きっとそれは、あの子の泣き方によく似ていた。
癇癪を起して泣きじゃくるのではなくて、下唇を噛み締めて、必死になって嗚咽を堪えて、たった一人で膝を抱えて涙を溢す、そういう泣き方。
誰かの名前だとか、助けてとそう求めることとか。
そういうことは決してしない。
それなのに俺にだけ見せる、態度と表情。
その、涙が。
「……っ、はぁっ、は…っ」
息切れを起こすまで走るなんてそんなバカな話はないと自分でも思ったが、今現在。姿の見えなくなったあの朱い、焔の色をした子どもの行方を誰よりも早く見つけ出すのが己の使命であり仕事であり、何より大切なことだと自覚しているから、みっともなく息を弾ませたまま、ガイ・セシルは公爵家の裏庭でたった一色を求めて探し回っていた。
走る、駆ける、ただただ足を、前へ進める。
小さな小さなガイの主は、普段から勉強は嫌いだと公言していて(本当は勉強がじゃなくて、アッシュと比べられることが嫌いな癖に)家庭教師が来る時間帯は気を付けていないと部屋を抜け出すことも多かったから注意していたのだが、まさか五分足らずで脱走するとは流石に思っていなかった。
勿論、使用人として仕えている身でありながらそんな言い訳は通用しないとは分かっているが、隠れん坊の得意な公爵子息だ。ほんの少しぐらい邸の広さを嘆いたところで罰は当たらないだろう……家庭教師様とやらも、とっくに帰ってしまったのだし。
(……居たっ!!)
探し始めて十五分程経過した辺りだろうか。慌てて駆け出した為に生憎時計を持ち合わせていなかったから正確な時間は分からなかったが、ふと何気なく見上げた樹の上。
鮮やかな朱色が確かに見えたのだから、怒れてくるよりも何よりもガイは安心してほっと息を吐き、いきなりのことで驚かさないようわざとらしく足音を立てて側にまで近付いた。
邸を取り囲む塀の近くに聳えるこの樹の名前をガイは知らないが、きっと一番『外』へと近い場所なのだと、それだけは知っている。
よじ登って背を向けている子どもでは見えないだろうが、ガイが樹によじ登って背伸びでもしたら、なんとか外の景色が見えるか見えないかぐらいの、高さだった。
だから当然、その視線の先には、『外』なんてない。
塀に囲まれただけの世界が、そこにあるだけ。
日が昇る時も沈む時も見ることが叶わない、この子どもを閉じ込めているだけの世界が、広がっているだけ。
あの子と、同じ。
「探しましたよ、ルーク様。どうかもう降りて来て下さい。エベノス様はお帰りになられましたよ」
誰かが近付いて来たとは分かっている癖に、頑なに振り向こうとしないその背に声を掛けたのだが、何と言うべきか案の定、反応は返って来なかった。どうしたものかとガイは途方に暮れてしまうも、一体いつ他のメイドや白光騎士団の兵士の目に留まるかもしれないと言うのに、流石に言葉遣いを崩すことはいくらなんでも無茶な話なので、その手段は取りたくない。
万が一誰かしらにこの小さな主が使用人に舐められているとそんな認識をされたりでもしたら、首を括って死にたくなるような思いをするのは、ガイの方なのだ。
ただでさえ家庭教師や一部のメイドや騎士の連中からアッシュと比べられて、ずっと傷付いていると言うのに。
「ルーク様」
「…………」
呼べど、敬称付きでは意地でも振り向く気がないのか、聞こえている筈なのにぴくりとも動かないその背に、ガイは本格的に困り果てることになかった。
呼べるものならそりゃあ自分だって、大きな声で「ルーク」とその名前を呼んでやりたい。抱き締めて頭を撫でてやって、「どうしたんだルーク?」と優しく声を掛けて慰めてやりたい。
けれどそうするには如何せん人目に付く可能性の方がどうしても付き纏った。予定時刻よりもずっと早く家庭教師が帰ってしまったことをラムダスが知らない筈もないので、何人かはルークを探しているのだ。説教される要素を、無暗に増やしたくなどはない。
だが、敬称を付けたままではルークが何時まで経っても振り返ってくれないこともまた、事実でもあって。
「どうか降りて下さい、ルーク様」
「…………」
「…ルーク様」
「…………」
とっくに自覚済みではあったけれど、ルークの無言の訴えにガイは殊更、弱かった。
脳内で天秤がぐらぐらと揺れる。
呼んではダメだ絶対ダメだと思う反面、親友だと笑顔で言ってくれたこの主人が、様付きで呼ぶと酷く悲しそうな顔をすることもガイは知っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………………ルーク」
「遅ぇんだよ!ガイ!!いちいち変な風に呼ばずに、最初からそうやって呼べっつーの!ルーク様なんて呼ぶんじゃぬぇーっ!!」
かろうじて聞こえるか聞こえないかぐらいの声でぼそっと呼んだと言うのに、余程聞き耳を立てていたのかルークがすぐにそうやって癇癪を起したのだから、ガイとしては怒っていいのか喜んでいいのか複雑な心境だった。
未だ樹に登ったままだと言うのは使用人としてとかそういうのを抜きとしても危なっかしいと見ていてハラハラするしかないのだが、しかしこのままではもう暫くは降りて来ないのだろう。
ようやく振り返ったルークは不満そうにぶーぶーと口で言っては唇を尖らせていて、うっかり可愛いなぁと和んで現実逃避をし掛かったが、それで済む話ではないのも確かだった。
毛先になるに従って金色に変わるルークの朱い髪が、キラキラと光って見える。
もしその小さな体が落ちて来たりでもしたら、下敷きになることなど厭わずに真っ先に受け止めるのは選択肢として普通に存在していたのだが、自主的に降りて貰わなければただでさえ家庭教師を追い出したようなものなのだ。
これ以上の問題事は、本当にまずい。
「無茶を言わないで下さい、ルーク様。使用人が主人と対等に口を利くなど本来ならあり得ない話です。特例とは言え今この場では許され……」
「敬語!やだ!!」
「ルーク様……」
「ガイにそうやって呼ばれるの嫌いだ!絶対に降りてやんないからな!」
ぷいっと顔を背けてまで言ったルークのその言葉に…気のせいでなければ涙目になっていたその顔に、これ以上はこちらが折れるしかないとガイは即座に対応を切り替えることにした。諦めたと言うわけでもないのだが、どんなお咎めを受けることになろうと、ルークが泣いてしまったら意味がない。
泣かせたいわけではないのだ。
「……分かったよ。降りて来い、ルーク。ラムダス様辺りに見付かると、夜まで怒られるぞ?」
と言うよりもそのラムダス様に聞かれれば、夜まで怒られるのはガイも同じなのだが、もうここは気にせず、敬語もやめてルークにそう話し掛けた。
肩を竦めて困ったように笑んでいれば、振り返ったルークはラムダスに対する苦手意識で嫌そうに口を尖らせたものの、もう拒絶をするような素振りは見せていない。それどころかどこか嬉しそうに見下ろしてきたのだから、その表情を見てガイもこれなら大丈夫かとほっと胸を撫で下ろしたのだが…その認識もまあ、甘かった。
「うー…じゃあ仕方ねぇから、降りてやるよ。きちんと受け止めろよ!ガイ!」
「へ、は?ってわわわわちょっと待てルーク…っ!!」
憎まれ口を叩きながらも途中まではきちんと降りて来ていたルークの姿をガイも呑気に見ていたのだが、いきなり何やら妙な言葉が聞こえたと思えば一切の躊躇なくルークが飛び降りたのだから、慌てて腕を伸ばす羽目になっていた。「まさかそこから飛び降りる真似をするなんて…!」などと考える余裕もなければ、そこそこな高さがまだ残っていることに一気に血の気が引き、おもいっきり油断していたガイはとにかく受け止めることだけを意識するしかない。
心境的にはきちんと受け止められるつもりで居ても、当然十四歳の体で上から落ちて来る十歳の子ども体を支え切れるわけもなく、物の見事に後ろに倒れて無様にも転んでしまったのだが、幸いにもルークにはあまりダメージは無さそうだった。…その代わりに自分の足腰に、地味にダメージはあったが。
「―――…っだ、大丈夫か?ルーク…」
自分の腰にこそダメージがあったのだけれど、それでもなにより優先させるべくガイはルークのことを気に掛けたのだが、返答よりも先に顎に衝撃があったのだから、これにはちょっと耐え切れずに涙目になってしまった。
腰よりも顎の痛みの方が強烈過ぎる。
やばい。あと少しで舌を噛むところだった。
「何おれの心配してんだよ!バカ!怒れよ!!」
えー、それはちょっと無茶ですよルーク様…!!なんてしょうもないことを思ってしまうぐらい、無理難題を吹っ掛けた言葉だったのだが、涙目になった目を擦って、そうしてきちんと向き合ってみればその言葉も成る程なと納得するものだった。
痛みはなかった筈だと言うのに、今にも泣き出しそうな顔をして、ルークがこちらを見つめている。
大丈夫かと心配するような、不安にも思っているような、そんな表情だった。
「俺は怒らないよ、ルーク。そりゃあ確かに尻餅をついてちょっと痛かったけど、別になんてことはないさ。それにルークが俺に怒れって言うってことは、自分でこれは怒られることだってきちんと分かってるんだろう?それなら、俺はそれで構わないよ。大事なのはこれはいけないことだと反省して、これからは繰り返さないようにことだ。な?」
「…………」
今にも泣き出しそうな顔を前に、頭を撫でて幼い子どもにするように言い聞かせるように言えば、理解はしたのかルークは小さな声で「……ごめんなさい、ガイ」と呟くように言って謝った。泣きべそを掻いて叱られている幼子と同じような姿だったが、十歳の子どもなら別に当たり前の姿だろうとも思うので、にこりと笑んで背を撫でてやる。本格的に泣き出す前に宥めることができたのか、ルークはまだ多少涙目ではあるものの癇癪を起すこともなく、飛び降りた時に圧し掛かったままのガイの腹の上から素直に退いていた。
心配そうに見つめているルークに笑い掛けながら、とりあえずズボンに付いた砂を手で払って、そんなに大した怪我とかはしていないさとなんでもないように振る舞って見せる。
本当はまだ少し顎やら腰だとかが痛みを訴えて来ていたが、ルークの不安を煽ってまで痛いと言うことでもなかったので、そんなことは無視をし、汚れていない方の手でくしゃくしゃとルークの頭を撫でた後、手を繋いで部屋へと戻るべく足を進めた。
家庭教師が帰ってしまったから部屋には誰も居ないだろうが、長時間その部屋の主までが不在のまま許されるわけでもなく、再び鳥かごのような部屋に戻るしか、ルークには選択肢がない。
ルークを部屋へ戻すことしか、ガイにもまた、それ以外の選択肢が、存在していない。
「それにしても今日はどうしたんだ?ルーク。一人で木に登ったりなんかして…エベノス様の話はそんなにつまらなかったか?」
怒る為にではなく、ライマ国の歴史をひたすら語るようなやり方をするあの家庭教師の話を傍から見て面白味も何にもない授業だと常々ガイも思っていたからただ純粋にそう聞いたのだが、聞かれたルークはまた不満そうに口を尖らせて、「そういうわけじゃない」と言ってから答えた。
「……アッシュ様のようにもっと王族らしく振舞って、立派な国王になる為の努力をしなさいって言われた」
不貞腐れるように言ったルークのその言葉に、思わず「なにバカなこと言いやがったあのクソ教師!!」とガイはとてもじゃないが公爵家に勤める使用人として全く相応しくないことを口に出し掛けたのだが、間一髪のところでどうにか堪えることに成功した。
ぴくりとも表情筋を動かさなかった自分を褒めてすらやりたい。ただ、そうやって面には毛程も出さなかったその反面、腸が煮え繰り返る思いではあったが。
ルークは弟であるアッシュと比べられることが嫌いだ。
王族として、だとかそういうことを抜きにしたって、普通に考えても兄弟間で比べられるのはあまりいい気分のすることではないし、陰口だとは言え優秀な弟君に比べてデキの悪い兄君だと散々に罵られているのだ。
心無い言葉に塞ぎ込み、癇癪を起して周りの人間に八当たるか、その言葉を言うだろう人物から逃げ出す。
関われば傷付けられると言うのなら、それは別に不思議なことでもなんでもなく、当然の反応だとガイは思っていた。バカげた話だ、とも。
だからこそ家庭教師の言葉に腹が立ち、またルークがその言葉に傷付いたのではと慰めの言葉を探しそうとしたのだが、続けて言ったルークの言葉に、自分は思い違いをしたのだと気が付いた。
「立派な王様になれる筈がないのに、あいつらいっつもおかしなことばっかり言うから嫌いだ。ここにはペールの育てた花とかしかないのに、飢えに苦しんでる人達とか、荒廃した土地とか言われても分かるわけない。外に出たこともないのに、民の暮らしなんか知らないのに、ライマの国民の幸せを一番に考えた王様になんかなれるわけがないもん」
「ルーク…」
「アッシュは父上と一緒に外に行くのに、俺ばっかり邸の中に居て、バカにされて、王様になんかなれない。それぐらい俺だって分かる。みんな勝手に期待して、でも何にも見せてくれなくて、ああやっぱりダメな王様だってバカにして俺のことなんか捨てるんだ」
「それは違うだろ、ルー…」
「じゃあなんで父上は俺を見ないんだよ!ここから出してもくれなくて、アッシュが居ればそれでいいんだろ?!俺が『デキの悪いルーク様』だから、邸に閉じ込めてたいだけの癖に!!何がライマの次期国王だ!俺のことなんかみんな口だけで、誰も見もしない癖に!!」
みんな大っ嫌いだ!と。
そう言って癇癪を起したルークの言葉に、思わずガイはその小さな体を力一杯抱き締めていた。
本当にこの子どもは聡い子だと、そう思う。
邸に閉じ込められていることが不満で、外へ出たいと癇癪を起しているとばかりガイは思っていたのだが、それだけではなかった。
立派な王になれと、ルークはそんな言葉をよく、聞かされている。
ライマを導く立派な王になれと。
けれど実際に家庭教師達が褒め称えるのはアッシュばかりで、ルークは認められると言うことがまず、ない。
立派な王になれと言う癖に、邸から出るなと口にする。
民のことを親身に考えられるようになれと教える癖に、実際の民の暮らしすら、ルークは目にしたことがない。
あちこちに存在する矛盾。
そんなものを抱えたまま、立派な王になれる筈がないと話すルークは、家庭教師の連中が言うような『王族らしさ』を持ち合わせていないわけではないのだ。
だからこそ、悔しくて仕方がないのだろう。
貴族の考えなど分からないから実際に公爵が何を考えてルークだけをこの邸に閉じ込めるようにしているのかガイは知らないが、この親子間が擦れ違っていることぐらいなら分かる。
蔑ろにしているわけじゃない。
誰もルークなんか要らないって言ってるわけじゃない。
そうやって口にするのは簡単だ。けれど、ルークの目に映るのはアッシュばかりを見てルークを失望する目と、陰口ばかりだけ。
そんなものばかりしか知らないからこそ、大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、今にも泣きじゃくりそうな顔をして、ルークはガイに縋っているのだ。
ルークにはガイしか、居ないみたいに。
あの子にとっての、『 』みたいに。
「そんな寂しいことを言うなよ、ルーク。誰も見てくれないなんて、そんなことはないだろ?シュザンヌ様はルークのことをきちんと見て愛して下さっているし、お前のことが好きなメイドや白光騎士だってたくさん居るんだぞ?そりゃあ中にはアッシュ様の方がって言う人も居るだろうけど、それはみんながみんな、同じ意見だったりする筈なんてないから、そうなるんだ。俺だって同じさ。仲良くしてくれる人も居れば、嫌いだと思って口も利いてくれない相手だって居る」
「ガイが?!そんなのウソだ!」
これは聞き様によってはとんでもなく恥ずかしいような気もするルークの反応だったのだが、ガバッと顔を上げてまで否定するその姿がどうにも可愛いとしか思えなくて、危うく話を脱線してしまいそうだとガイは思った。くしゃくしゃと髪を撫でてやって、そうして笑い掛ける。
子ども扱いされることは嫌いだとルークはよく言っていたが、いつも口先だけで、本当に拒絶することはなかった。
「嘘じゃないさ。俺だって嫌だなって思う相手が居るし、自分が嫌ってる相手に好かれてることなんてまずないだろ?それでいいんだ。誰かに嫌われていても、誰かに好きだと思ってもらえてる。人との関わり合いなんてみんなそういうものなんだ。だから、アッシュ様を見ている人が全てじゃない。ルークを思っている人が、必ず居るんだ。そういう人達にまずは気付いてあげなくちゃ。な?」
十歳の子ども相手に難しい話をしたかとはガイも思ったが、誰からも嫌われているなんてそんな悲しい勘違いをさせたままで居させる方ができなかった。
全部を理解できたわけではないのだろう。
考え込むようにしているルークは少しだけ俯いていて、やっぱり難しかったかと苦く笑いつつ、この話はここで終わりにしようかと手を繋いで歩き出そうとしたのだが、それよりも先に、小さな声で、ルークが言った。
「ガイは、俺のこと好き?」
縋るような瞳だと、まずそう思った。
どれだけ酷い言葉を投げ掛けられたのかガイには分からないけれど、優しい環境が、この子どもにはない。
そしてこの日、想い合っている二人の仲を引き裂くような形で、ルークとナタリアの婚約が成されたことを、この時のガイはまだ、知らされていなかった。
「ああ、俺はお前のことが大好きだよ、ルーク」
「…なら、いい!じゃあずっと一緒な、ガイ!どこにも行くなよ!離れたりしたら、絶対にダメなんだからな!」
答えれば、嬉しそうに笑ってルークはそう言った。
約束だと小指を絡めて、絶対だと笑う。
ルークが浮かべてくれる、その笑顔がガイには何より嬉しいことだった。
無邪気に笑う。
それがどれだけ尊いことかをよく、知っている。
悲しんで泣いてしまったりするような目には合わせたくなかった。寂しい思いはさせない。
それは、あの日確かに交わした約束だったと言うのに。
『…嫌だ…こんなの、絶対に…やだ…っ』
泣きじゃくりながらもそう訴えるルークの声が、耳について離れてくれない。
目を合わせることなんてできなかった。
泣きじゃくるその姿が誰に重なるかなんて、俺は知らない。
その瞳を真っ直ぐ見返すことなんて、俺にはできない。
『いやだぁ…っ!!ガイ!ガイ…ッ!!』
ごめんな、ルーク。
伸ばしてくれるその手を掴むことは、もう、許されていないんだ。