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あるいは……フィズと出会ったその日から、その境界線は見えていたのかもしれない。
ただ、それが境界線だとわかるかわからないかというくらい遠かっただけで。
そしてそれは日を追う毎に距離を縮めては離れを繰り返し、しかし確実にその距離は縮まっているのだ。

……はっきり言おう。
私は、怖いのだ。
この境界線を越えることが。
この関係を、壊してしまうことが。

しかし、私にとって絶対的に恐ろしいことはそんなことではない。
(壊れた関係など、修復する気さえあれば時間は掛かろうとも何とでもなる)

「碧翠さ、」

「私はね、フィズ。怖いのだよ……いずれ私自身が"碧翠"という名に縛られ、私でさえ本当の名を忘れてしまうことが」

降り積もる雪で覆い隠された草木の芽のように。
埋もれたままの"本当の名"は、やがて誰からも……私でさえも……忘れ去られ、凍てついてしまうのか、と。
私にすら名を明かさずに逝った先代のように。

しかし、この境界線を越えることができなければいずれは私も先代と同じ運命――こういう言い方は好きではないが――を辿るだろう。

こんなにも感傷的になるのは、雪のせい……だろうか。
つい、本心が……そう、本心が口をついた。

「……戯言だった。中へ戻ろう……、」

しばしの沈黙。
その沈黙に若干の気まずさを感じ、踵を返そうとした、そのときだった。

「……!」

不意に、背後から抱きすくめられる。

「碧翠様……。私にとっては、誰よりも美しくて誰よりも守りたい大切な人です。それでもそれを恐れるならば、私の中にその名を刻みましょう。何度だって貴女の名前を呼びましょう」

「フィ……、」

「教えて、いただけませんか。貴女のもうひとつの……いえ、本当の名を」



(その境界線を越えれば)
(もう、越える前には戻れない)



――否。
境界線など、もうとっくの昔に。

「――雪(ススグ)」

「え……、」

「雪、と書いてススグだよ。私の、私だけの名は。この忌まわしい運命が私の代で終わるように……と、先代が付けた名さ」

呟くようにそう告げれば、背後で柔らかく笑う気配がした。

「雪……、美しい貴女に合う素敵な名前ですね」

「よしておくれよ、恥ずかしい」

初めてのことに顔に熱が集まって仕方ない。
火照る顔を背ければ、小さくくすくすと笑う声が聞こえた。
これでは、いつもと逆ではないか。



「……フィズ」

「何ですか?」

「さっき告げた名は、嘘だ」

「えぇっ?!」

「……というのが嘘だ。悪かった、そう睨むでないよ。少しからかっただけさ」

照れ隠しについ冗談が口をついたが、しかしこれ以上すれば本気で怒られそうな気がしたので撤回すれば、小さくため息をつきながらもさほど怒ってはいない声が返ってきた。

「まったく、貴女という人は……」

「悪かった。……さあ、そろそろ戻ろう。腹が減って仕方がない」

「そうですね。もう用意はできていますよ……雪」

突然呼ばれたその名に驚き目を見開けば、穏やかな瞳に少しだけ、悪戯っぽい色が宿っていた。





越えてしまった境界線のトーテムポール。
もう後には引き返せない、引き返すつもりもない。

名も知らぬ先代の、そして更に連なる碧翠たちよ。
見たか、我等が背負いし罪は今雪がれた。



……願わくば。
このような運命を背負うのは我等だけでありますように、と。

ふと空を見上げれば、夜空には満月が煌々と輝いていた。


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