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「レーイー君!」

あれから文字通り転がるように全力で会場を飛び出し、そうしてあっという間に目的の場所へとたどり着いた。
勝手知ったる、と言わんばかりに勝手に合鍵を使って扉を開け、通い慣れた部屋へと向かう。

コンガチャ、とノックをして相手の返事を待つ前に部屋の扉を開けると、ベッドの上では熱のせいで虚ろな目をした玲士がぼんやりと扉の方に視線を移す。
(当然、いつもは「返事を聞いてから扉を開けるように」と言われているが、そんなことは澪葵の知ったことではない)

「…………澪葵?」

「ああ、レイ君!大丈夫なの?!」

「いや、まあ……それよりも澪葵、お前、試合、」

本来ならば今頃会場で出番を待ち、そして華やかな舞台に立っているはずの愛しい恋人が、どういうわけか自分の目の前にいる。

「ああ、うん。だいじょぶだいじょぶ。あたし出番あとの方だし。だから、レイ君のお見舞いにきたの」

「そうか……ゲホッ。それは悪いな」

いくら出番があとの方とはいえ、こんな時間に家に来ること自体がおかしいのだが、そこはそれ。
澪葵だから、ということで深く気にしないことにした。
いちいち気にしていては、それこそ身が持たないのは今までの経験からの判断である。

「ねー、ところでレイ君。ご飯とか食べた?」

「いや……食べていない」

それどころか、体調を崩し始めた昨日の晩からそういえば何も食べていなかったことに気付き、気付いた途端に僅かながら空腹を感じた。

「そうなの?じゃ、あたしが作ってあげる」

そんな玲士の様子を見て取った澪葵の提案に、熱のせいでいつものように的確な判断のできない玲士は小さく頷いた。

「ああ、すまない」

「栄養たーっぷりのもの作ってあげるから、待っててね」

「ああ」

そうして玲士は、何の疑いもなく澪葵をあっさりと台所へ送り出した。
このあと、自分にすばらしく恐ろしいことが起きるなどとは予想もせずに。


玲士を部屋に残し、台所へとやってきた澪葵は気合いを入れて腕まくりをする。

「さって…何作ろ。冷蔵庫の中のもの勝手に使っていいとは言ってたけどー……」

とりあえず、冷蔵庫を物色する。

「んー……にんじん、ピーマン、キャベツ、リンゴ、卵に……あ、チョコもあるー。なんかいろいろあるしー、おいしいの作れそうじゃん」

ご機嫌になった澪葵は鼻歌などを歌いながら、次々に野菜達を調理していった。
台所に立ちこめる匂いの変質に、気付いたものはいない。
くつくつと鍋で煮込むこと数分。
満足げに澪葵は鍋を持って、玲士の待つ部屋へと向かった。


「レイ君お待たせー。出来たよー」

持ってきた鍋を適当な台の上において、中身をお皿によそっていく。

「……ありがとう、澪葵。早かったな」

「うん、レイ君待たせちゃ駄目だしー。はい、これ」

いつもデートでは散々玲士を待たせている彼女の言だが、そこは追求すべきところではないと玲士はおとなしく差し出された皿を受け取り――

「……っ?!」

一瞬、言葉を失った。
澪葵の作ったものは、どうやらスープらしかった。
……青くて、ドロドロしているが。

「ね、どう?病気なんて一発で治っちゃう感じがしない?」

「ま、まあ、確かに……」

こんな得体の知れないものより強い菌なんて、そうそういないだろう。
が、しかし、彼はどうしてもこれを口にする気にはなれなかった。
どうしたものか、と目の前に鎮座する真っ青な液体(とてもスープとは呼べない)と睨めっこをすること数瞬。
彼の前に、救いの神が舞い降りた。

『ニャー』

「あれ?ニャースだ。どこから入ってきたんだろ?」

『おなかすいたニャ。何か欲しいニャ』

空腹で迷い込んできたらしいニャースは、そう懇願する。
すると、澪葵はそれならばと新しく鍋からよそったスープをニャースの前に置いた。

「ほら、お食べー」

『ありがとニャ』

元気に鳴いたニャースは、その青いスープを一口――――

『ニャッ?!』

飲んだ瞬間、逃げた。

「およ。どしたんだろ」

「…………」

ニャースが舌の先をつけただけで逃げたものが、自分の目の前にあることに改めて恐怖を覚える。
しかし、そんな彼の思いを知ってか知らずか、澪葵はきらきらとした目で玲士を見つめる。

「ま、いいや。ね、レイ君。食べて」

「う……」

そのスープとにらめっこをすること、10秒。
スプーンを片手に、彼は覚悟を決めた。
恐る恐る口に運び……

「――――っ!!」
言葉にならない声をあげ、悶絶する。
今までに食べたことのない感覚が脳髄を刺激し、それはただでさえ熱で弱っていた思考を一瞬にして全て奪い去ってしまった。

「ね、レイ君。おいしい?」

「――――――――っ!」

「えー?何?レイ君、なんて言いたいのよー?」

待てど暮らせど玲士の口から感想が聞こえてこないことに痺れを切らし始めた澪葵だったが、すぐに他のものへと意識を奪われる。
すなわち、ノックという来訪者を告げる合図によって。

「あ、お客さん。あたし、出てくるー」

のたうちまわる玲士をほって、彼女は玄関へと向かった。

「はいはーい、どちらさまですかー?」

開けた瞬間。
澪葵の表情が、凍り付いた。

「澪、葵?」

にこにこと笑顔を浮かべてはいるが、目元がまったく笑っていない浪路がそこに居た。

「え……えーと、ナミちゃん。はろー」

「はろー、とちやいます。澪葵、今何時やと思うてますのん?」

「…………3時。とか?」

澪葵の答えに、浪路は全く笑っていないまま小さく頷く。

「ほな、うちらの出番何時か知ってはります?」

静かに淡々と問いかける浪路に、ええと、と澪葵は小さな声で答える。

「…………4時。とか?」

しかし今度は浪路は頷かなかった。
こめかみをぴくりと動かし、何かを押し殺した声で言う。

「あのね、澪葵。うちらの出番、14時。つまり、2時ですのん」

「あ……あははは……!」

あまりにお約束なその勘違いに、澪葵からは乾いた笑いしか出てこない。
そんな彼女を見て、浪路は小さくため息をついた。

「もう試合も終わってもうたし……どないしてくれるの、ほんま。とにかく、今回来てくれた助っ人さんのとこにお詫びに行きますさかい、澪葵も一緒に行きますよ」

「え、あー……でもほら、あたしレイ君の世話とか、」

「知りません。ほな、行きますよ」

「いやー、人さらいぃいいいい」

「ちょっと、人聞きの悪いこと言わんといてくれはります?」

そうして、澪葵はズルズルと浪路に引っ張って連れて行かれ……そして。
あとには、倒れて身動きの出来ない玲士だけがが残った。


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