始まりの時を覚えていた。
 それは自分を見てもらえなくなった瞬間。
 手を伸ばすことさえ許されなくなった、一瞬の出来事。
 疎ましい、要らない存在だと切り捨てられた。
 ほんの数枚の紙切れと、王に告げられた言葉が決めた、二度と交わることのない、道標。
 決定的に違えてしまった、玉座の、行方。

「ねえ、聞いた?ルーク様とナタリア様の御婚約の話」
「聞いた聞いた。本当にびっくりしちゃったもの。いくら陛下もルーク様の方が兄君とは言え、惨いことをなさるわ」
「神童と謳われるアッシュ様と同じだったらまだしも…ルーク様じゃ、ね」
「それにアッシュ様とナタリア様の、お二人のお気持ち考えたら…あんまり喜べないことだわ」
「ええ、本当。 ……アッシュ様がお可哀想」
 間が悪いと言うことなんてよくあることで。自分に対しての陰口を聞くなんてことはその時のルークにとって初めてのことではなかったのだが、惨めったらしく柱の影に隠れて、咎めることも何も出来ない自分が酷く情けない存在なのだとは強く、感じていた。
 メイド達の言葉など今更だ。
 そう割り切ってしまいたいと言うのに目の奥が何だか熱を帯びていて、唇を噛みしめて堪えることしか出来そうにないと言うことがまた、「ルーク様じゃ、ね」とあんな声色でメイドが言っても仕方のないような、そんな不出来な存在にしかなれていない証なのだろう。
 仕える主人の、その息子に対しての暴言だなんて普通ならば処罰される程のことではないのかと習ったばかりの知識はそう告げていたけれど、メイドの言葉が聞こえているだろうに父は何も言わなかったのだから、ルークは自分にその価値さえもないことを知った。それは以前父が中庭でナタリアと話をしていたアッシュを惜しむように見ていた、その眼差しに気付いた時から必死に見なかった振りを決め込んだ、覆しようのない事実だった。
「そんなところで何をしている」
「!」
 屋敷の掃除をしながら陰口を叩くメイド達の前に出るに出られず、ただジッと立ち尽くすばかりだったルークに対し、不意に声を掛けてきたのは聞き間違えようなどない、弟のアッシュだった。咄嗟のことにルークは顔こそ上げられたものの、動揺を隠すことも出来ず自身の肩をびくりと跳ねさせてしまっていて、声を掛けられたと言うのに何の返事も返すことが出来ず、まともに視線を合わすことも出来そうにない。
 ルークが手にしている本よりも、ずっと分厚く高度な内容の書物をアッシュは手にしていた。たとえルークが手にしたとしても、ほんの数ページですら理解が出来ないだろうと分かる、アッシュの手に在る、教本。
 それに対してルークは自分が腕に抱え込むようにして持っている本など、とっくの昔にアッシュは理解し切っていることを知っていた。兄と弟とで区切られる癖に、ルークの方がアッシュと比べると遥かに勉学は理解が追い付いていなくて、埋めようのない、覆しようのない差がもう、出来てしまっていることを知っていた。
 だからこそ、ルークは余計に何も言えなくなっているのだ。メイド達の口から「お可哀相なアッシュ様」と言わせてしまっているのは、兄である自分が不甲斐ないせいだと、そう思っているから。
 被害妄想でも勘違いなどでもなく、揺るぎようのない、事実であると言うことも。
「……また勉強は嫌いだとでも言って逃げるつもりか」
「! それはちが…っ」
「この国を導く為の王になる人間がその体たらくでは、民が不幸になるな。知識の無さをひけらかすのは勝手だが、得意の癇癪で戦争でも起こされたら堪ったものではない」
「……っ」
「ああ、それと言い忘れていたな。殿下との御婚約おめでとうございます、兄上」
 言うだけ言って背を向け立ち去ってしまったアッシュに、怒ることは勿論、碌に弁解することも出来ないまま、何か掛ける言葉をルークは持っていなかった。
 本を抱える手が、震える。
 周りの誰が見てもアッシュとナタリアは思い合っていて、二人が愛し合っていることなどルークも知っていた。それはどんな複雑な問題よりもずっと単純で分かりやすい答えで、二人が幸せになることをルークが祈っていたことを、アッシュも知っていた筈だった。
 それと同じように、周りの人間から兄弟間で比べられ、向けられる多くの心無い言葉によってルークが傷ついた時に、さりげなく慰めようとしてくれるアッシュの一言がどれほどルークの支えになったのか、だって。
「―――……っ」
 必死に唇を噛みしめて、ルークは意地でも涙だけは堪えようと眉間にぎゅっと皺さえも寄せて俯いた。
 目を瞑ることも耳を塞ぐなんて真似もしない。
 いくらそんなことをしようと顔を合わせる度に睨み付けてくるアッシュからの視線がなくなるわけでもないし、ルークを悪く言う声が聞こえなくなることだってない。そんな日が来ることなどないと、きちんと知っているのだから。
 父は次期国王として相応しくないルークを見ようともせず優秀なアッシュを惜しみ、ナタリアはルークを見てその影にアッシュを求めている。どれだけ努力をしようと何をしようと誰の目にも留まらぬことをルーク自身が分かってしまっていて、誰にも求められていないと知ったその時、あんまりも惨めだからと泣くことだけはしなかった。
 膝を抱えて蹲ることは出来ない。
 許されていない。
 何も出来ないまま、でも本当は泣きじゃくって喚いて、それからほんの少しだけ、聞いて欲しい望みがルークにだってあった。けれど本来居るべき人の居場所を奪って、すぐに手放せばいいのにそれも出来ないままみっともなくしがみ付くばかりなのなら、口にしてはいけないことだと噤むしかなかった。
 苦しいなんて言葉を言う資格は、ルークにはない。
 本当に辛くて悲しくて、ずっと苦しいのはアッシュと、ナタリアの方なのだ。愛し合っている者同士だと言うのに、無理やり引き離される辛さを、ルークは知らない。
 王様になれるルークは、別に辛いわけではない。
 誰に見てもらえなくても王様になれるのだ。
 豪華な服を着て玉座に座り、飢えることも寒さを感じることもないまま、手にしたいと願ったところで普通ならばまず手にすることの出来ない王様と言う立場に、偶々王族として生まれ、誰よりも劣っていると言うのに偶々兄だったと言う理由だけで、ルークはなれるのだ。
 それはきっと何よりも幸運なことで、幸せなことだ。
 だからルークは別に、辛くも苦しくもない。
 寂しいだなんて、思う必要だってない。
 幸せなんだ。
 誰もが容易に手を出せない地位に、触れるだけでなく手に入れることさえも出来てしまった。望んでもいなければ努力さえもしていないのに、将来を約束されて不安を抱かなくてもいいだなんて、滅多にあることじゃない。許されたことでもない。
 幸せなことなんだ。本当に。
 この国で一番の幸せを手にしたんだ。
 そうやって何度も何度も自分自身に言い聞かせないと、きっともう、ルークは自分一人の力で立って歩くことさえ、出来ないのだから。
「……ごめ、なさ…い」
 誰でもいいから、俺を愛して、なんて。
 そんなどうしようもない思いを口にも出せない癖に抱き続けるぐらいには、愛情に飢えた、子どもだったのだ。





〔1〕
 何となくではあるが、その日の朝早い時間帯からクエストを受けていたユーリとフレン、そしてエステルとリタの四人は、無事にクエストを完了したその報告を済ますべくロビーに足を踏み入れた時点で、とてつもなく厭な予感がしていた。
 虫の知らせとはよく言ったものだろう。
 ほんの僅かな違いに気が付けたと言うことは流石とでも言うべきかと迷ったが、何にせよ全く嬉しい話ではなさそうだった。
「……なんか、変な感じがしねぇか?変って言うのか、騒がしいような…浮ついてるってのとは違うみたいだが」
「医務室、の方みたいですね。何かあったのでしょうか」
 ぽつりと呟くように言ったユーリの言葉に、エステルも気付いたのか心配そうに医務室へと続く扉を見ていて、つい全員揃って同じように見てしまった、その時だった。何だか複雑そうな顔をしていたアンジュが口を開くより早く、誰かしらの叫び声がロビーを突き抜けて食堂の方にまで届くのではと思われるような大きさで響き渡る。
 ガシャーン!とガラスか何かでも割ったようなけたたましい音とセットで上がる悲鳴はアニーやルカのものではなさそうで、音の発信源はどうやら医務室からではないようだった。となると可能性として残るのは医務室前のライマの連中が使っている部屋からの音だと分かるからこそ、ユーリ達の表情もアンジュと同じ様な複雑なものへと変わる。
「面倒なことに巻き込まれるのは御免だから」と周りの反応も碌に確認しないままさっさと研究室に入って行ったリタは相変わらずのマイペースと言うのか「ちゃっかりしてやがるなぁ、おい」とズルくも思うのだが、だからと言って「俺達も逃がさせろ!」と訴えるには研究室も同じぐらいに近寄りたくはない部屋だった為、ユーリも口にすることはしなかった。
 ガシャーン!と次いでパリーン!と再び陶器でも割れるような音が響けばその度にかろうじて笑顔を浮かべていた筈のアンジュの顔が引き攣り、自称聖女様が最終的に頭すらも抱えてしまっている。純粋に心配し始めたエステルとフレンを横目に、「そう言えば今日の昼飯は何だったかなー」と一人現実逃避をし始めたユーリだったが、思えばこの時から既にフラグは立ってしまっていたのかもしれなかった。
 何と言うべきか運がなかったのだろう。
 さっさとリタが立ち去ってしまえば、残ったのは重度のほっとけない病患者一、二、三だった為に、見て見ぬ振りが出来るような面子ではなかったのだ。
 疲れ切ったようなアンジュの溜め息に、何だか聞いた方がよっぽど恐ろしいような気も確かにしたものの、何度だって上がる悲鳴とセットで誰かが泣き叫ぶ声が聞こえれば、流石にその異常事態を前にして三人共が無視を出来るような人間じゃない。
「一体何があったのです、アンジュ!いま聞こえてきた悲鳴はナタリアですよね?はっ、まさかどこか怪我でもしてしまったのでは…!」
 それならそれで今すぐ回復をしに行かなくては!と慌てて駆け出そうとしたエステルは思っていたよりもずっと動揺していたようで、ナタリア自身がヒールを使えることもすっかり頭の中から抜け落ちているようだった。
「落ち着いてくださいエステリーゼ様!」とはフレンも声を掛けたものの、おそらく落ち着けと言っている当人が一番落ち着けていないことは明白で、どーすんだこれとユーリもまたアンジュと同じように溜め息を吐くしかない。他人の慌てっぷりを見たら多少は気が済んだのか、にこりと笑みを浮かべたアンジュもそれはそれで怖かったのだが、ここで余計な茶々入れでもしたら本格的に不味いだろうと言うことは、暢気にパフェでも作ろうかとさっさと思考回路を切り替えたユーリでも気付きはした。
 それと多分、このままでは自分の分だけではなく、自称聖女様の分は確実に追加で作る羽目になるのかもしれないな、とも。
「別に誰かが怪我をしたとか、そういうことじゃないのよ。ただ…そうね、ちょっと問題が発生したような」
「問題です?」
 何か裏があるでもなく珍しく言葉を濁したアンジュに、エステルがこてり、と首を傾げた。
 不思議そうにしているのはフレンも同じで、はぐらかすのではなく単に言い難そうに濁すようなこういう言われ方をされれば、それはユーリとしても心境的には二人とあまり変わらない。顔を見合わせていても埒が明かないと分かるからこそとりあえず続く言葉を促せば、一度深く溜め息を吐いてから、アンジュは言った。
「んー…口で説明するにはちょーっと難しい問題かな?私が説明してもはいそうですかって納得出来るような話でもないし。実際に見た方がずっと早いわ。ルークの部屋に行けば、分かるから」
「? あのお坊っちゃん何かあったのか?」
「見・れ・ば・分・か・る・か・ら」
「はい」
 思わず素直に返事を返すしかなくなるぐらいの妙な威圧感のあるアンジュの言葉に、各自頭に疑問符を浮かべながらも一先ずはルーク達の使っている部屋と向かうことにした(全員揃ってこれ以上ロビーに居たらアンジュに殺されるんじゃないかと思ったせいもあるが)。
 逃げるように扉へと足を進め、自動で開いたそこへ滑り込ませるように体を押し込んでしまう。その短時間であの叫び声が落ち着いている筈もなく、ロビーから医務室前の廊下に出た途端に更に騒がしさが増すのもどうかとユーリは思ったが、碌に確かめもせず厭な予感を無視することもアンジュの言葉を無かったことにすることも、ここまで来ておいて出来る筈もなかった。
 すんなりと辿り着いた扉を前に、コンコンッと軽い音を立ててノックをする。何かあったのかとハラハラしているエステルとフレンはそのままに、微かに聞こえてきた返事を耳にユーリはさっさと扉を開けて中へ入ろうとした。が、思わず踏み出した足をそのままの状態で止めてしまう程、目の前に見えた光景はなかなかに認めたくない類の物だった。
「びぃやああああああ―――っ!!」
 お前それすっげぇぶっさいくな泣き方だなぁ、なんて思えたかどうかはさておき。扉が開いたその瞬間に聞こえたのは、鼓膜でもぶち破るのではないだろうかと思う程のある人物の泣き声だった。幻聴でもなかった。
 冗談でもなければマジ物の大泣きだろう。
 下町のガキでもこんな泣き方はしないぞ、と働いた思考回路は既に現実逃避でしかなくて、シュンッと微かに空を切って自動で開いた扉から後ろに居る人間のことをお構いなしに身を引いて逃げるぐらいには、なんだかとっても確かめたくない絵面だった気がした。
 幻覚だとかそんな類のものではなく。
「ユーリ?」
 不思議そうに首を傾げて名を呼んだエステルに、ここで一度ユーリもハッと我に返ったが、後ろを振り返る度胸もなければ前へ進むと言う気力も持てていなかった。早くしてくれないかい?後ろが詰まっているのだけれど、とフレンが訴えていることは口に出されなくとも分かりきった話ではあるのだが、もう暫くお待ちくださいと言う言葉を聞いてもらいたいところである。
 冷や汗どころか脂汗さえも掻いているような気がかなりしたのだが、どのみちアンジュに「行け」と言われている以上、残念ながら退路を断たれていることには変わりないのでユーリにはこの扉を開けて中に入ることしか選択肢がなかった。鬼か。悪魔か。何が聖女様だ。
「……入るぞー…?」
 なんとか気を取り直して挑んだチャレンジ二回目。
 結論から言うならばこの回もユーリは普段は見せないような俊敏性を発揮し、凄まじい勢いで後退りセンサーの反応しない位置にまで戻る羽目になっていた。
 理由はとても単純で明白だ。
 中から「ふぇえええ〜ん」とそんな情けない声が聞こえたせいである。本気であり得ない。
 元々ユーリも頭を使って考えると言うことをかなり苦手とするタイプだったが、それにしたって初手の時点でパンク仕掛けた頭は二発目の光景で完全に撃沈し、もうどうしようもなく使い物にならなくなっていた。
 完全にキャパオーバーである。
 全力で部屋に戻りたいのだが、それも叶わないのだから、本当に、酷い。
「先程から一体どうしたんだいユーリ!動きがおかしいと言うよりも怪しいじゃないか!」
「人を不審者扱いするのはやめろフレン。俺は今アニーとルカの協力を得て、人間ドックに行かなければならないか真剣に吟味する必要がだな…」
「君の食生活を考えたら血液検査に引っ掛かって糖尿病寸前だって診断されるだけだと思うけれど」
「黙れ味覚音痴。冷静に痛いとこ突いてくるな」
「糖分の過剰摂取以外に君におかしなところがあると言うのなら、月並みだけれどあとは頭ぐらいしか…」
「喧嘩売ってるってなら今なら喜んで買ってやる」
「生憎、僕は争い事は好まない。他を当たってくれ」
 いや、だからそう言う話じゃなくてだな…!と、怒鳴り付けたい気持ちを流石にユーリもグッと堪えたのだが、そんな風に呑気に会話をしていたからこそ、反応が遅れてしまったのだ。
 しくじったと悔やんだところで、もう遅い。
 あり得ないと一言で片付けてしまって逃げたくなるような光景しか広がっていない室内へと続く扉を、不思議そうに眺めていたエステルがちゃっかり開けてしまったのは、その次の瞬間のことだった。
「あ、おい!ちょっと待て!エステル…ッ!!」
 慌てて手を伸ばして止めようとしたが、既に手遅れで。シュンッと開け放たれてしまったその扉の先に、とりあえず目に入ったのは疲れ切った表情のヴァンと、何か困り果てた様子のナタリアだった。その側に居たのはどこか遠くの方を見つめているようなアニスで、生気すらも感じられないようなその横顔に、思わずこちらの表情が引き攣ってしまう。そんなアニスの姿を経由して、恐る恐るこの騒ぎの中心へと視線を向ければ、続いて頬を染めてうっとりと眺めているティアに、だらしなく緩みきった顔を隠そうともしていないガイの姿が見え、死んだ魚のような目にでもなった自覚がユーリにもあった。
 これはちょっと、キツい。
 かなり、ツラい。
 先程までの一種のテロ行為のような騒音こそ無くなっていたものの、現時点でHPは残り少なく、誰かレモングミでもくれと訴えたいこの心境は別に変わる要素の方が、この場に存在していない。
 危うく戦闘不能状態になるところなんとか堪えたユーリは、この時点で回れ右をして食堂にでもどこへでも良いから逃げ出してしまいたい気持ちでいっぱいだった。
 悪いが現時点でこの惨状を前にしたところで、嘆くように自分の額をぺしりと叩いて天井を仰ぎ見るぐらいしかユーリにはリアクションの持ち合わせの方がなかったのだし…恐ろしくてフレンの顔は、いま見たくない。
「ひっく、えっぐ、う…っ、うー…あう?」
 毛先に従って金色へと変わる朱色の髪に翡翠色の瞳。
 床に座り込んで背を向けていた癖に、どうにも扉が開いたことには気付いたようで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした顔を晒して、ゆっくり振り返ったその姿は間違いなくこのアドリビトムの一員ではあったが、今この時ほど自分の認識が間違いであってくれとユーリは願ったことがなかった。
「あー?」と言って手を伸ばしてくるその朱色の髪をした知った相手に、とっさに素早く足を引っ込めてしまって、扉を閉めたユーリは別に悪くはない。
 その瞬間再び室内から「びぃやああああ!!」と泣き叫ぶ声が聞こえたが、ユーリは今度こそもう扉を開けてしまえれる程の勇気はなく、しかし「さて、帰ろうか」と言い出す前に再び開ける人間は残念なことにこの場には二人も居合わせてしまっていて、結局は誤魔化せることが出来る筈のない状態だった。
「ユ、ユーリ…いま、その…ルークが、泣いて、いませんでした、か…?」
 あのエステルですらも挙動不審になってしまう超展開に、けれどユーリは「みなまで言うなぁあああ!!」と叫びたい気持ちでいっぱいだった。フレンとエステルの前では死んでも晒したくはない姿だったが、そんな矛盾は承知の上で、それでも叫びたくて仕方がなかった。
 視界に映った朱色の髪を、心の底から全力で現実のものだと認識したくない。
 今なら怒ったりしないので、嘘だと言って欲しかった。
 ドッキリ大成功!とか言われた方が今の心境と心の平穏を保つ為にも安心すら出来る言葉だ。と言うかむしろ、安心する為にも言って欲しい。今日の夜ぐっすり眠る為にもどうか言ってくださいと結構本気で訴えたい。
 エステルが言うようにあの盛大に泣きじゃくっていた人物があのルークだと認識をしたくないが、幻覚でも見えるような症状の現れる物に手を出した覚えはなく、かと言ってボケ始めるにはまだちょっとかなりユーリの年齢から考えると適切ではなかった。
 夢だと思いたかったが「どういうことでしょう…一体何があったんでしょうか、ユーリ!」と言いながら人の背中を遠慮容赦なく叩いてくるエステルのお蔭で痛覚ははっきりしてしまっている。それはつまり残念ながら夢でもなければ現実だと言うことで、だからこそちょっと本気でユーリは涙が出て来そうだとも思った。
 思考回路ショートしてフリーズしたフレンがかなり羨ましい気がするが、今は放置するしかないとは言え「結局最初に首を突っ込むのは俺になるのかよ…!!」と後で必ず文句を言ってやろうと心に誓っておいた。
 この真面目が取り柄の騎士様には、融通なんて利いた試しがないことを、ユーリも痛い程知っていたのだから。
「……何があったんだ?これ」
 シュンッと開いた扉が気になるのか、止んだ泣き声に目眩を覚えつつもどうにか堪え、廊下で立ち尽くしたフレンをそのままに、渋々部屋に入ったユーリがそう聞いた。困ったように眉尻を下げるナタリアはまだしも、来訪者すら眼中にないティアとガイの二人は考えるだけでユーリの胃の方が大ダメージを受ける為、これはきっと無視した方がいいのだろう。
 苦笑いも出来ずに凍り付いているヴァンをそっとしておくべきだと判断したのはどうにか持てた優しさだったが、こういう時に限ってジェイドが不在と言う現実に、なんだかもう誰彼構わずに巻き込んでやりたいと、そんなことすら思う程だった。
「私にもよく分からないのですが…どうやらルークは、赤ちゃん返りを起こしているとのことですわ」
 真剣に考えた結果なのかどうかは知らないが、深刻な悩みを打ち明けるようにそう告げたナタリアのその言葉と「あうー」と赤ん坊のように唸るルークを足下に、「何か違うだろ…」と思ったのは誰もの共通の認識ではあったが、それをそのまま口にすることが出来るような勇者は、生憎不在中らしかった。





〔2〕
 印象に残った情景だとか。
 幼い子どもの頃に過ごした場所だとか。
 或いは全くの空想の世界だとか。
 夢で見るのならばそんな鮮やかな色の溢れたものばかりだと思っていたのだが、まさかこういうパターンもあるんだなあ、とそんな風に考えてしまえれるぐらいの、色の無い光景だった。上下左右、どこを見ようとルークの目には何も映らない。ただ、自分がその場所に立っている、それだけの話。
 これが夢だと言う自覚は、ルークにもあった。
 どこを見ようと黒一色の世界だと言うのに自分の手だとか体はきちんと目にすることが出来ていて、むしろこんな不思議な空間が夢でなく現実だと言われた方が、いくら世間知らずだと言われているルークでも納得なんて出来る筈がない。
 夢だと自覚して見る夢は珍しくはなかったが、それでも見渡す限り真っ黒な世界と言うのは今までにない内容だと思った。
 暗闇の中に、ぽつりと一人取り残されたようにでも感じれば早く目が覚めればいいのにと思えるのだけれど、真っ暗闇の癖に恐怖だとかその手の感情はどうしても抱けなくて、ルークはどうしたものかと首を傾げるぐらいしか出来そうにない。一歩足を踏み出したら真っ逆様にすとん、と落ちたりでもしたら例え夢だとしても堪ったものではなかったが、恐る恐る踏み出した足はしっかりと地面らしき場所を踏みしめていて、一応どこまでも歩いて行けるようではあった。
 迷子も何も。
 これだけ黒一色の世界であれば出発点すらも分からなくなるだろうからそんな考えは無駄だとは思うのだけど、何となく動く気になれないのは、誰かが『待て』とそう告げているように思えるからだろうか。
 右も左も分からぬ場所ではあったけれど、ルークは何となく空を仰ぐように顔を上げて、その時を待っていた。
 腕を掲げ、受け止めなければならないと。
 明確な答えは何一つ存在していなかったと言うのに、それでも待たなければルーク自身が後悔するのだと知っていた。
 自分だけは、逃げてはならないことだと思った。
 そんな風に思えることがおかしな話だが、これが夢の中だと言うのなら、別に付き合ってもきっと困ることなんて、ない。
「……あ、」
 それが一体『何』であるかなんてことはルークには判断が付かなかったが、それでもゆっくりと落ちてきたそれを確かに受け取った。まるでルークの元に在ることこそが必然のように、それは腕の中へと収まっていた。
 不思議な感覚だった。得体の知れないものを抱いていると言うのに不快などとは思えず、これで良かったのだと思える、この感情こそが。
 一体何を受け止めたのだろうかと気になり、確かめようとしたその刹那。目映い光の奔流と自分の体がふわりと浮いた感覚に、咄嗟に目を瞑って堪えようとしたのだが、ハッと気が付いた時に見えた光景に、夢の中とは言えルークは愕然と目を見開いて、暫くどうしたものかと動けそうになかった。
 鮮やかな色が、視界に映る。
 夢の中の世界に、色が付く。
 一瞬の出来事に付いて行けない思考回路は別にルークの頭の出来云々だとかそういう話ではないだろうし、真っ暗闇の中からいきなりどこかの屋敷の中庭に突っ立っている羽目になったら、きっと誰でも似たような反応しか出来ないだろうとそんな言い訳染みたことをぼやきたくもなった。眉間に皺が寄って怪訝そうにしているだろうとは思うが、夢とは言えこんなあり得ない展開の連続には目付きが多少悪くなることぐらい許して欲しいとも思う。
 目の動きだけで周りと見回してみて、そうしてどこか見覚えはあるものの国に居た頃の屋敷とはどこか違う様子の中庭に、ちょっと本格的に心の底から状況判断が出来そうになかった。
 いや、見知らぬ屋敷の中庭に気が付いたら立っていました程度のことなら、別にそこまで問題ではない。
 だってこれは夢の中での話なのだから。
 ここが知らない城の中だろうが町だろうが森の中だろうが砂漠だろうがこれは夢なんです!とその一言で終わらせることが出来るからこそ夢は夢なのだが、その言葉では済まないだろう重みが、温もりが、自身の腕の中にあったのだから、血の気が引いたのだ。
「あうー?」
 舌っ足らずな言葉と言うのか、まともな言語ですらない、聞いてしまったその音。きょとり、目を丸くして見上げてくる淡い翡翠色の瞳をした赤子が一人。
 その小さな手に思わず指でつついてしまえば思いの外しっかりとした力で握り込まれ、赤子を抱いた経験のないルークは冗談ではなく本気で頭の中がショートでも起こして真っ白になるかと思い、その動揺のあまり地面に叩きつけなかった自分自身を誉めてやりたいとさえ思った程、見間違いでもなんでもなく、腕の中に居るのは生まれて間もないような、赤ん坊だったのだ。
「………どうしろっつーんだよ、これ」
 途方に暮れたように呟いたその言葉に何一つ返事が返って来ないからこそ、夢の中だと言うのにルークは呆然と立ち尽くすことぐらいしか出来そうになかった。






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