遅めの朝食を終えた頃にデビルズパレスの郵便受けを確認することは、ベリアン・クライアンの日課である。
中央の大地で郵便制度が整備されてから随分と経った。郵便物の差出人は、あれやこれやと依頼を寄越す貴族であることが大半だ。ごく稀に執事たちと個人的な繋がりを持つ者が時候の挨拶などを送ってくることもあるが、何かと忌み嫌われているデビルズパレスへ届けられる郵便物はいつの時代も少ない。
しかし、近頃はそんな郵便物事情に変化が生じ始めた。
1日に1、2通程度だった郵便物は今や10通以上届くことが常で、今後も時間の経過と共に増えていくであろうことは容易に予想できた。
ベリアンは回収した郵便物の開封作業にあたる際、決まって地下の研究室を使用する。機密文書は未だに伝書鳩や鴉が配達を担うとはいえ、絶対にない、とは言いきれない。
ひとつひとつに目を通し、内容に問題がなければ封筒へ戻す。グロバナー家から会議の通達、パーティの準備に関する要請、ファンレター、貴族から任務の依頼、ファンレター、ファンレター、コンサートの歌唱依頼、コンサートの礼状、茶会の招待、ファンレター。淡々と作業を進めていた手がはたと止まったのは、最後の1通にペーパーナイフを走らせようとした時だった。
宛名は流麗なカリグラフィーで書かれていた。『愛しい金糸雀へ』という過度に豪奢な文字も、差出人の名も、もう何度目にしたことか。ベリアンは微かに双眸を眇めながら、内容に目を通した。
案の定、紛うことなき恋文だ。便箋の中には1人の女を恋い慕う真摯な想いが切々と綴られおり、ベリアンは込められた熱量にいっそ感心さえ抱いた。こんなにも情熱的に愛を綴られるなど、世の婦女子にとってこの上なく幸福なことに違いない。
だが、彼の言う金糸雀は想いに応えなかった。断りの連絡はもう何度も入れているというのに、御苦労なことである。
ベリアンは恋文を読み終わると瞑目し、金糸雀――なまえの濡羽色の髪と黒曜石のような瞳を思い浮かべた。まるで嘆息のように、呼気がゆっくりと唇から漏れ出ていく。
なまえはどこまでも晴れ渡る夏空のようなカラリとした性格の女だ。
その歌は人々を惹き付け、その容姿は異性を惹き付けてやまない。なまえは誰しもが抱く柔い部分をついと撫で、肯定し、躊躇うことなく受け入れる。そのため、接した相手の胸に仄暗い執着心や独占欲を宿させることが多々あった。彼女なしでは生きていけない、なんて依存心に支配されている様は薄暗い湖底で空気を求める姿に似ていた。全く恐ろしい女である。
きっと恋文の差出人も、なまえと交した短い会話の中で蜜の味を知ってしまったのだろう。断られたとて尚も縋り付きたくなる気持ちは理解できるが、綴られた想いは届かない。この手紙は彼女の目に触れることなく、灰燼に帰すのだ。
パーティや茶会へ参加した回数に比例するように、なまえに宛てた恋文は数を増した。
ベリアンは最初の1通であれば、その恋文を必ずなまえの手元へ届けることにしている。最優先は彼女の意思であるから、もしも恋文を読んで心を動かされたと言われれば差出人と繋ぐことも厭わない覚悟だった。
しかし、貴族特有の言い回しや、過剰な装飾が施された言葉は異なる世界で育った者には通じない。唯一興味を示したのは、ラブソングを作るための資料にしたいと言ったあの1通のみであった。他の恋文は想いを汲み取られることもなく、妙な言い回しのファンレターだと勘違いされたまま箱の底へ埋もれている。
今日届けられた恋文の差出人も、そんな報われない男たちの中の1人だった。
それでも、自身の想いを告げられるだけ幸せじゃないか。そうやって歯噛みしながら、ベリアンは込み上げる感情を押さえつけるように片手で口元を覆った。
ベリアンは執事だ。主人に対する恋慕の情など、本来決して抱いてはならない立場だ。だから、胸の内にどれだけ強烈な気持ちを秘めていたとして、それはただの一度もなまえの目に触れることなく掻き消える。そうしなければならないし、そうするべきだ。
――だというのに。
先日犯した失態を思い起こして、指先が熱を持った。
なまえは相手の感情の機微に鋭いが、まだ恋を知らないらしくその分野に関しては異常な程疎い。恐らく彼女にはベリアンが吐露した言葉の真意を汲む事はできないだろう。だからと言ってそれを良いことに胸の内を告げるなど、執事に有るまじき不適切な振る舞いであった。魔が差したとしか言いようがなくて、言い訳のひとつも浮かばない。
頬に灯る熱や動悸に似た鼓動は、後悔に由来するのか、それとも喜びに由来するのか、ベリアン自身には分からなかった。
「……なまえ様」
口元を覆う掌に遮られてほとんど声にならなかったにも関わらず、言葉を紡いだ舌には甘美な余韻が纏わりつく。この世で一等美しい響きを孕む音だった。
ベリアンの長過ぎる生において、名前を呼んだだけでこんなにも心揺さぶられる経験などなかった。目を閉じればいつだって屈託のない笑顔を思い起こすことが出来る。彼女が歌と向き合う時の凛とした顔も、食事中に浮かべる幸せそうな顔も、天使との戦いに臨む真剣な顔も、ぼうっと物思いに耽ける顔も、どれもこれもが愛おしくて堪らない。
いつからこんな感情を抱くようになったか。
少し考えて、思い当たる記憶はすぐに見つかった。
それはまだ、なまえが『悪魔に囚われた金糸雀』などと呼ばれる前の話。ベリアンが彼女のことを、これまでに仕えた主と同等に見ていた頃の話だ。
*---*---*
今代の主は、一見すると極めて大人しそうな女であった。
だが御し易そうな面立ちとは裏腹に、口を開けばずけずけと物を言い、下着かと見紛う格好でうろつき、妙な所でこだわりが強く頑固な女であった。第一印象からは想像もし得ないあけすけな性格に、何度眉を顰めて頭を抱えたか。ベリアンは50を超えた頃から、数えることをすっかり諦めていた。
主が育った国には身分制度がなく、平等や平和を殊更に尊んでいたらしい。職業を選択する自由もあり、主は故郷で歌を学び、歌手を目指して下積みをしているのだと語っていた。良く言えば天真爛漫に、悪く言えば奔放に、彼女は自身に与えられた生を心行くまで謳歌しているように見えた。
しかし、それは貴族が統べる厳格な身分制の世において全くの異物である。安寧が万人に与えられる国で積み重ねた価値観など、ほんの少しの悪意によって簡単に踏み躙られてしまうだろう。人々から忌み嫌われ、蔑まれ、虐げられ、彼女が持つ純真は遠からず死ぬ。
ベリアンに出来ることと言えば、主に仮初めの平穏を与え、来たるべき時を出来得る限り遅らせてやることだけだ。
その日もそうだった。
麗らかな陽気に魅せられた主から街に行きたいと要望されたので、ベリアンは二つ返事で彼女をエスポワールへ連れ出してやった。悪魔執事に対する態度が比較的穏やかなエリアを選びつつ行き先を示せば、主は楽器を作る工房や譜面を並べる書店に興味を示した。音楽に向き合う姿勢だけはいつも積極的な女だ。彼女はそよぐ風に髪を遊ばせながら満悦している様子であった。
散策中、微かに聞こえた音色に誘われて街の中心に位置する広場へ向かうと、主は空いているベンチへ腰を下ろしてベリアンに隣へ座るよう言った。仕えている相手と不必要に距離を詰めていると勘違いされては外聞が悪い。そうやって何度か固辞したのだが、ここで妙な頑固さを見せる主に根負けし、結局ベリアンは彼女と並んで楽師が奏でるリュートと異国情緒溢れる歌に耳を傾けた。
「これ5拍子じゃん。この世界ほとんど単純拍子なのに珍しいね」
「以前聴いた西の大地の曲では、変拍子が取り入れられていましたよ」
「西かあ……ええと、ウォールデン家が統治してるっけ?」
「はい、その通りです。よく勉強されましたね」
「こないだベリアンが忙しかった日にルカスが担当してくれたでしょ。そん時ちょっと授業してもらったの」
ベリアンは「そうでしたか」と相槌を打ちながら片眉を上げ、演奏に聴き惚れている主を横目で確認した。
音楽以外の事柄については学習意欲が薄いと思っていたのだが、既に学びを得ていたとは意外だった。ルカスが上手く誘導したのだろうか。交渉を担当する彼ならば情勢にも詳しいし、教師として適任であっただろう。
今後、主は否応なしに貴族と関わる機会も増えていく。そろそろ礼儀作法も学ばなければならないだろうかとベリアンが口元へ手をやった時、演奏が一区切りしたようで、音楽がぴたりと止んだ。
楽師はリュートを下ろしてケースへ収めていく。演奏を聴いていたのは自分たちだけなのではないかと思うくらいに、広場を行き交う者は誰も彼のことを気に留めていなかった。
主は「ねえ」とベリアンの袖を引いて、楽師の前に置かれた器を指差した。
「お金払ってきても良い?」
「それでは私が――」
「ううん、わたしが行きたいの。ちょっと待ってて」
「あ、主様っ」
ベリアンが止める間もなく、ベンチから立ち上がった主は小走りで駆け出してしまった。わざわざ問いかけた意味がまるでない。財布を剥き出しで持った彼女を1人行かせてその場に留まれる訳もなく、ベリアンは溜め息を吐きたいのを我慢して華奢な背を追った。
主は楽師に向けて「こんにちは」と笑いかけると、片付けをしている彼と目線を合わせるためにしゃがみこんだ。そして、舞い込んだ落ち葉しか入っていない器にコインを1枚、2枚と重ねる。
「今の曲、素晴らしかったです。あなたが作ったんですか?」
「俺は作曲なんざできねェよ。ありゃ天使に殺された嫁が作った曲だ」
息を呑む音が、ベリアンのもとまで聞こえた。そして主は「ごめんなさい」と覇気がない声で謝罪を述べた。
「んな顔すんなよ。わざわざありがとな」
「いえ……また、聴きに来ます」
立ち上がった主が深々と頭を下げたので、楽師は不思議そうにそれを眺めて「変な嬢ちゃんだな」と白い歯を覗かせて笑った。
主の故郷には東の大地と似た風習が多い。腰を折って敬意を示す仕草もそのひとつだが、中央の大地に於いて女性ならばカーテシーを行うことが一般的だ。やはり最低限の礼儀作法だけでも早めに講習するべきだろう。
ベリアンは主に倣って頭を下げながら、今後の方針を固めるべく逡巡した。
その後、主は街を離れるまで口数が極端に少なかった。
何やら珍しく熟考しているような様子で視線を伏せ、下を見ている割に石畳の凹みに何度も躓いた。ベリアンはその都度足元に気をつけるよう伝えたが、それでも主はどこか上の空であった。
だが、木立の向こうに屋敷が見えた頃、主は不意に顔を上げて、世間話でも振るように「あのね」とベリアンに話しかけた。
「わたし、葬式って出たことないんだけど、ベリアンは何回出たことあんの?」
「……お葬式、ですか……」
「そう。誰か身近な人が亡くなった経験ってある?」
言葉が出なかった。
悪魔執事という立場には死が近過ぎるし、ベリアンは長く生き過ぎた。これまで見送ってきた仲間の顔を忘れたわけではない。仲間を見送った数は、ベリアンが抱いた後悔の数に等しい。だが、正確な数をすぐに答えることはできなかった。
主はまだこの世界に来て間もないのだ。死を身近に感じたことがないと言っているのだし、悪魔執事の殉職率の高さを伝えることは不安を煽るようで躊躇われる。どう説明すれば良いかとベリアンが口籠っていると、やがて彼女は「あー」と声を上げた。
「ごめん、デリカシーなかった」
「いえ、そんなことは……」
気軽に聞いて回るような話題ではないことは確かだが、だから言い淀んだわけではない。
しかし、主はベリアンの言葉を遮るようにひらひらと手を横に振って「そう。そーなんだよね」と何やらうんうんと納得している。一頻り頷き終わると、彼女は細く長く息を吐いて足を止め、ベリアンを見上げた。
「あのさ、わたしにできること、なんでもするよ」
「主様……?」
困惑に染まる思考もそのままに、茜に染まる景色の中でくっきりと際立つ彼女から目を離せない。
「必要ならどこにでも行くし、いつでも呼び出していいよ。マジで冗談みたいなこと言うんだけど、わたし今、この世界守りたいってめっちゃ思ってる」
主は――なまえは、こんなにも意志の強さを見せる女だっただろうか。
普段きょろきょろと忙しない黒曜石の瞳には、今やほんの少しの揺らぎもない。吸い込まれてしまいそうだ。
いつもにやにやと三日月を描く口元は鳴りを潜め、内に秘めた覚悟を示すように真一文字にきゅっと結ばれていた。
そして、ベリアンはなまえが握り込んでいる拳が微かに震えている事に気がついた。弱く、脆く、小さすぎる両の手は、世界を守るにはあまりに頼りない。なにせ二十余年ぽっち生きただけの無力な女だ。安寧を享受して生きてきた彼女に、天使との戦いを終結させられる力なんてあるわけがない。
だからこそ示された直向きな高潔さが尊かった。彼女が進む意志を示す限り、征く先を切り拓きたかった。どんな理不尽からも護りたかった。そうするために自身が存在しているのだとさえ感じた。
まるで初めて呼吸をしたような、初めて心臓が脈打ったような、初めて視界に色が付いたような、そんな錯覚が衝動となって全身を巡った。
ベリアンはたっぷり時間を掛けながらそれらを抑え込んで、鮮烈な漆黒を見据える。
「ありがとうございます。私も今、主様に生涯を捧げたいと思いました」
ベリアンが笑うと、なまえは「茶化さないでよ!」と気恥ずかしそうに唇を尖らせて踵を返した。背負った物の重みを全く感じさせないまま、華奢な背は軽やかに歩みを進める。
彼女はまだ、ベリアンの言う生涯がどれほど長いのかを知らない。
*---*---*
ベリアンはくすりと思い出し笑いを零した。
なまえは相変わらず口を開けばずけずけと物を言い、下着かと見紛う格好でうろつき、妙な所でこだわりが強く頑固な女であった。あられもない姿で過ごす部分は早く直してほしいものだが、ベリアンが注意をしようとすればフルーレが作った薄手のガウンを自主的に羽織るようになったので、まあ良しとする。
警報が鳴り響くと、なまえはあの言葉を体現するように真っ先に動いた。先日の午後なんて、紅茶を取り落として赤茶に染まった服もそのままに、上着を肩に引っ掛けて部屋を飛び出して行ったくらいだ。
容赦なく削られる日常は脆い。あまりに不安定で寄る辺のない足場は、いつ崩れるとも知れない。甘やかに笑っていた女は、己に這い寄る危険を直視した。ここには、もう死を遠い存在だと思う女はいない。彼女は、もう死地に赴くことを躊躇わない。躊躇わなく、なってしまった。
貴族が寄越してくる依頼に対してもその姿勢は変わらなかった。中央の大地からどれだけ遠くとも、危険を伴う地であろうとも、なまえは天使狩りのためにいつだって日常を捧げた。有事の際は意外なほどの真剣さを湛えて、彼女はどこにでも駆けつけた。ベリアンの予想を超えて、真剣が過ぎるくらいだった。
改めてしっかりと伸びた背筋や、足を揃えて座る姿を見ると、なまえがこの世界のために重ねた努力を思い知らされる。彼女は半泣きになりながらカーテシーの練習を続けているし、既に覚えたマナーのおさらいだって何度も繰り返している。
そんな主人に仕えられることが、誇らしかった。
「ねえ、なに笑ってんの」
なまえはベリアンが零した笑いを見咎めた。さらさらと文字を書いていた手がピタリと止まって、拗ねたような声が上がる。
直ぐ様「失礼いたしました」と頭を垂れて、ベリアンはとっておきの言い訳を紡いだ。
「先日のコンサートも大成功でしたから、次回はどんな素晴らしいものになるかと今から楽しみで」
「マジ!? じゃあそろそろオペラじゃなくて、わたしの曲やってもいいかな?」
「それは止めてください」
なまえは「えー」と不満そうに唇を尖らせた。
ベリアンは以前、彼女が作ったという曲を聞いたことがある。冒頭から叫び声を上げたり喉を使い潰すような歌い方をする上に、歌詞が非常に過激であったため、とてもではないが貴族に聞かせられるようなものではなかった。
美しいソプラノを活かす曲は貴族たちからの受けがいい。なまえは事ある毎に自作の曲を披露したがったが、デビルズパレスの金銭事情が厳しいこともしっかり把握している。有力な貴族が好めばコンサートやパーティでの歌唱依頼が舞い込み、天使狩り以外でも収入を確保できるのだ。そのため、ここで我を押し通そうとしないことがせめてもの救いであった。
「はい、お返事書けた! チェックおねがい!」
「かしこまりました」
手渡されたのはコンサートの依頼を快諾する旨の返事だ。丁寧な筆使いや言葉選びは、幼少の頃から教育を受けてきたことが伺える。きっと貴族のお偉方には好ましく映るだろう。
書き上げた返事に目を通して手直しが不要であることを伝えると、なまえは「おっしゃ!」と伸びをしてソファにぐったりと背を預けた。
一仕事終えた後まで口煩く指摘をすることはしない。ささやかなご褒美にとベリアンはティータイムの用意を進めた。
今やなまえの影響力は無視できない。
先日はナックが『歌唱技術の研鑽という名目で、月々にいただく予算が増えました』と帳簿を片手にほくほくしていたし、『主様のお陰で、最近は交渉が楽なんだよね』とはルカスの言葉だ。
貴族と関わるためにマナーを覚えたい、名前を覚えるために手紙を回して欲しい、と言われた時、ベリアンはなまえが持ち前の奔放さでグロバナー家を始めとする貴族たちとの関係を引っ掻き回す様を想像して戦慄した。
だが、予想に反して彼女は年長者との会話や、自分の立場を守りながら相手から情報を引き出すことに長けていたし、屋敷の外ではしっかり淑女として振る舞うことができた。読み書きと計算の教育を受けただけではとても到達できない域であったから、どこでそのような技術を身に着けたのか尋ねた所『音楽の世界って実力あるのは当たり前で、あとは人間関係が全てだから』と苦々しい表情を浮かべていた。学びたくて学んだというわけではないらしい。
淡いベージュ色で満たされたカップをそっとテーブルに置くと、小さな歓声が上がる。なまえは紅茶を一口含むと、ゆっくり味わってから喉を鳴らして、「ほぅ」と溜め息を吐いた。今日のミルクティーもお気に召したようだ。
「ふふ、おいしー」
「それは良かったです」
「ね、ベリアン。このあとエスポワール行かない? 今日天気良いし散歩したい」
「かしこまりました。お出かけのご用意をいたしますね」
なまえは「ありがとー」と笑って、カップに口をつけた。
燦々と注ぐ陽光を受け止めて、のどかな昼下がりにぴったりな優しいリズムの鼻歌を紡いで、石畳を鳴らしながら街を歩く。なまえにはそんな光景がよく似合う。
この間フルーレが仕立てたミモレ丈のスカートは、今日のような陽気にぴったりだ。それにブラウスと色の薄いカーディガンを合わせよう。ブーツは内羽根のレースアップが良い。軽やかに髪を遊ばせる彼女は世界で一番愛らしく映るに違いない。
エスコート先にはあの広場を選ぼうか。この日和であれば、もしかしたらリュートの音が響いているかもしれない。
まるでお伽噺か、醒めない夢か。そう錯覚してしまうほど安穏とした時間が流れていた。
そして、ふと喉元まで込み上げた願望に気が付く。ベリアンは口元を綻ばせて、儚い祈りに似たそれを胸の内に仕舞い込んだ。
――ああ、今が永遠であればいいのに。
2023/09/26(Tue)