夜空に謳う小夜曲 アトライア、セレスタイア、シュネー。 一際輝く星は夜空を明るく鮮やかに彩る。 この間教えてもらったこの星の名は、果たして僕は知っていたのだろうか。 空はどこまでも遠い。 今日は本当に色々なことがあった。 陸での出来事をヴィンターに報告したのが夕方のことで、それから今後のことを相談し、人心地が付いた頃にはもうすっかり日が落ちていて月が辺りを淡く照らしていた。 「ギンカ?」 潮騒に紛れてこつりと甲板に靴音が響く。 呼び声の主は、振り返らなくてもわかる。 「あ……いや、ごめん。マルスだったね」 そう言って笑うのは、僕を助けてくれた恩人。 「いや、ギンカでいいよ。……正直、まだ記憶が曖昧だからマルスっていう名前もピンと来ないんだ」 そう言うと彼女は、そうかい、と僕の隣に腰を下ろす。 ふと彼女の方に視線を遣ると、その腕から手にかけて包帯が巻かれていた。 彼女の怪我は、僕のせいだ。 そう思うと、胸がずきりと痛む。 「……ごめん。僕の事情に巻き込んで」 「ああ、気にするんじゃないよ。だってアンタ、この船の仲間じゃないか」 そう言ってからからと笑うが、彼女の傷は間違いなく僕のせいだ。 今日は数週間振りだという上陸で、またしばらく続く航海のための食糧を市場で見て回る者や色街へ繰り出す者。銘々が僅かな陸での時間を謳歌し、その英気を養うのだという。 「お前さんも海ばっかりで飽きただろ。体力も回復したようだし、気晴らしに少し街でも見てきたらどうだ」 そう勧められるままに船を降りて市場を見ると、なるほど確かに活気がある。 色とりどりの果物や、見たことのない風合いのドレス。くらくらするほど甘い香りの水煙草。様々な店が軒を列ねている中、何となく覗いた一軒の露店に並ぶ中で何となく目を引いたそれ。 吸い込まれそうなくらい深い赤は、彼女の青い髪によく映えるだろう。 「お兄さん、御目が高いね。そいつは掘り出し物だよ」 僕の視線を目敏く追った店主がそう言った。 「いい人への贈り物かい?」 「まあ、そんなところです」 彼女がこの会話を聞いていたなら、間違いなく僕は海に投げ込まれただろう。 そう考えると少しおかしくて、自然と笑みが浮かぶ。 半ば衝動的に買ってしまったが、果たして彼女は気に入るだろうか。もしかしたら鼻で笑われるかもしれない。 そんなことを考えながら船の待つ港へと戻ろうと、町外れに差し掛かった辺りで彼らは突然現れた。 「マルス義兄さん。やっぱり、生きていたんだね」 真冬の海のように澄んだ色の髪の少年……いや、青年だろうか。彼がとても美しい笑顔でそう言った、次の瞬間。 「マルス様……お命頂戴致しますわ」 言うや否や、彼の背後に控えていた女が弾かれたように飛び掛かってきた。 「くっ……!」 咄嗟にその一撃をかわしたけれど、彼女は既に次の動きに入っている。 その一瞬の隙を突いて身を翻し、走る。 走って……何処に逃げればいい? ――マルス。彼らは確かにそう言った。 彼らは僕を知っている。 知っていて、殺そうとしている。 このまま船へ逃げ切ることができれば船にはヴィンター達がいるから助かるだろう。しかしそれは、間違いなく僕の事情に皆を巻き込むことになる。 どうする。どうしたらいい。 「うわ……っ!」 ざり、と小石に足を取られ、その一瞬で一気に間合いを詰められる。 駄目か――! 降り下ろされる刃に目を閉じた――そのとき。 キィン、と耳に響いた硬質な音。 「何やってんだい、あんたたち?!」 ここ最近聞き慣れた声。 忘れるはずのない―― 「シャリ!」 「のろま!ぼーっとしてないでさっさと逃げな!」 目を開けると、シャリが追手の女の刃を受け止めている。 女は間合いを取ると再び刃を構える――が。 「ミレーヌ!」 男が叫ぶとミレーヌと呼ばれた女はハッとしたように振り返って彼の方を見、そして頷くと二人は森の奥へと消えて行った。 「義兄さんは、必ず殺すから」 そう、言い残して。 「立てるかい?ギンカ」 差し出された手を取って立ち上がろうとしたとき、気付いた。 彼女の手に滲む赤。 その視線に気付いた彼女は手を引っ込めると、ああ、と苦笑する。 「大した怪我じゃないよ」 「でも、」 「いいから。あたしがやりたくてやったんだから、あんたは気にしなくていいんだよ。気に病むっていうんなら、その散らばった野菜を拾ってくれないかい?」 そう言われると、何も反論できなくなってしまう。 お世辞にも口がいいとは言えないが、こういうところが彼女の優しさだということを僕は知っている。 そんなことを考えながら足元に散らばるじゃがいもや玉ねぎを拾い集めていると、図上で溜息が聞こえた。 「何だったんだい……あいつら。ギンカのことを知ってる風だったけど」 彼らが去った方を見て、シャリはぽつりと呟いた。 僕を追って来た二人組……男の方は僕のことを兄と呼んだ。 血を分けているであろう弟に何故命を狙われるのかはわからない。 彼らは、僕のことをマルスと呼んだ。きっと、それが僕の本当の名なのだろう。 「あいつらが、あんたの記憶の手掛かりになるかもしれないね」 少しの沈黙を破るように、シャリがぽつりと呟いた。 「……そうだね」 「とにかく。船に戻るよ。今のことはヴィンターに報告するよ」 そう言って歩き出す彼女を、慌てて追いかける。 野菜の入った袋は、思ったよりも重かった。 ――思えば最初から、彼女には助けられてばかりだった。 記憶を失い波間を漂っていた僕を拾ってくれたのも、振り下ろされた剣を受け止めたのも。 彼女は他人の為に傷つくことを恐れない。 そんな彼女だからこそ、身体中傷だらけでもその理由を知ればそれさえ美しいと思えるだろう。 彼女の手は女性にしては節張っていて荒れている。 そんな手を美しいと言ったら、彼女は一体どんな反応をするだろう。 「シャリの手って、僕は好きだよ」 「はぁ?!」 するとシャリは反応に困ったのか、裏返った声を上げると視線を宙に泳がせる。 普段の気の強さから想像できない彼女の様子に、思わず笑みが浮かぶ。 すると彼女は睨み付けるような視線を僕の方へ向ける。 「ギンカ、あんた、よっぽど水浸しになりたいみたいだね」 「そんなつもりはないんだけどなぁ」 彼女の頬が少し赤く見えたのは、僕の気のせいだろうか。 「……あ、そうだ。これ、今日のお礼ってわけじゃないんだけど……シャリが気に入るかわからないけど」 夕方の騒ぎですっかり渡しそびれていたポケットの中のそれ。赤い宝石の埋め込まれた髪飾り。 「何これ。だっさい」 彼女の反応はにべもないものだった。 「ご、ごめん……今度また別のを、」 探してくる、と言うより先に手の平のそれは彼女の手に取られる。 「いいよ。せっかくあんたが選んでくれたんだし。もらっとく、一応」 そう言って笑う彼女が満更でもなさそうに思えたのは、僕の自惚れだろうか。 月の光を浴びる彼女の髪で赤い宝石が煌めいていた。 |