06. あの、可笑しな昼食会が開かれてからというもの、わたしと折原臨也の距離はぐんと近付いた。彼の言った"親睦会"というのはあながち嘘でもなかったようで、彼はよくわたしの目の前に現れるようになった。図書室でのみだったけれど。 背徳者に微笑みかける いつものように野次馬になっていたわたしに、手が振られる。何を自惚れているのだと思われるかもしれないけれど、それは自分に向けられていたのだと確信していた。弟が暴れ回る校庭に目もくれずそちらを見ているのなんてわたしくらいしかいないだろうから。 折原臨也が静雄に直接手を下すことは少ない。それは最近見ていてわかったことだ。 静雄にちょっかいを出してくる見知らぬ学生たちを見て、折原くんは何処だろうと疑問に感じたのが始まりだった。二人が暴れてる様子を見るのが激減したことに不謹慎ながらも残念がっていたのだけど、ある日わたしは遠くからの視線を感じた。視線はどのくらい遠くの距離まで感じることができるのかはわからなかった。でも、それは確かにこちらを向いていた。その視線が下に落ちる。そうして弟の暴れる様子を高みの見物でもするかのように校舎内から傍観していたのは、紛れもない折原くんだった。彼のその様子からして、あの生徒たちを静雄に仕向けたのは彼だろうと密かに思った。 「また俺のこと見てたでしょ?」 「ん、楽しそうだなあと思って」 「まさか名前さんまで俺があの他校の連中を唆してシズちゃんに喧嘩をふっかけさせた、なんて思ってる?」 「え?違うの?」 「さあ、それはどうだか」 近付いたとは言っても、こうして彼と密会めいた会い方をするのはあまり好きではなかった。それでも彼が不定期に図書室に現れるものだから回避のしようがない。読書をする場所を移すことを考たこともあったけれど、結局ここが一番落ち着くのと自分の本能に従った結果そこを動けずにいた。けれど、静雄に後ろめたさを感じないというわけではなかった。だから、あまり好きではない。 だけど、嬉しい。そんな矛盾だらけの気持ちが渦巻いているのを知ってか知らずか、彼はいつものように目の前の席につく。少なくとも害はなかったし、拒む理由もなかったのでこうして特に深い内容のない会話をする。いくら会話を重ねても折原くんが一体どのような人間なのか理解出来ずにいた。それでもこの僅かな時間が密かな楽しみとなっていた。 「本当に読書が好きだよねえ、名前さん」 「そうね、面白いから」 「ふーん。まあ、わからなくもないけど」 そうして折原くんは黙り込んだ。わたしは特に気にせず文章に目を走らせる。話をしたい気持ちはあるにはある。でも、何を話したらいいのかわからない。下手なことを言って折原くんの機嫌を損ねたくなかった、それが一番の理由。そうしなくても折原くんが勝手に口を開いてくれるのでわたしはそれに頷くか軽い返事をするだけでよかった。でも、今日の折原くんはなかなか口を開かない。どうしたんだろう。それでも、わたしは彼と同じ空間にいるだけで満足だった。 「何読んでるの?」 「太宰」 「やっぱり」 「やっぱり?」 「名前さんは大衆文学よりも純文学が好きそうだなと思ってたから」 「そう見えるんだ」 「ん、見える」 そうして小説に目を落としていたわたしの視界に入ったのは、折原くんの右手。遮るように出された手に疑問を感じ、顔を上げると同時にわたしの手から文庫本が離れる。今や彼の手中に収まったそれは何故か宙を舞い、彼の背後に落ちていく。バサリ。静寂の中でやけに大きな音を立てて落ちたそれが他の生徒の目に入るも、誰一人として拾いに足を踏み出そうとすることはなかった。それが折原臨也の仕業ということが誰にでもわかることだったから。 「ちょ、ちょっと折原くん」 「気に食わないんだよねえ。親に教わらなかった?話をしてる時は人の目を見ろって。それとも、俺と目を合わせると何かマズイことでもあるのかな?」 「や、あの…ごめん」 「いいんだけどさ、」 そう言って自ら放り投げたわたしの文庫本を拾いに身体を動かし、埃を払うような仕草をしてわたしに差し出すと、再び席に座り直した。 「少なくとも、俺がいる時くらいはこっちの世界に戻ってきたら?」 「え、」 「俺と話してる方が確実に面白いってこと」 「そ、そうだね…」 今日の折原くんは少しだけ、おかしい。いつもなら弟のことばかり話してくるのに、今日はわたしのことばかりだ。それに、あんなこと言われると少しだけ期待してしまう。静雄の姉であるわたしに好意を抱くことなどあり得ないとわかっていても、だ。そもそも、こうして彼が時折やってきては話しかけてくれること自体がわたしの中で期待に繋がる要因の一つになっている。どうして、どうして。そんなことを考えていても、彼の口から答えは一切出てこない。 「動揺しているみたいだね、可愛いよ」 思いも寄らない一言に、一気に熱が上がる。おかしい、おかしいおかしい。そんなことを言われたことなんてあまりないことだし、それが折原臨也となるともう奇跡と言っても過言ではないほどの事態だ。咄嗟の抵抗で思わず声を荒げてしまうが、彼が口元に人差し指を宛てがう姿を目にして唇を噛むようにして黙り込んだ。 やだ、もう、恥ずかしい。 「ここは図書室なんだから、静かにしなきゃダメだよ。それに、俺は至極真面目だよ?不細工な奴にわざわざお世辞でそんなこと言うわけがない」 ますます自分の顔が熱くなっていくのを感じる。沸騰しそうになるというのは、まさにこういうことなのかと自分自身初めての体験に驚きを隠せない。熱すぎて、何かで顔を扇ぎたくなるほどだった。でも、それをしてしまえば折原くんに動揺しているのが丸わかり――って、もう遅いか。 「あのさあ、名前さんって俺のこと好きでしょ?」 畳み掛けるように折原くんはわたしを攻める。もう、いい。何も考えたくない。いや、考えられないの間違いだ。 「ほんっと、わかりやすいんだから。でもさ、正直俺はどうしたらいいのかわからない。好きか嫌いかと問われれば好きと答えるし、興味もそれなりにある。いや、かなりかな。けれど、相手は何と言ってもシズちゃんのお姉さんだし?だったらどうして近付いたのかという質問の答えは、やっぱり興味があったからという一言に尽きるんだけど」 わたしの様子を確かめるように口を止め、心を見透かすように微笑みかける。おかしいのは、少しだけじゃない。 「もし仮にシズちゃんに気持ちがバレたら大変なことになるし、俺だってタダじゃ済まされないだろう。けど、そんな立場をわかっていても俺を好きになってくれた名前さんにはそれなりに覚悟があるのだろうと思っているし、それならば俺も応えてあげたいと思ってるんだけど、どうかな」 淡々と話すには惜しいくらいの言葉がたくさん詰め込まれていた。けれど、それを彼は淡々と紡いでいった。わたしは異論を唱える隙も与えられず――と言うか、異論などなかったのだが――必死に耳に入れることしかできなかった。 彼は恐らく最初から気付いていたのだろう。あの時、わたしたちが初めて目が合ったその瞬間。わたしが彼に対して感じた想いを。 「ああ、ごめん。つまり、付き合おうってこと」 何故なら、彼はその時も今と同じような笑顔を刻ませていたから。 130310 |