「あれ、折原」
初めに言っておくけど、これは全くの偶然だ。幾ら情報屋をやっているからといって特定の人物の24時間を把握しているわけでもないからこうして彼女の声が背中から飛んでくることまでは知る筈がない。けど、俺が今この場にいる理由は彼女にあるわけだからちっとも驚きはしなかったし、寧ろ探す手間が省けて好都合と言ったところだろうか。
こうして声をかけてくるあたり、傍にはあいつがいないのだろう。ついさっきまで張り巡らせていた緊張感と警戒心を手放し、気持ちを弾ませ振り返った。ふわりと翻ったコートを押さえつけるようにポケットに手を差し込んで、彼女と向き合う。
「やあ名前」
彼女は眉を顰める。一方で俺は至極上機嫌だった。彼女は俺の姿を細くした目で一瞥して、溜め息を漏らした。恐らく彼女はよく池袋に来れたものだとでも思っているのだろう。そしてその一番の理由が彼女の恋人にあるということは、今となっては周知の事実。たった一人の男のせいで離れるには惜しいくらいに面白いことが満ちあふれている街だったけど、確かに仕事はやりづらくなった。だからといって面白いことを見逃すわけにはいかなかったし、露西亜寿司の大トロだってたまに食べたくなる。目の前の彼女に会いたくなることだってある。俺だっていつも何か企んでいるわけじゃない。そこは同じ人間としてわかってもらいたかったけど、今更何を言っても無駄なのはわかっていたからどうでもよかった。
「仕事?」
「いや違う。名前に会いたくなってさ」
「相変わらず感情が込もってないわね」
返事をする代わりに乾いた笑いを返した。彼女は気付いていないけれど感情が込もっていないわけじゃなかった。感情を込めないように振る舞うのが得意なだけだ。そして彼女がそれを俺の本心だと受け止めるのは俺の思惑のうちでもある。俺の感情なんて、彼女に知れたところで何も意味がない。
君こそ何してるの、と言おうと口を開こうとした瞬間、彼女の手元に目がいく。両手一杯にぶら下げたスーパーの袋。その中にはきっと二人分の食材が入っているのだろう。それだけでどうにもならない重苦しい不快感が押し寄せてくる。
「持とうか?」
「いいわよ、てか、家までついてくる気?」
「うん。だから」
「あのね折原、わたしといていいことなんて一度も――」
ないでしょ、と言い終わると同時に彼女の手からそれを引ったくった。彼女は肩を落とし更に大きな溜め息をついた。けど、歩き始めた俺に黙ってついてくるのも俺の手からそれを奪い返さないのも彼女の意志だ。彼女の意志が俺と傍にいることを選んでいる。これは俺が彼女の弱みを握っているとかナイフで脅したとかではない。つまり、彼女は俺の好意に単純に甘えているのだ。
「大丈夫大丈夫、シズちゃんが来たら捨てて逃げるから」
「捨てられたら困るんだけど」
「じゃあ名前が助けてね」
「や、それはできない」
できないという言葉には二つの意味が込められているのだろう。物理的に彼女があいつに敵うわけがない。それに俺を庇うことであいつを余計に怒らせてしまう。だから彼女はできない。なにも。俺があいつに追われるのをただ見ているしかできない。

「折原、本当に何しにきたの?」
「言ったじゃん、名前に会いにきたんだって」
「いつもいつもそう言ってるけど、なんでわたしに会いくる必要があるの?」
「知らない方がいいと思うけど」
俺はきっと、無意味な行動はしない人間だと思われている。ただ会いたくなったから、声が聞きたくなったから、そんな恋煩いも彼女にはきっと通用しないし、口にした瞬間に声を大にして笑われるだろう。そもそも俺が特定の人間に恋をするなどあり得ないと思っているだろう。俺も一人の人間だ。彼女と同じように恋もするし、あいつと同じように彼女が好きだ。
初めはあいつが幸せそうにしてるのが気に食わなくて彼女を引き離そうとしてたけど、本当の理由はそうじゃなかった。けど、それに気付いた頃には彼女はあいつの隣で笑っていて、あいつ以上に彼女が幸せそうだったから何も出来なかった。人の歪んだ顔を見たくないと思ったのは初めてだった。

「それでも知りたいって言ったら?」

彼女は卑怯だ。もしかしたら俺以上に残酷かもしれない。
大通りから外れた路地。その場に佇む彼女。雑踏のざわめきも遠くなったこの場所で、彼女の瞳が俺を射抜く。俺は馬鹿だ。彼女がこの強い眼差しで俺を見つめる意味すら気付いていなかった。でも、今更気付いたところでもう遅い。

近付いてくる轟音。地面には不自然に作り上げられた影が急速に俺に襲いかかろうとする。見上げなくてもその影が何かくらいわかってる。俺はスーパーの袋を手放した。そして、背後から近付いてくる影に気が付かない彼女の腕を引き抱き寄せる。目をぱちくりとさせる彼女に顔を近づけ、離れても尚唖然としてまじまじと俺を見つめる彼女に苦笑した。瞬間、俺と彼女のすぐ傍に自動販売機が落下して地面をえぐる。彼女がびくりと大きく身体を震わせ振り返るその隙に、俺は走った。

怒声が背中に投げかけられる。けど、いつまで経ってもあいつの足音は俺を追い掛けてはこなかった。今頃捨てられたスーパーの袋を拾い上げて彼女と仲睦まじく家路につこうとしているのだろう。

きっと何も変わらない。これから先も、ずっと彼女はあいつの傍で笑っているだろう。幸せそうにあいつと触れ合うのだろう。

俺が残した唇は、そんな二人への最初で最後の抵抗だった。

130120
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