静雄から逃げる途中で鳴ったチャイムに授業の存在を気付かされたのはもうこの際無視しよう。教師の目から逃れるように階段を駆け上がり、この時期に滅多に訪れない場所の扉を開いた。瞬間、わたしに向かって風が通り抜け、それに顔を顰める。寒い。でも、わたしを呼ぶ声が近付いてくることを拒む身体が一歩、また一歩と足を進ませる。まだ冬の匂いが残る外界はこれでもかとわたしの身体を震わせて、全身が強張る。踵を返せばさっきの声と対面する羽目になるし、けれどこの逃げ場のない空間に足を踏み入れてしまったわたしはまさに袋のネズミだった。出来る限り遠くに駆けてそこにしゃがみ込む。身を縮ませれば多少なりとも寒さは和らぐ。自分で自分を抱き締めるように両膝を抱えればまた少しだけマシになる。ああ、何やってんだろう。捕まるのは時間の問題なのに。 「そんな隅っこで何してんだよ」 呆れた声が降りかかる。ほら、すぐに追いつかれた。そもそも、静雄が気付かないのがいけないのだ。だからわたしがあんな恥ずかしい目にあって、こうなっているのだ。ああもう近くに静雄の存在を感じるだけで頭が混乱する。顔を膝に強く埋めて、何も考えないように何度も何度も頭を空にしようとした。でも、出来ない。そんなことをしても背中に感じる影はいなくならない。 「おい」 「近付くな鈍感」 「何がだよ」 「何でみんなの覗かなかったのよ馬鹿」 「あのなあ、さっきから人のこと鈍感だの馬鹿だの言いやがって、なんなんだよ」 「…ごめん」 責任転嫁もいいところだ。静雄はなんにも悪くない。鈍感だし馬鹿かもしれないけど、今はそんなことが言いたいんじゃない。可愛くないなあ、わたし。女子アピールしておきながらこの姿はあまりにも幼稚で見苦しい。 「いや、謝んなくていいからこっち向けよ」 「やだ」 「じゃあ戻るからな」 「…それもやだ」 「だったらほら、」 わたしの肩を大きな静雄の手が触れる。それだけで大きく飛び上がったわたしに驚いたのか、静雄はすぐに手を離した。ゆっくりと正面に静雄を捉えようと振り返れば、わたしに目線を合わせるように胡座を掻いてむすっとした彼がいた。 「で、なんだよ。さっき何か言いかけてたろ」 「あれはもう、いいよ」 「んだよ」 本当はよくないくせに。目の前の静雄に言いたいことがいっぱいあるくせに。 折角二人きりなのだ。この機会を逃したらいつまたやってくるかわからない。今しかない。進みたいと思っているなら、静雄がほしいならもう、今しか。 「…ねえ静雄」 「あ?」 「ハートのチョコ、見てない?」 「ああ、入ってたな。それがどうかし…」 あ、と口元を隠す静雄。みるみる動揺が顔に現れてくる。この反応はきっと、気付いてくれた。大きく目を開いて、咄嗟に逃げるように逸らす視線。前髪を掻き上げる仕草。嬉しい、全部の反応が嬉しい。 この先はどうしよう。気付いてくれたからといってそこで終わりじゃない。まだ一歩足りない。でも、ああ声に出ない。わたしの気持ちが、ハートの意味が言えない。大きく肩を揺らして息を吐く静雄がわたしを捕らえる。さっきまでの可愛らしい静雄じゃない。見られている。すると、わたしの気持ちに気付かれたことが急に恥ずかしくなり目を逸らす。両手を地面についた静雄が僅かにわたしに近付いた。 「名前、」 優しいけど強い声色がわたしの名前を紡ぐ。呼ばれ慣れている筈なのに、初めて名前を呼ばれたような嬉しさと気恥ずかしさがわたしの耳を熱くさせる。そして静雄はわたしの顎を掴んで無理矢理視線を交わらせてきて、いつも以上に近い静雄の瞳に目が泳ぐ。 「そっぽ向くなコラ」 「い、痛い」 「お前が見ねえからだ」 はあ、と溜め息をついてわたしを解放すると、その手が後頭部を乱暴に掻き乱した。あちこちに乱れて見え隠れする襟足に妙な色気を覚える。わたしの目はどうやらおかしくなってしまったようだ。 「あんなんでわかるか」 「だって…」 どうせ皆で見るかなって。そしたら静雄、気付いてくれるかなって。そう言うと静雄は少しだけ含み笑いをした。確かに、よくよく考えるとそれは子供っぽすぎた。笑われるのも無理はない。でも、本当に勇気がなくてそれしかできなかったのだ。 「残念だったな」 「ええ、とても」 それは臨也たちのせいなんだけど、今更彼らを怒る気はない。過程がどうあれ、今こうして静雄と向き合って話ができているのだから。そして、もう少ししたらわたしたちはきっと――。 「自惚れてもいいのか?」 「…うん」 「俺のこと好きなのか?」 「え、あ、」 「ちゃんと言ってくんねえとわかんねえよ」 「だって今自惚れていいかって聞いたじゃん」 「それはそれ、これはこれ」 「…そうだよ」 「…そうか」 「静雄は…?」 「今日バレンタインなんだろ?だから返事はホワイトデーにしてやる」 「ええ、やだ」 「冗談だって」 余裕が出てきたのか、静雄はわたしの頭を撫でて笑った。優しく撫でる手が心地よくて、やめてほしくないと願った。でも、静雄を見たらその手は離れてしまった。名残惜しく感じて髪を整えるように自分で撫でてみても、少しもあたたかくなかった。 ああくそ、と悪態をつく静雄の腕が伸びてわたしを捕まえる。体勢を崩したわたしは倒れこむように静雄の胸の中へ。きつく抱き締められた身体が熱い熱い熱い。身じろぎすると余計に強くなって身動きが取れなくなる。どうしたんだろうと心臓をばくばくさせながらも、瞳の端で捕らえた静雄の頬は少しだけ赤くなっていた。 「静雄?照れてる?」 「るせえ」 「大丈夫だよ、わたしもだから」 「何が大丈夫なのかわかんねえ」 それっきり静雄もわたしも口を開かなくなり、ただ互いの体温を確かめるように何度も抱き直したり背中を撫でたり。その間ずっと胸の詰まる感覚が消えなくてすごく苦しかった。でも、それがとても幸せでいつまでも感じていたいくらいで静雄から離れられなかった。 確かにここは屋上で、まだ止まない北風がわたしたちを時折吹き抜けているというのにちっとも寒くなんかなかった。静雄のあたたかさはこんなにも、わたしを満たしてくれる。 「ねえ、授業どうしようか」 「もういいだろそんなの」 「でも確か小テストが」 「んなのより、今はこうしてたい」 「そだね。あ、」 返事。そう言うと静雄は黙り込んでしまった。静雄の気持ちなんて態度でわかっているのに、わたしはずるいかな。でも、聞きたかったんだ。大好きな静雄の声で言ってほしかったんだ。そして、ぽつりと小さく落とされた言葉にわたしは口元を緩ませた。静雄に気付かれないように胸に顔を押し当てて、静かに。 (ねえドタチン、写メ撮っていいかな) (…お前はマジで趣味悪いな) (いやだって撮っておけばシズちゃんの弱みになりそうだし) (ああいいなあ!僕もセルティと!) (静かにしろ岸谷、気付かれる) (それにしてもあの二人、いつまでああしてんのかな。いい加減気持ち悪い) (好きにさせとけ。もう行くぞ) (ええ、じゃあ写メを(やめろ臨也) 130214 |