くだらないことで怒ってしまった自分が馬鹿だと思った。後悔しても、もう遅いだけなんだけれど。喧嘩の原因になった紙きれを手にとって眺めてみる。ワインレッドのシャツを着たあいつの顔写真、そのとなりに金色で書かれてる「高杉晋助」の文字。畜生め、私という彼女がいながらホストだなんて。バカ晋助、と名刺に印刷してある彼にむかって言ってみた。当然のことながら返事はない。胸のもやもやしたものは一向におさまらないみたいだ。

もやもや、もやもや。

だけど時間が経てばやっぱり、くだらないことで怒ってしまった自分が馬鹿に思えてくる。彼氏のバイトにつべこべ言うべきじゃないのは分かってるけど、今回だけは話が別だ。
私たちは同居しているとはいえど、お互い立派な社会人であって、朝から晩まで仕事で会えないっていうのに、晋助はここ三ヶ月家に帰ってくるのが遅くなった。帰ってくるとしてもそれは早朝で、シャワーを浴びて一寝入りすると簡単に朝食を済ませて仕事へ行ってしまう。家に帰ってこないことさえあった。晋助の会社は夜十時で解散なはずなのに、こんなに帰りが遅いのはおかしい。帰ってこないなんて尚更だ。不可解な行動が始まって間もない頃は、残業でもやらされてるのかと心配したけれど、その心配は日に日に疑心に変わっていった。私の他に好きな人ができたんじゃないか。つまりは、浮気。決定的な証拠がなかったし、晋助の口から別れ話がでることがなかったから確実だとは言えなかった。
それでも、他に思い当たることがなかったから、そう思い込むことにした。最初こそは落ち込んだけど、自分の仕事でいっぱいいっぱいだった私はそんなことでくよくよする暇なんてなかった。もし浮気が本当なら、晋助から別れを切り出すはずだ。そうなったら、そのときは潔く別れよう。晋助とはあまりしゃべらなくなった。
結果的に予想ははずれたものの、嫌な予感は当たってしまった。彼は私に内緒で夜のバイトを始めていたのだ。部屋に落ちていた名刺が発端で、私たちは大喧嘩。だって、バイトの内容がたくさんの女の人を相手にするホスト。まったくもって笑えない。これなら浮気のほうがマシなんじゃないかとも思った。でもそれもいやだなあ。彼が浮気はしていないことが分かったとき私は安心した。良かった、と。ホストのバイトを怒るよりも先に、自分がまだ彼女でいられることに喜んだ。自分でもなさけないと思う。それでも、晋助を独り占めしたくて、怒鳴った。泣いて怒った。結局私は晋助から離れられないらしい。

ぽつぽつと水が窓にあたる音がきこえてきた。雨が降り始めたみたいだ。朝はあんなに晴れてたのになあ。晋助と喧嘩して泣きまくる私をあざ笑うように、窓から朝日が照りつけてきたのを思い出す。そういえば、晋助は傘を持って行ったんだろうか。気になって玄関を見てみると、しばらく使われていない晋助の黒い傘がきれいにたたんで傘立てに置いてある。やっぱり、だ。喧嘩してそのまま仕事に向かった朝は、晴れてたもんなあ。携帯を見ると相変わらず着信もメールも入っていない。それどころか携帯が表示する時間は深夜一時をまわっていた。おそらく彼は今日もホストのバイトに行っているんだろう。どうしようか少し考えこんで、結局晋助に傘を届けることにした。外に出たら少しは気分転換になるだろうし、何よりはやく晋助に会いたかった。仲なおりがしたかった。
名刺に書いてある住所の店。ここから歩いて四十分くらいのところにある、夜の街。携帯と晋助の傘と名刺を持って家をあとにした。外の空気がやけに冷たく感じられる。




初めてきた夜の街は、ネオンにおおわれていてとても明るかった。そのくせやけに静かで、道にひとけはない。たまに人がいるとしても、店の勧誘をやっている人が立っていて、声をかけてきたり、店から客が出てきて、それを見送る店の人がいたりするだけだ。夜の街はもっと人であふれてにぎわっていると思っていたから意外だった。どうやらこの夜の街自体に人はたくさんいるみたいだけど、みんな店の中にこもって盛り上がっているから、その声がときどき外に漏れてくるくらいで、外からにぎわいは感じられないらしい。夜でもこんなに明るい街なのに、道には人がいなくてやけに静かだから、なんだか寂しくて薄気味悪い場所だと思った。

晋助がバイトをしている店は街の奥のほうにあった。ピンクとライムの色をしたネオンが店の存在を誇張している。晋助には似合わないと思った。あいつは今この店で、あのワインレッドのシャツを着て、たくさんの女の人の相手をしているんだろうか。ああ、やだ。やだなあ。考えるとお腹が痛くなってきた。晋助のバイトが終わるまで、外で待っておこう。さいわい、店の屋根があるから、雨にぬれることはない。

数十分経った頃、店から女の人たちが出てきた。「晋助くん、今日もかっこよかったー」「なんかいつもより機嫌悪そうじゃなかった?」「そうかなあ」「でもあのそっけない感じがいい!」「わかるわかるー」晋助くんって、バカ晋助のことですかね。なんだか喉のあたりがずっしり重くなって、お腹がきゅっとする。無理だ、他の女の子の相手をしてるホストの晋助なんて、考えたくない。女の人たちはタクシーに乗って帰っていった。あ、そうか、タクシーがあった。傘なんて持っていなくとも、タクシーを呼べばぬれずに家に帰れるじゃないか。そもそも今朝あれほど大喧嘩した晋助が家に帰ってくるんだろうか。店に泊まることだってできるから、家には帰ってこないかもしれない。なんにせよ、私の気遣いは無意味にひとしいわけだ。ああ、阿呆らしい。さっさと帰ろう。あ、でも晋助の傘を持って帰るのは面倒だから、置いていこう。あんなホスト野郎を心配した私が馬鹿だった。なかば腹いせにちかいけれど、晋助だって、傘がないよりはあったほうがいいだろうし。


店のドアに手をかける。ギィと音を立ててひらくドアがやけに重たく感じられた。目に飛び込んできたのは、スーツをお洒落に着こなして、大人な雰囲気を漂わすたくさんの男の人たちに、シャンデリア、赤いカーペット、たくさんの花が飾られている大きな花瓶。外装と違う店内はのあまりの豪華さに立ちすくんでいると、近くにいた男の人が声をかけてきた。「初めてのご来店ですか」「いや、あの…」「ではご指名を」男の人の香水のにおいが鼻をつく。こんな男の人たちと晋助が同じなんて、信じたくない。「これを高杉晋助に渡してください」男の人に無理矢理傘を押しつけて、店を出た。お客様!とひきとめようとする声がきこえてくるけど、無視。私は客じゃないし、客として晋助に会いたいわけじゃない。来た道をひたすら走って帰った。


シャワーを浴びてベッドに入った頃はすでに四時を過ぎていた。走って帰ったせいでへとへとだったから、睡魔のお迎えはいつもよりはやい。素直にそのお誘いにしたがって夢うつつをぬかしているとき、玄関の鍵があく音がした。晋助かなあ。


「おかえり」

あいつが帰ってきていた。店には泊まらなかったらしい。部屋に入ってきたの晋助はワインレッドのシャツじゃなくて、朝仕事に着ていったスーツ。ああ、私の知ってる晋助だ。


「雨、降ってた?」
「降ってた」
「店まで傘届けに行ったんだよ」
「…」
「傘、使った?」
「いや」
「…そう」
「タクシーで帰ってきた」

やっぱり私の気遣いは無意味だったってわけだ。馬鹿馬鹿しい。冷蔵庫から水を取り出す彼を見つめる。わりと普通な表情に見えるけど、あれは絶対に不機嫌だ。ながい付き合いだからよく分かる。不機嫌だけどそれを顔に出さないようにしてる感じ。そっけない態度なあたり、まだ私を許していないようにみえる。ああ、仲なおり、したいのに。

「晋助、」
「…」
「怒ってる?」
「別に」
「今朝の」
「…」
「悪かったなって」
「…」
「…」
「店、来たのか」
「まあ、入っただけ」
「そうか」
「店からでてきた女の人たちが、晋助のこと、かっこいいって」
「それがなんだ」


やばい、やばいやばいやばい。さっきの言葉はまずかったらしい。声のトーンが変わってあきらかに不機嫌全開になった晋助は、凄まじい気迫で私が座ってるベッドに近づいてくる。この距離がつまる前に、謝らないといけない。本能が自分にそう伝えてくる。謝るのは少し癪だな、なんて考えている暇もない。

「ご、ごめん」
「…」
「わたし、」
「しゃべんな」

晋助との距離、ゼロ。ものすごい力でベッドに押し付けられて深いキスをされる。だいたい何で晋助が怒ってるんだ、怒りたいのは私のほうだ。なんでそんなバイトしなくちゃいけないの。いつになったらやめてくれるの。それとも私に愛想が尽きたの。キスは苦しいし、晋助のことはよく分からなくなってくるし、なんだか腹が立ったから、近くにあった枕で晋助の頭をたたいた。ますます腹が立ったのか、晋助はもっともっと深くキスをしてくる。まるで、はなしてやるもんかと言っているみたいだ。むかつくけど、そういうの、嫌いじゃないよ。そういえばキスなんて何ヶ月ぶりだろう。晋助がバイト始めてからしてないから、三ヶ月はしてないね。切ないような嬉しいような、なんだかきゅっと胸が苦しくなった。やっと唇がはなれて、私を見下す晋助に抱きつく。ちょっと驚いているようだった。晋助が好きだよ。自分でもよくわからないけど、晋助のこと考えるだけで気持ちはぐしゃぐしゃになって、ねぇ意味わかんないでしょ。ほんと、私も笑えてくるよ。服をたくし上げる手に身をまかせて、目をとじた。男用の香水のにおいが鼻をかすめる。あの男の人たちと、同じだ。私が知ってる晋助なはずなのに、私はこの晋助を知らない。しあわせなはずのに、なんだか切ない。無遠慮に身体を這う手がにくたらしく思えた。




目が覚めて、けだるい体を起こす。時計の針はもう八時を過ぎていた。まだ寝てたいけど、仕事に行かないといけない。部屋を見渡しても晋助はいない。脱ぎ散らかしてある服や下着を片づけながら、晋助がどこにいるのか模索する。今日は土曜だから、晋助の会社は休みだし、バイト先の店も朝は営業してないはずだ。となると心当たりの場所はどこもない。一体どこに行ったんだろう。バイト始めた理由とか、バイトやめる気はないのかとか、いろいろききたいことあったのになあ。シャワーを済ませ、支度をして家をでた。時間ないから、朝食はいいや。玄関の鍵をかけたところで、ドアの隣においてある黒い傘に気がついた。傘からつたった水滴が、コンクリートの地面に水たまりのシミをつくっている。晋助のやつ、傘使ってないとかタクシーで帰ったとか、嘘ついたな。どうせ傘さして徒歩で帰ってきたくせに。素直じゃないひと。空をみると薄い雲のあいだから太陽がのぞく。曇りのち晴れってところかな。




出勤を終えて帰路につく。午後五時、久しぶりにはやく仕事が済んだ。家に晋助はいるんだろうか。別にいなくても構わないけど、いてほしいな、なんて。せっかく時間があるんだし、久しぶりにシチューでも作ろうかな。晋助が初めてほめてくれた私の手料理、これは自然と力が入る。スーパーによって材料を買いながら、あいつの嫌いな人参はしっかり煮こんで柔らかくしようとか、キノコも嫌いだからいれるのよそうとか、いろいろ考えた。手にとったマッシュルームをしぶしぶ手放す。私はマッシュルーム好きなんだけど。なんだ、結局私って晋助のことしか考えてないじゃないか。くやしいなあ。


玄関のドアをあけると奥から、おかえり、と小さな声がきこえたから、ただいま、とだけ返しておいた。あんなことがあったとはいえ、まだちゃんと仲なおりしていない二人のあいだには、気まずい空気しか流れない。これからシチュー作るからねといえば、まだ作らなくていいと言われた。今からじっくり煮込みたかったのに。

「来いよ」

ぽんぽんと自分の隣をたたく晋助に少し動揺する。素直にしたがったほうがいいものか。「話がある、ここ座れ」これは晋助の機嫌を損ねる前に素直に彼の隣に座った方がよさそうだ。話って何だろうな、今さら別れ話とかだったら笑えないな。あっでもそれはそれで阿呆らしくて笑えてくるかも。体重をソファにあずけると、クッションが少し沈んで体を受け止める。なんだか余計に心もずっしり沈んでしまいそうだ。


「ほらよ」

いきなり突き出された箱に躊躇して、首をかしげてしまった。こんな箱見覚えもないし、まして晋助からプレゼントなんて考え難い。どうしたものかと思っていると、晋助はフンと鼻で小さく笑って、その箱を一人で開け始める。なんだ、やっぱりプレゼントとかじゃないのか。包装をきれいに剥がしていく晋助を見ていると「お前のだ」なんて言ってくるからびっくりする。なにそれ、どういうことなの。考えているあいだに晋助が器用に箱の包みから取り出したのは、紺色のような黒色のようなケースだった。ついつい驚いてしまって目を見開く。映画やドラマでしか見たことないけど、これが何なのか、さすがに私でもわかる。だいたいの場合このケースにはきれいな指輪が入っていて、男の人が一世一代の勇気をふりしぼって…でもまさかそんな、晋助がそんなことを、するはず、な


「結婚しよう」


どこぞの恋愛ドラマの主人公みたいなセリフを言って、開けたケースの中にはやっぱり指輪があった。ダイヤが上品そうにきらきらと光っている。晋助がこんなことするはずない、するはずないけど、してくれたらいいな、でもやっぱりありえないなんて思ってた私の想像をうまく裏切ってくれたようなそうでないような。返事なんて言葉にならなくて、嬉しくて嬉しくて晋助に飛びついた。何だか映画のヒロインになった気分だ。抱きしめる晋助からは、もうあの香水の匂いはしない。「バイトは昨日で終いだ。今まで悪かったな」こいつは、この指輪のためにあんなバイトを始めたのか。なのに私は晋助を一方的に責め立てて、一人で勝手に悲しくなって晋助のせいにして。晋助が好きで好きで仕方なかったくせに空回りばかりだ。ああ、本当に情けないや。いろんな思いが込み上げて、あやすように背中をさする優しい手にさそわれて、嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちとで涙がでてきて止まらなくなった。


「愛してる」


ぼそっとつぶやいた晋助が抱きしめる力をつよめたから、私も負けじとぎゅっと抱きよせる。その言葉がこんなにもいとおしく思えたのは、はじめてだよ。バイトだって喧嘩だって、もうどうでもいいや。全部全部気づかなくてごめんね。小さな喧嘩に腹を立てて反抗するために嘘ついたり、でも私のこと優しく受け止めてくれたり。子供っぽいんだか大人なんだか分からないけど、そんな掴めないあんたが好きすぎてどうしようもないみたい。やっぱり悔しいなあ。「おい、まだ返事もらってないぜ」してやったりの顔でにたりと笑う彼は本当に意地が悪いというか、自己中というか。まったくこんな旦那さんを持つと将来大変そうだ。晋助の胸倉をつかんでひきよせて、キスをした。不意打ち攻撃におどろく晋助を見物して、今度は私がにたりと笑う番。バカ晋助め、イエス以外に答えなんてあるかっての。





大気圏まで追いかけた鼓動






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