇なんてねーんだ俺はあの屑に会わねぇといけないんだよっ!」
 んなこと言われても俺こそお前に構ってる暇はなかったし一時からのタイムセール間に合わないから卵がパアだし買い出し出来てないしふざけんなよクソガキめ…!と、口にこそ出してはいないものの後半に限っては自分の行いを棚に上げた上での八つ当たりだったのだが、自覚があっても遠慮容赦なくユーリは子どもの頬をぷにぷにと指先で連打し始めた。
 そんなことをやられれば鬱陶しいだろうに、なんて百も承知の上で押した。偶に力配分をミスしてかなりの勢いでど突いてしまうこともあったが、気にせず押した。
 むしろ頬が真っ赤になってしまえとさえ思った。
 …そしてやり過ぎたと後悔することになるとは分かっていたのだが、どうしても抑えられなかったのだから、反省するしかない。
「おい、坊主。あの屑って一体誰のことなんだ?生憎、俺の知り合いには、そんな奴は居ないんだけど」
 子どもを片方の腕で抱きかかえたまま、もう片方の空いた片手でポケットかどこかに絆創膏でもないかと探しながら、痛むのかつつかれ続けて赤くなった子どもを放置して、ユーリはそう言った。
 ダラダラと血を流すことはなくなったが、それでもじわりと滲むように血が出ている膝は痛々しく、そして破れたズボンは可哀相になってくるのだから後でどうにかして直してやるかとそんなこともユーリは考えているが、このままの流れで自宅に連れ帰った場合は完全に人攫いであることに気付いていない。
 兄弟ですと言い張るには少しどころかかなり苦しく、しかしパッと見はユーリ自身がかなりの美丈夫…とは後ろ姿がむしろ女性と勘違いされる時も多々とあったので語弊が生じるのだが、むさ苦しい男が幼子と一緒に居るよりはまだ不審ではなかった。
 腕の中に居る子どもが、一度「助けて!」と叫んでしまえば、それもお仕舞いではあるが。
「……どうせ貴様は何も覚えてないんだ。言ったところで、無駄なら言う必要も感じない。屑は屑だ」
「でも、俺の知り合いなんだろ?」
「………………」
「そもそも、誰かを屑だと呼ぶこと自体、間違ってると俺は思うが。そのことを含んだ上での、教育指導だしな」
「………………」
「それにお前学校はどうしたんだよ?こんな時期に学校は昼までです、だとかそういうわけじゃないんだろ?学校はどーした学校は。真昼間に呑気に出歩いてんのは、高校生以上の、義務教育なんてとっくに終わった奴ばっかなんだぞ?お前さん授業は?」
 畳み掛けるように続けたユーリの言葉に、案の定真昼間から学校にも行かず、街を歩いていた子どもは何も返すことが出来なかった。眉間に益々皺が寄り、渓谷と化してすらいるのだからこれは少し苛め過ぎたかとユーリも思ったが、けれどおそらく小学生ぐらいだろう子どもが一人で平日の昼間に街をうろついていることの方が問題なのだから、別に間違った判断でもないだろう。
 これが園児且つ近くに親でも居るのなら話はまた違ってくるが、子どもが膝から流血するほど転び手当とは言え見知らぬ相手に抱きかかえられているこの状態で誰も止めに入らないのだから、親と一緒と言う線は限りなく薄かった。
 この子どもが迷子であると言うのなら別なのだが、それにしては一つ一つの言動がどこか引っ掛かって仕方がない。
「…………学校には、行ってない。それよりも成し遂げなければならないことがある。俺には関係ないことだ」
 ブスッと、明らかにこの会話が不快です!と顔を見て分かる表情を浮かべて言った子どもに、「難しい言葉は沢山知ってるのに、義務教育ってのを知らないんですかお子ちゃまめ」と言い掛けた言葉をどうにか飲み込んで、今度こそユーリも話を逸らさないよう、言葉を選んで返した。
「その成し遂げたいことってなんだよ?学校サボってまでお前は誰に会いに来たんですかー?」
「鬱陶しいその話し方をやめろユーリ・ローウェル!」
「……なんでお前さん俺の名前を知ってるんだ?名乗ったっけ?」
「うっせぇ!テメェの相手してる暇はねぇっつってんだろーが!分からないのなら俺にもう構うな!俺は貴様に用はねぇ!」
「俺はお前を蹴っ飛ばしちまったから治療する責任がある。湿潤療法だとか言うのは名前しか聞いたことないし詳しく知らないから、膝に消毒薬ぶっ掛けてガーゼで拭いて絆創膏まできちんと貼ってやるよ。それぐらいなら俺も得意だし。安心しろよ、な?」
 いい笑顔を浮かべてまで言ったユーリの目に、全力でドン引いたのか顔を引き攣らせた子どもの姿が映り、ここから更に追い打ちを掛けてやろうかと考えた。
 その瞬間のことだった。
「……そんなところでなにやってんだ?ユーリ」
 警察、もしくは地域パトロールの方々と匹敵する程、今一番会いたくない類の人物からの冷静な言葉だった。
 子どもを抱きかかえたまま、ギギギギギ、と錆び付いた機械を動かすかのように、ぎこちない動作でユーリが振り返る。自分達の居る場所は、どこにでもあるような近所の公園だった。多少寂れているからかこの時間帯にしては幼い子どもを連れたママさん連中の姿もなく、幸いなことに他には誰もいないのだが、しかし公園だからこそ見通しはかなりいい。
 つまり、公園の側を通り掛かれば、中の様子は必然的によく見えると言うことだ。障害物らしい障害物もないので、それは分かりやすく且つ、とても目立っていたことだろう。
 追記事項としては、この道はルークの家からユーリの家へと向かうのであれば、必ずと言って良いほど通る、お互いにとって通い慣れた道であると言うところか。
「…………ユーリがそういう趣味持ってるって言うなら…なんか、悪いな。付き合ってるってのに、俺じゃ満足させられなくて」
「おい頼むからそっちの方向性で捉えるのはやめてくれねぇか言っとくけど違うからなルーク!その勘違いは洒落にならねぇぞ!!」
 一体何の示し合せか知らないが、公園で見知らぬ子どもを抱きかかえている場面と思いっきり鉢合わせしてしまった相手に、そこから一時間近く掛けてユーリは自分はペドフィリアではないと身の潔白を証明する羽目になるのだが、自業自得だと言ってしまえば、否定し切れない話だった。



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