朝から出掛けてくると言ったっきり彼女は暫くの間帰ってこなかった。俺はデスクワークがあったため家を出るわけにもいかず、昨日の夜から徹夜で作業をしているというのに労いの言葉の一つも残していかなかった。気に食わない。ただその一言に尽きる。何処で何をしてるのか、簡単に調べ上げることは出来るけれど、それをしてしまえばきっと俺はこの仕事を放棄して家を飛び出しているだろうからあえてしなかった。でも、それ以前に気になって仕方ない俺の頭はキーボードを打つ指さえも止めてしまって作業は行き詰まっているわけなんだけど。

「波江さん、コーヒー」
「それくらい自分で淹れなさいよ」
「冷たいなあ全く」
回らなくなり始めている頭を起こそうと今まで縛り付けになっていた椅子から腰を上げる。流石に疲れたな、大きく伸びをすると自然と欠伸が出た。第一、なんでこんな時に限って急ぎの仕事が入るのさ。報酬が良くなかったら確実に断ってるところだ。資料の整理をしている波江を横目に、コーヒーを淹れてソファに腰掛けた。そして、妙な違和感を感じた俺は振り返り再度波江に視線を向ける。なんだ、この空気は。
「何かいいことでもあったの?」
「誠二に会うのよ、あの女もいるけど」
「へえ、それはそれは」
通りで口元が緩いわけだ。気持ち悪い。コブ付きなのが気に食わない様子だったけど、それでも弟のことを想像しているのか恍惚とした表情を浮かべてはぼそりと何度も「誠二」と弟の名前を口にしていた。明らかに二極化している俺と波江の空気。同じ空間にいるだけでも気が滅入ってしまいそうだ。

そもそも、俺が彼女のたった数時間の外出に対してここまで気にするなんて正直どうかしていると思う。だけど実際のところ何故今この時彼女がいないのか疑問でならなかった。この哀れな秘書でさえ愛する相手と会おうとしているのに。普通ならそんな相手と過ごしたいとか思うのではないのだろうか。そして俺がこんなことを思ってしまうあたり、彼女に対する執着心は常軌を逸しているのは間違いない。
「私、もう帰っていいかしら」
「は、まだ昼過ぎじゃん」
「今の貴方と同じ空間にいると私にまでその苛々が移りそうなのよ」
「俺が苛ついてるだって?」
「顔に出まくってるわよ。まあ無理もないわよね、バレンタインだっていうのに彼女はプレゼントの一つも寄越さずに出掛けてしまったんだから」
「うるさいなあ」
「まあ精々頑張ることね。じゃあ、そういうことで」
何を頑張れというのだ。そうして俺の許可を得る前に波江は鞄を肩に掛け、それとはまた別に高級菓子店の袋を手に俺の部屋を後にした。去っていくその後ろ姿が心なしか浮かれた足取りであることに気付いて反射的に舌打ちした。

俺がそんな行事に敏感になってることに、俺自身が一番驚いてる。バレンタインなんてものは一種の商業戦略であって実に馬鹿馬鹿しいことこの上ない行事だ。それなのに世の中の女子共はチョコレートだのなんだのを買い占めて意中の相手や最近では友人にまでそれを渡し回っている。何が楽しいのかわからない。
くだらないと鼻で笑いながらも、俺の彼女が俺に何も渡さずに出掛けてしまったことに不満を抱いていた。事前に準備しているような素振りも見せなかった。彼女も俺と同じようにこの行事に興味がないということなのだろうか。それなら仕方ないとは思いつつも、微塵も期待してなかったわけじゃない。

一人きりになった部屋でコーヒーを一口喉に流し込み、溜め息をついた。どうして俺はこんなにも一人の人間に固執してしまっているのだろう。

130212
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